二人を乗せた上野行きの列車が、仙台駅を出発した。
ところがその列車は、激しい積雪のため途中で停止してしまったのである。二人は思い切って、列車を捨てて雪の山道を歩き出した。途中橋を渡り、女は男の後を緩慢な足取りで追っていく。その二人を、もう一人の女が追尾していた。仙台駅で二人を見かけた義子が、ずっと二人を追い駆けていたのである。それを知らない二人は、どこまでも雪道を歩き続ける。男はしばしばその体を雪の上に凭(もた)れかけ、次第に体力を奪われていくようだった。
眼の前に暗いトンネルが見えた。女は心の中で呟いた。
「早くしないと、向こうさ着かねぇうちに・・・」
二人はトンネルの中に踏み込んでいく。男はまたそこで倒れた。かなり体力の消耗が激しくなっている。女はまた、心の中で呟く。
「今だ。今、飲ますんだ・・・」
女はトンネルの片側に凭(もた)れかかっている男に近づいていく。持参してきた手製の毒入りのお茶を、ポットから注いで男に恐々と差し出した。男は女の顔を凝視する。全て納得ずくのように、それを受け取ると静かに飲もうとする。その時だった。「止めれ!」と叫んで、女はお茶を持つ男の手を振り払って、その場でしゃがみ込んで泣き出してしまったのである。
「どうせ死ぬ気なのに、バレちまうよ・・・あんたにはできやしないんだ、人殺しなんか」
男は全て分っていたのである。分っていながら飲もうとしたのだ。
「そんなに俺が憎いのかよ・・・そうだろうな、分るよ・・・えらいとこ連れて来ちまったな。ご機嫌の道行きのつもりがよ。でもしようがなかったんだよな。よう、こっち来てくれよ・・・」
女は男に誘(いざな)われて、男の体の中にその身を埋めていく。しかし突然、男は呻き声を上げた。持病の心臓発作が現われたのである。
「苦しい!アンプル!アンプル!早く!早く・・・頼む!死にたくねぇ!」
男は心臓発作の特効薬を女に求めたのだ。
男がこのような事態を想定していなかったとは思えないが、恐らく新調した服を着るときにアンプルを入れ忘れたのだろう。それが決定的な不覚となってしまったのだ。アンプルを持たない女に、男はそれを求めるが、女はただ慌てて狼狽するばかり。
「だって、どこにもないんだから!私、持ってないから!」
死を覚悟したはずの男だが、断末魔の苦しみに劈(つんざ)かれてしまうとき、常にこのような人間的な弱さを曝け出してしまうのか。
女の中に、殺意などどこにもなかった。
情の深いこの女は、アンプルさえあれば男を助けられると考えたはずだが、今はもう何もできないでいる。激しく狼狽し、他に助けを求められない辛さの中で、ひたすら自分の足を掴もうとする男の足掻(あが)きに抗う以外なかったのである。
「馬鹿やろう!デブ!」
「持ってない!」
「頼むぅ・・・アンプル・・・」
「だって!ないんだもの、アンプル!困ったぁ・・・」
女は恐怖感のあまり、その場を立ち去ろうとした。しかし男の振り絞るような呻き声が、女の全身に降り注いできた。
「居てくれ・・・頼む・・・好きなんだ・・・頼む・・・」
女は男の呻きを振り切って、トンネルを抜け、雪道を裸足で走り去っていく。
走って、走り抜いて、電車に乗り、ようやく駅に辿り着く。女は駅を出てから突然、体に異変を覚えた。流産したのである。
ところがその列車は、激しい積雪のため途中で停止してしまったのである。二人は思い切って、列車を捨てて雪の山道を歩き出した。途中橋を渡り、女は男の後を緩慢な足取りで追っていく。その二人を、もう一人の女が追尾していた。仙台駅で二人を見かけた義子が、ずっと二人を追い駆けていたのである。それを知らない二人は、どこまでも雪道を歩き続ける。男はしばしばその体を雪の上に凭(もた)れかけ、次第に体力を奪われていくようだった。
眼の前に暗いトンネルが見えた。女は心の中で呟いた。
「早くしないと、向こうさ着かねぇうちに・・・」
二人はトンネルの中に踏み込んでいく。男はまたそこで倒れた。かなり体力の消耗が激しくなっている。女はまた、心の中で呟く。
「今だ。今、飲ますんだ・・・」
女はトンネルの片側に凭(もた)れかかっている男に近づいていく。持参してきた手製の毒入りのお茶を、ポットから注いで男に恐々と差し出した。男は女の顔を凝視する。全て納得ずくのように、それを受け取ると静かに飲もうとする。その時だった。「止めれ!」と叫んで、女はお茶を持つ男の手を振り払って、その場でしゃがみ込んで泣き出してしまったのである。
「どうせ死ぬ気なのに、バレちまうよ・・・あんたにはできやしないんだ、人殺しなんか」
男は全て分っていたのである。分っていながら飲もうとしたのだ。
「そんなに俺が憎いのかよ・・・そうだろうな、分るよ・・・えらいとこ連れて来ちまったな。ご機嫌の道行きのつもりがよ。でもしようがなかったんだよな。よう、こっち来てくれよ・・・」
女は男に誘(いざな)われて、男の体の中にその身を埋めていく。しかし突然、男は呻き声を上げた。持病の心臓発作が現われたのである。
「苦しい!アンプル!アンプル!早く!早く・・・頼む!死にたくねぇ!」
男は心臓発作の特効薬を女に求めたのだ。
男がこのような事態を想定していなかったとは思えないが、恐らく新調した服を着るときにアンプルを入れ忘れたのだろう。それが決定的な不覚となってしまったのだ。アンプルを持たない女に、男はそれを求めるが、女はただ慌てて狼狽するばかり。
「だって、どこにもないんだから!私、持ってないから!」
死を覚悟したはずの男だが、断末魔の苦しみに劈(つんざ)かれてしまうとき、常にこのような人間的な弱さを曝け出してしまうのか。
女の中に、殺意などどこにもなかった。
情の深いこの女は、アンプルさえあれば男を助けられると考えたはずだが、今はもう何もできないでいる。激しく狼狽し、他に助けを求められない辛さの中で、ひたすら自分の足を掴もうとする男の足掻(あが)きに抗う以外なかったのである。
「馬鹿やろう!デブ!」
「持ってない!」
「頼むぅ・・・アンプル・・・」
「だって!ないんだもの、アンプル!困ったぁ・・・」
女は恐怖感のあまり、その場を立ち去ろうとした。しかし男の振り絞るような呻き声が、女の全身に降り注いできた。
「居てくれ・・・頼む・・・好きなんだ・・・頼む・・・」
女は男の呻きを振り切って、トンネルを抜け、雪道を裸足で走り去っていく。
走って、走り抜いて、電車に乗り、ようやく駅に辿り着く。女は駅を出てから突然、体に異変を覚えた。流産したのである。
(人生論的映画評論/「赤い殺意('64) 今村昌平 <「弱さの中の強さ」――「不幸への免疫力」が作り出したもの>」より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/64.html