ラスト・ショー('71)  ピーター・ボグダノヴィッチ <青春映画のコアを包括的に吸収した「風景の映画」>

  この映画が秀逸なのは、「風景の映画」としての包括力を持って、「青春映画」のコアの部分を巧みに吸収する表現力を構築し得たからである。

 「風景の映画」―― それは「土地の風景」であり、「時代の風景」であり、その時空で呼吸を繋ぐ「若者たちの心の風景」である。

 「青春映画」のコアの部分とは、「葛藤」、「友情」、「別離」(旅立ち)ということになろうか。

 「ラスト・ショー」もまた、大枠ではこの文脈を逸脱しなかったが、それ以上に、この映画は「風景の映画」としての独特の映像世界を構築していたのだ。

 「土地の風景」については、殆ど枯渇した石油発掘になお縋るような、テキサスの裏寂れた小さな町に吹く砂漠からの強風を描いた、ファーストシーンとラストシーンの描写に象徴される風景である。

 この無言の描写が、本作の本質を語っていたと言っていい。それほどに重要な描写だった。

 誰が何処に住み、誰と誰が男女関係を持っているかについて、大っぴらには言わないが、町の誰もが了解済みである情報網の見えないバリアに呼吸する、件の町を乾き切った砂塵が寒々と吹き荒れていた。

 その町の一画にある古い映画館に焦点を当てた映像からは、殆ど人影が見えなかった。

 このファーストシーンが、知的障害を持つビリーという若者の死を加えたラストシーンに繋がっても、益々、時代の繁栄から遠ざかっていくような、寂れたこの町の変わりにくさを象徴していたのである。

 また、「時代の風景」とは、1930年代に開かれた油田開発の大ブームによってテキサス州の経済を一変させたものの、主人公の若者の一人(デュエーン)が出征していくエピソードに現れているように、この町もまた、第二次大戦後に拡大された軍需経済に依存する以外に、町の経済を支える基盤が乏しい朝鮮戦争期の50年代初頭の風景である。

 そして、その時空で呼吸を繋ぐ「若者たちの心の風景」が淡々と記録されていくが、彼らの自我を押し込めた「その時代の、その町」の風景は、映像に丹念に記録されることもない、「ライオンのサム」と称されたかつてのカウボーイ(古い寂れた映画館主)の呆気ない死を境に、そこだけは予約されたかのような「衰退」のイメージを加速させていったのである。

 「風景の映画」としての包括力が、「若者たちの心の風景」をコアとする「青春映画」のエッセンスを吸収した映像、それが、「The Last Picture Show」という原題を持つ本作の内実だった。

 元より、このような小さな町の共同体社会の中では、大人の力は相対的に強大なので、多くの場合、その力に異議申し立てしたり、反抗したりする若者たちのエネルギーは希釈化されてしまうのだ。

 そこでは本来、青春特有の「仮想敵」の構築が成し得ず、従って、「仮想敵」に対峙する「味方」=「友情共同体」、或いは、「ホモソーシャル」を強力に立ち上げられず、彼らのその有り余ったエネルギーは、〈性〉への蕩尽に向かわざるを得なくなる。

 彼らは〈性〉への蕩尽の対象人格を漁るように求めて、内なるマグマを突き上げていくしかないのである。

 だから、「青春映画」としての「友情」の形成力がしばしば屈折し、〈性〉を巡っての内部炸裂を露呈することも多くなるだろう。

 ここに、三角関係を巡っての親友同士の激しい言い争いの事例を、映像の中から拾ってみた。

 「俺の女と寝たくせに・・・寝たさ」とデュエーン。
 「今も君の女か」とサニー。
 「俺の女だとも。別れたって、いずれ取り返す!そして結婚するんだ」とデュエーン。
 「じきに大学さ、恐らく二度と戻らんだろう。いいだろ、どうせ君とは結婚しない」

 自信を誇示するかのような、このサニーの挑発的言辞に、デュエーンはきっぱりと言い切った。

 「するさ、絶対だ」

 これは、恋人を寝取られたデュエーンが、親友と信じたサニーとのダイレクトに交した会話の一部。

 いずれも、本作の主人公の台詞である。

 この後のシーンは、二人が激昂して殴り合いの喧嘩となって、デュエーンが手に持っていたビール瓶でサムの顔を傷つけるという描写で、二人の友情の破綻を告げる苦いエピソードを挿入した。

 「一番バカなのは、何もしないで老いぼれることさ」

 これは、主人公らが尊敬する「ライオンのサム」が、サニーに語ったもの。

 サニーとデュエーンが、小型トラックでメキシコまでドライブに行っている間に、呆気なく逝去する「ライオンのサム」は、20年前に浮気した女に、自分がのぼせた行為を全く後悔しないという話をした後に放った、唯一の決め台詞らしきものがこの言葉だった。

 「青春映画」を、その時空の断面で切り取ったら、大して代り映えしない風景しか映し出されることはないだろう。

 従って、多くの「青春映画」が、〈性〉のみに関心を持つシークエンスを必要としてしまうのは当然なのである。

 さすがに本作は、ニューシネマの「青春映画」に相応しく、「再生」という名の予定調和に流れ込んでいくことなく、その町に住む者たちの関係もじわじわと削り取られていく「衰退」のイメージを描き切っていた。

 自虐的なまでに、一切の奇麗事の描写を削り切った本作の魅力は、そこにこそあった

 「衰退」する町に呼吸する者には、もう「ノスタルジア」という幻想に縋るしか術がないのだ。

 そういう映画だった。


(人生論的映画評論/ ラスト・ショー('71)  ピーター・ボグダノヴィッチ  <青春映画のコアを包括的に吸収した「風景の映画」>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/01/71.html