不幸という感情

 なぜ自分ばかり、こんな目に遭うのか。なぜ自分だけが、こんな不運なのか。なぜ自分だけが、と無限に続く、この種の被虐観念の強い人々に共通するのは、「全てが公平ではないと我慢できない」という感情と、普通の人の普通の経験ですら、不幸で不運な出来事だと思ってしまうペシミズムであるだろう。

 過剰な公平感覚と濃厚なペシミズムが、ある種の人々を自虐の世界に誘(いざな)っていく。

 件(くだん)の人々には、「自分はもっと多くの幸福を手に入れるべきなのだ」という不満感情が張りついているから、どこかで、「多くの幸福を手に入れて欣喜雀躍(きんきじゃくやく)している」人が自己と比べられているのである。そこに嫉妬心が垣間見えるのだ。公平感覚というものが更に尖鋭化するのは、この嫉妬心なのである。「自分ばかり」という発想の立て方が、もう充分に過剰なのだ。

 「・・・べき」思考の怖さは、自分の不幸感情を、いつも病的なものに高めてしまうところにある。自分の不幸を絶対化し、何かそこに測り知れない哀しみが澱んでいて、どのようにもがいても、その底なしの沼から決して生還できないであろう世界に、永劫に拉致されるイメージしか描き出せない人々がそこにいる。

 単なる経験的不幸の上に、「手に入れるべき幸福」を得られなかった、容易に忘れ難き不満感情が自我に累積されて、ある種の人々は二重の不幸感をたっぷり味わうことになるのだ。どのような経験からも快楽をもらえないという感受性の尖りは、被虐の自己像を過剰に固めていって、いつまで経っても心の平安に辿り着くことができないでいる。

 人生の様々な不幸は、実はそれが解決したときの、えも言われぬ快楽を味わうためにこそある、と発想するようなバランス思考こそ正解なのだ。

 別離、愛の破綻、病苦、裏切り、経済的困窮等々、多くの不幸の存在は、結局、人生に幾許(いくばく)かの彩りを添えるための相対経験であると括る以外ないのである。

 不幸を一時(いっとき)堪(こら)える力が、それを時間の中で中和させ、堪えたという自意識が、最も困難な局面を既に抜け出している。事態の部分的攻略は、常に世界を少しずつ更新する何ものかである。この自意識が僅かばかりの、しかし闇に放たれた一灯の快楽を運んで来るのである。

 全てではないが、大抵の不幸はこれで処理されるだろう。

 何故なら、全ての不幸は、不幸の現実からではなく、不幸であるという、自我なる厄介なものに張りついた集合的なイメージによって、いつも其処彼処(そこかしこ)に存在してしまうからである。不幸という感情が、不幸の全てなのである。
 
 
(「心の風景/不幸という感情」より)http://www.freezilx2g.com/2008/10/blog-post_3704.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)