1 「察しによる曖昧さ」を「美徳」とする、この国の「病理」
あれは何年前だったか、テレビ朝日の看板番組である「朝まで生テレビ」を観ているときだった。
そのときのテーマは忘れたが、その議論の中で、安全保障についてのトークバトルが開かれた。
パネリストには各党の論客が居並んでいたので、私にとって最も知りたい主張を期待していた訳だ。
例によって、議論を仕切る田原総一郎が歯切れの良い突っ込みで、論客たちに対案を求めていた。
そのパネリストの中に、社民党の辻元清美や共産党の小池晃(穀田恵二?)もいたから、今度こそ彼らの安保論が明らかにされ、正々堂々と議論が交わされることを期待していた。
然るに、その論議に中々口を挟まない両党の代表的論客に対して、あろうことか、司会者である田原は余計な口添えをしたのだ。
以下のような言葉だった。
「この人たちに(安保について)聞いちゃ、可哀想なんです」
驚かされた。
と言うより、呆れ果てた。
曲がりなりにも、公党の国会議員たる者が、国の安全保障に対する考え、意見について議論に参加しないどころか、それが免罪符として許されている空気と言論状況に愕然としてし、私は絶望的な気持ちになってしまった。
最もラジカルな討論が展開されると思われている「朝生」ですら、このような澱んだ空気感を引き摺り、冷戦崩壊後、過分に張り付いていたイデオロギー色を漸減してきた当番組において、未だ克服されてない曖昧さを温存させ、一向に公平で対等な議論が開かれないことに、私は大いに苛立ちを覚えたものだ。
タブーとされる「部落問題」や「天皇制問題」を議論の俎上に乗せるほど、尖鋭且つ、勇気ある当該番組を支持していた理由が、このような空気感の澱みとは無縁だったからに他ならない。
私は、「護憲政党」に所属する彼らが、彼らなりの安保論を持っていないことを、ここで指摘したい訳ではない。
彼らの党のHPや、綱領などに眼を通しているから、或る程度、彼らの主張を認識しているつもりだ。
しかし残念ながら、ブラウン管を通しての印象だけを敢えて言えば、彼らは逃げたのだ。
国民の税金によって、国政の一画を担う公党の代表が、国民国家の根幹である安全保障への具体的で明瞭な主張を結ぶことに、一見、躊躇するかの如き反応を示す態度こそ、相手を追い詰めていく類の「激しい議論」を最も嫌い、「察しによる曖昧さ」を「美徳」のように考える、この国の「病理」ではないかと思われるのである。
従って、ここで私が問題にしたいのは、単に、司会者に同情される彼らの立場ではなく、彼らに不必要な同情を寄せる田原のような発言それ自身である。
比較的ニュートラルで、本音バトルを繰り広げて、しばしば傲岸に振舞う態度に辟易するものの、相手に「対論」を求める田原の姿勢を相対的に評価していただけに、この夜の発言を目の当たりにして、正直「またかよ」と思ったのだ。
以来、私はこの番組を全く観なくなった。
観ても意味がないからだ。
ここで言及したエピソードに象徴されるように、意見を異にする者たちが徹底的に議論せずに、最終的には、相手の「察し」を求め、その配慮を願うばかりか、「察し」を求められた者も、言葉に表れない相手の含意を吸収して、その空気に合わせてしまう、この国の精神風土のネガティブな風景に、私は全く馴染めない。
だから、この国は駄目なのだとさえ思う。
例えば、結構人気のある「サンデーモーニング」(TBS)という番組では、大同小異の似たような意見を交叉させて、大体、「権力」や「政府」の悪口を言い合って、予定調和的に軟着陸していくのみで、私はこの番組の中から「見識」に触れる機会が殆どないのである。
例を挙げれば、レギュラーコメンテーターの浅井慎平から、具体的で建設的な提案を一度も聞いたことがなく、「激しい議論」と出会った例(ためし)は皆無。
張本勲の「喝!」に至っては、MLBを憎悪する、この男の矛盾に満ちた嘘話ばかり聞かされるから、反吐が出るほどだ。
一度、「途中降板もありなのでは」という意見を述べた「岩隈降板問題」で、江川紹子が楯ついた勇気に感心したが、この類の、ごく普通の意見の交叉すら存在しないという現実こそ薄気味悪い何かである。
結局、この国では「サロン」の「場」を量産できても、「戦わし、尽くすほどの議論」の「場」を構築することなど無理な相談なのか。
「嗜癖する共依存社会というトラップ」というイメージが、ふっと浮かぶが、このテーマへの言及は別の機会にしよう。
(心の風景/「察しによる曖昧さ」を「美徳」とする、この国の「病理」 より)http://www.freezilx2g.com/2010/06/blog-post_30.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)
あれは何年前だったか、テレビ朝日の看板番組である「朝まで生テレビ」を観ているときだった。
そのときのテーマは忘れたが、その議論の中で、安全保障についてのトークバトルが開かれた。
パネリストには各党の論客が居並んでいたので、私にとって最も知りたい主張を期待していた訳だ。
例によって、議論を仕切る田原総一郎が歯切れの良い突っ込みで、論客たちに対案を求めていた。
そのパネリストの中に、社民党の辻元清美や共産党の小池晃(穀田恵二?)もいたから、今度こそ彼らの安保論が明らかにされ、正々堂々と議論が交わされることを期待していた。
然るに、その論議に中々口を挟まない両党の代表的論客に対して、あろうことか、司会者である田原は余計な口添えをしたのだ。
以下のような言葉だった。
「この人たちに(安保について)聞いちゃ、可哀想なんです」
驚かされた。
と言うより、呆れ果てた。
曲がりなりにも、公党の国会議員たる者が、国の安全保障に対する考え、意見について議論に参加しないどころか、それが免罪符として許されている空気と言論状況に愕然としてし、私は絶望的な気持ちになってしまった。
最もラジカルな討論が展開されると思われている「朝生」ですら、このような澱んだ空気感を引き摺り、冷戦崩壊後、過分に張り付いていたイデオロギー色を漸減してきた当番組において、未だ克服されてない曖昧さを温存させ、一向に公平で対等な議論が開かれないことに、私は大いに苛立ちを覚えたものだ。
タブーとされる「部落問題」や「天皇制問題」を議論の俎上に乗せるほど、尖鋭且つ、勇気ある当該番組を支持していた理由が、このような空気感の澱みとは無縁だったからに他ならない。
私は、「護憲政党」に所属する彼らが、彼らなりの安保論を持っていないことを、ここで指摘したい訳ではない。
彼らの党のHPや、綱領などに眼を通しているから、或る程度、彼らの主張を認識しているつもりだ。
しかし残念ながら、ブラウン管を通しての印象だけを敢えて言えば、彼らは逃げたのだ。
国民の税金によって、国政の一画を担う公党の代表が、国民国家の根幹である安全保障への具体的で明瞭な主張を結ぶことに、一見、躊躇するかの如き反応を示す態度こそ、相手を追い詰めていく類の「激しい議論」を最も嫌い、「察しによる曖昧さ」を「美徳」のように考える、この国の「病理」ではないかと思われるのである。
従って、ここで私が問題にしたいのは、単に、司会者に同情される彼らの立場ではなく、彼らに不必要な同情を寄せる田原のような発言それ自身である。
比較的ニュートラルで、本音バトルを繰り広げて、しばしば傲岸に振舞う態度に辟易するものの、相手に「対論」を求める田原の姿勢を相対的に評価していただけに、この夜の発言を目の当たりにして、正直「またかよ」と思ったのだ。
以来、私はこの番組を全く観なくなった。
観ても意味がないからだ。
ここで言及したエピソードに象徴されるように、意見を異にする者たちが徹底的に議論せずに、最終的には、相手の「察し」を求め、その配慮を願うばかりか、「察し」を求められた者も、言葉に表れない相手の含意を吸収して、その空気に合わせてしまう、この国の精神風土のネガティブな風景に、私は全く馴染めない。
だから、この国は駄目なのだとさえ思う。
例えば、結構人気のある「サンデーモーニング」(TBS)という番組では、大同小異の似たような意見を交叉させて、大体、「権力」や「政府」の悪口を言い合って、予定調和的に軟着陸していくのみで、私はこの番組の中から「見識」に触れる機会が殆どないのである。
例を挙げれば、レギュラーコメンテーターの浅井慎平から、具体的で建設的な提案を一度も聞いたことがなく、「激しい議論」と出会った例(ためし)は皆無。
張本勲の「喝!」に至っては、MLBを憎悪する、この男の矛盾に満ちた嘘話ばかり聞かされるから、反吐が出るほどだ。
一度、「途中降板もありなのでは」という意見を述べた「岩隈降板問題」で、江川紹子が楯ついた勇気に感心したが、この類の、ごく普通の意見の交叉すら存在しないという現実こそ薄気味悪い何かである。
結局、この国では「サロン」の「場」を量産できても、「戦わし、尽くすほどの議論」の「場」を構築することなど無理な相談なのか。
「嗜癖する共依存社会というトラップ」というイメージが、ふっと浮かぶが、このテーマへの言及は別の機会にしよう。
(心の風景/「察しによる曖昧さ」を「美徳」とする、この国の「病理」 より)http://www.freezilx2g.com/2010/06/blog-post_30.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)