大人は判ってくれない('59) フランソワ・トリュフォー <「見捨てられた子」の負性意識の重量感 ―― 「思春期彷徨」の推進力>

 「僕がいないと父なし子だ」
 「その文句は聞き飽きたわ。うんざりだわ」
 「子供が嫌なら、孤児院にやるわ。私も静かにしたいわ」

 これは、主人公のアントワーヌ少年が、夫婦喧嘩を耳にしたときの会話。
 
 更に以下は、宿題をさぼって、教師に町で見つかって説教されたときの会話。

 「それで済むと思っているのか」
 「母が死にました」
 「済まん・・・知らなかった。病気だったのか?」
 「そうです」
 「何でも先生に打ち明けて、話すんだ。行ってよろしい」

 「母殺し」という普通では考えられない言い訳こそ、少年の自我に刻まれた深い闇の記憶を震源にする事実が、その後の映像展開の中で露呈されるのだが、ここでは少年の心理文脈の伏線が打たれていただけ。

 その直後に、事実を知った母親が憤慨して見せるが、再婚した夫に軽くいなされるシーンの寒々とした風景が垣間見え、少年の非行の問題の根源を浮かび上がらせるのである。

 ともあれ、この「母殺し」の嘘はすぐにバレて、教室にやって来た義父から平手打ちを食らう少年は、抵抗すべき何ものも持ち得ないのだ。

 少年には、「あるべき父性」を表現する「父」を持たないのである。

 「両親だけが厳しく処罰できる」という廊下の会話の一部を、教室内で拾った少年は、その直後の映像で、自分の覚悟の一端を友人に話していた。

 「両親とは、もう暮らせない。僕は自分の人生を送るよ」

 「僕は一人で頑張ります。1人前になったら会って」

 これは、両親宛ての手紙の一節。

 級友の親戚の工場辺りを彷徨する少年が、翌日、件の教師と会ったとき、「昨日は叱られただろう?」と問われ、首を振って去っていく少年。

 そのときの教師の一言。

 「親が悪いんだ」

 その通りである。それ以外の何ものもないからだ。

 その母親は、少年自分の過去の「非行」を語って見せた。

 「ママにも小さいときがあったわ。私も両親に隠し事をしたわ。羊飼いの少年と家出したけど、すぐ捕まったわ。二度と会わないと母に約束して、許されたわ。私は随分、泣いたわ。でも、母には逆らえない・・・」

 母の話を上の空で聞くアントワーヌ少年の、心の風景の空洞感だけが置き去りにされた。

 「退学して、一人で暮らしたい」

 手紙の真意を聞かれて、少年はそう答えた。

 「バカね。何を言うの!私は大学へ行けなくて泣いたわ。パパは学校を出てないから、出世できないの。学校には無駄な科目もあるわ。役に立たないわ。でも、フランス語は誰もがいつも使うわよ・・・」

 聞く耳を持たない子供に向かって、優しさを装って連射される母の言葉の空虚感。

 “突如、病人は起き上がり、子供らに稲妻の如き視線を投げかけた。髪は襟首の上で揺れ、皺は震え、顔は火の如き輝き、一陣の風に形相を変え、怒りに手を突き上げ、アルキメデスの名言を叫んだ。「私は発見した」と。”

 煙草を吸いながら、自分のベッドで読書に耽る少年がそこにいる。

 彼にはバルザックの言葉が身に沁みるようだった。

 「私は発見した」

 これこそ、少年が求めていた心の空洞を埋めるに足る言葉だったのだ。


(人生論的映画評論/大人は判ってくれない('59) フランソワ・トリュフォー <「見捨てられた子」の負性意識の重量感 ―― 「思春期彷徨」の推進力>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/05/59.html