ライフ・イズ・ビューティフル('98) ロベルト・ベニーニ  <究極なる給仕の美学>

 1  軽快な映像の色調の変容



 一人の陽気なユダヤ人給仕が恋をして、一人の姫を白馬に乗せて連れ去った。映画の前半は、それ以外にない大人のお伽話だった。

 お伽話だから映像の彩りは華やかであり、そこに時代の翳(かげ)りは殆ど見られない。

 姫を求める男の軽快なステップが、ミュージカルの律動で銀幕を駆けていく。男は姫を奪ったのではない。「卒業」の青年のように、秩序破壊のメッセージの含みもそこにはない。男はただ、姫をお伽の国に運んだに過ぎないのだ。だから前半のテーマは、「お伽の国へ」というフレーズこそ相応しいだろう。
 
 このような軽快な映像の色調が、後半に入って突然変貌する。

 少しずつ映像が褪せてきて、時代の陰翳を写しとっていく。

 変わらないのは、姫に対する男の愛情だけである。

 男は姫との間に一粒種を儲けていて、家族が自転車で坂を下る微笑ましい描写の中に、時代の澱みと無縁にステップするお伽の住人たちの明朗さだけが浮き上がっていた。

 そこに一片の衒(てら)いも虚勢もない家族の明朗が、映像をずっと救ってきたのだが、当局のユダヤ人狩りの難に遭う瞬間から、映像は明らかな変調を示していく。
 


 2  妻子から収容所のリアリティを削り取る男の孤軍奮闘



 男と愛児は絶滅収容所行きの貨車に乗せられ、男は愛児をガードするだけの余裕しか与えられないのだ。

 貨車の中で、男はひたすら我が子をガードする。

 ユダヤ人でない妻も二人を追い、貨車に跳び乗った。家族を乗せた貨車が復路のない旅を終え、閉ざされた空間に呑み込まれたとき、「愛する者を守る男の物語」が開かれたのである。
 
 絶滅収容所には生活がなかった。

 多くの人々の群れはあったが、当然そこには希望がなく、時間がなく、繋がりすらなかった。

 苛酷な強制労働以外にない地獄の中で、男は愛児に「日常生活」を保証しようとした。地獄を遊技場に読み替えて、そこに希望と時間と繋がりを仮構したのである。妻と切り離された男にとって、今はただ、我が子を守ることだけが人生の全てであった。

 男の視線には、妻子の像しか捕捉されないのである。こうして、男と我が子の綱渡りのようなゲームが始まったのだ。
 
 男は愛児の自我に、収容所のリアリティを刻印するわけにはいかなかった。

 愛児がそろそろ、過去をリアルに記憶できる年齢に達しつつあったからである。収容所が内包するであろう地獄の様相を、愛児の自我に外傷化させないため、男はゲームを寸時でも中断させるわけにはいかなかったのだ。
 
 男もまた、そこに生活を得たのである。希望を得たのである。ウィナーになったら戦車をもらえるというゲームの中で、男は繋がりを確保したのである。
 
 房を隔てた舎内にいる妻に、妻の好きな音楽を、男が届ける描写はひどく胸を打つ。

 「ショーシャンクの空に」(注)をパクったかのようなこの描写は、しかし「ショーシャンク」のスーパーマン氏に溢れていた、普遍的なヒューマニズムを衒(てら)ったものではない。

 男は唯、妻に生活の律動を失って欲しくなかっただけである。地獄の中で、家族の繋がりの可能性を一途に確認したかったのである。男は収容所にあってさえも、家族の時間を継続させずにはいられなかったのだ。
 

(人生論的映画評論/ライフ・イズ・ビューティフル('98) ロベルト・ベニーニ  <究極なる給仕の美学>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/98.html