サイコ('60)  アルフレッド・ヒッチコック <精神異常の闇の深奥に到達した一級の心理劇>

 「ただ一か所、シャワーを浴びていた女が突然惨殺されるというその唐突さだ。これだけで映画化に踏み切った。まったく強烈で、思いがけない、だしぬけの、すごいショックだったからね」(「ヒッチコック 映画術 トリュフォー山田宏一蓮實重彦訳 晶文社

 このヒッチコックの言葉から、有名なシャワーシーンへの拘泥が判然とするだろう。

 ヒッチコックは、映画の前半の三分の一に過ぎない、このシャワーシーンを「最も暴力的なシーン」と設定して、観客の恐怖感の記憶を固定化させることで、その後の物語の流れを少しずつ緩やかにするという表現技巧を駆使していく。

 以下、本人の言葉から確認してみよう。

 「この映画の中で最も暴力的なシーンだ。それからは、映画が進むにつれて、暴力的なイメージはしだいにすくなくなる。最初の殺人の衝撃の記憶だけで、そのあとのサスペンス・シーンを恐怖にみちたものに盛り上げるには充分だからね」

 更に、ヒッチコックは語る。

 「観客心理をわきまえたうえで観客をうまく完璧に誘導してやらなければならない・・・観客の心をある方向に向けさせたかと思うと、さらにまた別の方向にむけさせ、そして、つぎに何が起こるかというところからはできるだけ遠ざけてしまうということ・・・映画の前半の三分の一でスターを殺すなんてことは常識ではありえないことだ。だからこそ、わたしはあえてジャネット・リーというスターを殺した。そのほうがさらにいっそう思いがけないショックをあたえることになるだろうからね」

 それは、人間が如何に「初頭効果」(最初に形成された印象度の強さが、その後にも影響を与えるということ)のインパクトによって、自己の感情が引き摺られていくかという心理を検証するものである。

 その辺りが、凡俗なホラームービーと分れるところだろう。

 凡俗なホラームービーは、「初頭効果」のインパクトの高強度によって観客に与えた感情を維持するために、更に、より過激な暴力描写の連射による、所謂、「驚かしのテクニック」をエスカレートさせるシークエンスを繋いでいくのだ。

 観る者の心理は、その連射によって形成された感情の「閾値」を上げていかねばならなくなり、次第に疲れ果てたところで映画が閉じていくという、定番的なパターンのうちに収斂されるだろう。

 確かに「サイコ」においても、幾つかの「驚かしのテクニック」を駆使しているが、しかしそれは、より過激な暴力描写の連射というよりも、次々に観客を裏切っていく物語展開の巧みな表現技巧によって、事件の本質に肉薄する観客のアプローチを削いでしまうという、ほぼ完璧な映像の仕掛けの範疇に収斂される何かであると言っていい。

 それは紛れもなく、人間の恐怖感情の心理構造に見合ったものである。

 要するに本作は、物語展開を読み解くことで安寧を得るだろう、一般の観客心理を矢継ぎ早に壊していくことのうちに、真の恐怖が横たわることを検証し得た、殆ど史上初の実験映画なのである。

 「この映画は異常性に向かってどんどんエスカレートしていく構造になっています。まず姦通のシーンにはじまって、大金の持ち逃げ、そして殺人、ついでまた殺人があり、最後に精神異常(サイコ)に到達します」(前掲書)

 このトリフォーの言葉は、前述したヒッチコックの説明と決して矛盾しないのだ。

 「異常性に向かってどんどんエスカレートしていく」物語展開が、過激な暴力描写をより希釈化させていく最適テンポの展開の中で、最終的に精神異常(サイコ)の闇の深奥に到達することで、一級の心理劇としての完結点が確保されるからである。


(人生論的映画評論/サイコ('60)  アルフレッド・ヒッチコック <精神異常の闇の深奥に到達した一級の心理劇> 」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/12/60.html