男と女('66) クロード・ルルーシュ <「叙情」と「緊張」という二つの「視聴覚の刺激効果」を挿入する〈愛〉の揺曳>

 男の感情だけが、睦みの時間の中で置き去りにされた。

  「なぜだ?」と男。
  「夫のせいよ」と女。
  「もう死んだ」と男。

  首を横に振る女。

  「汽車で帰るわ」

  その一言を残して、女は去って行った。

  このとき、BGMで流されるメロディの、「心は闇に閉ざされる」などという歌詞は、明らかに説明過剰なもの。

  そして、あまりに有名なラストシーン。

  男は、女を乗換え駅のホームで待った。

  陰鬱な別離を安ホテルに捨てて来た女の脳裡には、男の慕情を拾えなかった悔いが張り付いていたのだろう。

  男を視認して、その思いが弾けたとき、女は男の胸に身も心も投げ入れていった。

  この構図に勝負を賭けた作り手の狙いは見事に嵌って、本作の名は、29歳の無名の新進監督の快挙として、少なくとも、フランス映画史に残る不朽の名作という評価の内に今も語り継がれている。

  しかし、ラストシーンの意味を、観る者は履き違えてはならないだろう。

  形式的には「ハッピーエンド」だが、それは明らかに、ハリウッド文法の文脈で収斂される何かではない。

  そこで、男の胸に身も心も投げ入れた女の心理を支配したのは、男の変わらぬ慕情を切り捨てた、自らの振舞いに対する悔いの念であった。

  そして、その感情が決定的な推進力となったが故に、〈状況心理〉が加速的に反応してしまったのである。

  それが、ラストシーンの本質だった。

  私はそう思う。

  とりわけ、女の自我に張り付く、「非在の存在性」の決定的な重量感が変らない限り、男と女の〈愛〉の行方は、いつまでも「迷宮の森」から解放されないだろう。

  果たしてそこまで、男の慕情の継続力が、逢瀬の時間で絡み合う欲情の鮮度を保持し得るか。

  相当程度、困難であると言わざるを得ないのだ。

  「グリーフワーク」を切に必要とする者の記憶の深淵に関わる、男と女の「タイムラグ」の問題を決して疎略にしてはならないのである。

 
(人生論的映画評論/「男と女('66) クロード・ルルーシュ <「叙情」と「緊張」という二つの「視聴覚の刺激効果」を挿入する〈愛〉の揺曳>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2010/07/66.html