叛乱('54)  佐分利信 <「取得のオプチミズム、喪失のペシミズム」―― 短期爆発者の悲惨と滑稽>

 1  獄舎内に渦巻く憎悪のうねり



 昭和10年8月12日、一人の男が陸軍省内の軍務局長室に押し入って、入室するや否や抜刀して、そこにいた軍務局長を袈裟懸けに斬り殺した。

 斬殺された者は、永田鉄山少将。時の軍務局長で、当時の軍部官僚派をリードしていた統制派の実力者でもあった。殺害した張本人は、相沢三郎。現役の陸軍中佐であり、このとき台湾への転出命令を受け、その赴任先に向かう途中の凶行だった。

 信じ難いことに、相沢中佐は事件後も平然と台湾に出向する意志を持ち、捕縛されるまで一貫して冷徹な態度を崩さなかった。それは、当時の軍部内の異様な空気を示すものであり、その空気はまもなく、「2.26事件」という昭和史最大のクーデターに集中的に流れ込んでいったのである。そのクーデターを起こした青年将校たちの合言葉こそは、「相沢に続け」というものだった。
 
 その後、映像はクーデターに失敗して捕縛された青年将校たちが、軍事法廷の場で死刑の判決を下される場面にシフトした。

 裁判長より、次々に、「叛乱罪」の名で宣告を受ける将校たち。

 その名は、元陸軍歩兵大尉、安藤輝三、元陸軍歩兵大尉、香田清貞、元陸軍歩兵中尉、栗原安秀、浪人、磯部浅一、浪人、村中孝次、等々。

 彼らは代々木陸軍刑務所に収監されていく。画面は彼らが収監された後に、相沢三郎の処刑のシーンを映し出した。
 
 「天皇陛下、万歳!」
 
 目隠しを拒んだ相沢は、そう叫んで息絶えた。

 相沢の処刑の銃砲は、演習音で不分明にされていて、その音を獄舎内で聞く将校たちは、口々にその怨念を刻んでいく。
 
 「卑怯な奴らだ!演習の音で処刑を誤魔化しやがる」と村中。
 「叛乱罪とは何だ!暗黒裁判だ」と栗原。
 「皆、統制派の奴らの謀略だ」と磯部。
 
 獄舎内に渦巻く憎悪のうねりが、閉じ込められた限定的空間の中を暴れていた。

 
 ―― 映像は、事件の背景をナレーションで説明していく。
 
 「昭和6年、満州事変(注1)と前後して、全国農漁村は、打ち続く東北地方の凶作など、極度の疲弊にあえぎ、世は不況のどん底にあった。折りしも、帝人事件(注2)を始め、所謂、昭和五大疑獄事件が相次いで起こり、政界財界官界の腐敗堕落はその極に達していた。

 一方、陸軍部内も満州事変による軍備拡張の結果、機構人材共に著しく膨張し、よって生じた二つの派閥、即ち、現代戦を遂行するためには軍事産業を大々的に拡張し、強力な国家総動員体制を敷くことを主張する統制派と、天皇親政の下に国家改造を断行し、依って国難打開を計らんとする皇道派がそれである。

 当時、皇道派青年将校たちは、資本主義社会の矛盾と罪悪 ―― つまり農漁村の疲弊という犠牲の上に立った財閥の繁栄、それと結託した政界軍閥の堕落腐敗に極度の憎悪と義憤を感じていた。相沢事件は、二派対立の真っ只中に投げられた爆弾であった。そして皇道派青年将校たちは、相沢に続け!相沢を見殺しにするな、の合言葉の下に、昭和11年2月26日 ―― 未明、兵数百名を動員し、元老重臣を襲撃、歴史上未曾有のクーデターを敢行したのである」


(注1)1931年(昭和6)、奉天(現在・瀋陽市)郊外で起きた柳条湖事件(柳条湖で満州鉄道の線路を関東軍が爆破した事件)を機に始まった、中国東北地方への侵略戦争。翌年、「満州国」が樹立され、以後、「15年戦争」(実際は継続的な戦争ではなく、この概念把握の不合理性を主張する意見も根強い)とも呼ばれる日中戦争の発端となった。                                           
(注2)1934年(昭和9)、帝人(帝国人造絹糸)の株式売買を巡って、会社関係者や官僚が逮捕された事件。斎藤内閣が総辞職したが、全員無罪となり、軍部による倒閣の陰謀説が有力。           



 2  読経する男



 西田税(みつぎ)という男がいる。

 彼も獄舎内にいて、死刑の判決を受けていた。彼は北一輝(注3)の指導下にあって、クーデターの黒幕とされた人物である。その西田が自分の房舎で腕を組み、落ち着き払っていた。
 
 そんな男の一言。

 「来るべきものが来たな」

 その言葉に、元軍人で、事件の主導者の一人であった磯部は、強い口調で反応した。

 「西田さん。このまま犬死はしませんよ。俺は地獄に行っても、偉い奴らを片っ端から告訴してやる」

 西田は磯部に反応せず、隣の房舎で経を唱えている北一輝に語りかけた。

 「北先生、この裁判は上告も許されないんですか?」

 北もそれに反応せず、読経している。
 


 3  無秩序の液状がラインを成して突沸するシグナルとなって  



 ―― 映像は、ここで事件前の二人の会話を挿入した。
 
 北一輝は自分の占いの結果を、西田に話した。

 「暗雲がかかっているというのです。相沢さんには気の毒ですが・・・」
 
 このとき、相沢事件の公判が展開中で、青年将校たちは公判の行方に固唾を呑んで見守っていた。
 
 「公判闘争をやってる若い連中は、じっとしていませんよ」
 「青年将校のことは君に任せてあるんだから、そこを何とか抑えてもらうんですね」
 「口先だけではもう、若い連中は言うことを聞きません。抑えるのは抑えるだけの理由がなければ・・・」
 「西田君、日本で革命を成功させるには、方法は一つしかないんです。つまり天皇を革命軍の方に奪取する以外にはありません。青年将校も恐らくそこまではできないし、またやっても日本全体が収拾がつかなくなります」
 「では、先生の書かれた『日本改造法案』は机上の空論ということになりますが・・・」
 「まあ、今はね。私の関係した支那革命もそうだったが、革命には革命の時期があるし、大体が中央から起こるものではない。地方から火の手が上がってこなければ難しい。とにかく、ここ当分公判闘争で済むことです。青年将校に理解の深い柳川中将が公判の責任者ですから、悪いようにはしないでしょう」


(注3)主著である「日本改造法案大綱」によって、皇道派の陸軍青年将校に甚大な影響を与えた国家主義者。彼を慕う右腕の西田と共に、二・二六事件連座して処刑されたが、事件の直接的な指導者ではなかったことは、既に周知の事実。          

 
 その柳川中将は、相沢中佐に代わって台湾に「島流し」に遭ってしまって、青年将校は内に抱えたストレスを今にも吐き出さずにいられない精神状況に置かれていた。

 西田は、将校の中でも最も過激な栗原中尉のことが案じられて、彼の上司に当たる、第一師団歩兵第一連隊の山口大尉に相談した。

 まもなく映像は、その山口の前で、栗原がその思いの丈を吐き出す描写に繋がっていく。
 
 「“今に何とかする。今に何とかする”そんな言葉はもう聞き飽きたんです。一体、山口大尉殿なんか、同志として我々を止める以外、何をしてるんですか?」
 「じゃあ聞くが、君たちは事を起こして成算があるのか?」
 「そんなことは、あったってなくたって、構いやしません」
 「無茶を言うな」
 「無茶なのは、軍部ですよ。満州の守りもできていない内に、関東軍は蒙古(注4)の方へ手を伸ばそうとしているじゃないですか?また戦争です。戦争が始まれば、死ぬのは貧乏百姓の倅たちですよ」
 「そんなことは分っているよ」
 「いえ、あなたは分っていません。あなたは弾の下を潜ったことはないんです。山口大尉殿、自分は満州事変に行って、この眼で見てきました。死んだ我々の部下は、一人だって天皇陛下万歳なんて言いやしません。皆、自分の家のことを心配しながら死んだんですよ。農村じゃ、家畜より先に娘を売っているんです。それなのに、政治家や財閥は太る一方です。そんなことで、兵隊に死んでくれなんて教育できますか」。
 「まあ、そう捲し立てるな」
 「国内の疲弊を何とか手を打つこともできずに、ただズルズルと戦争に引き摺られていく岡田内閣なんか、生かしちゃおけません。犬養首相を殺しても、15年の刑です(注5)我々が殺ったって、まさか死刑にはせんでしょう。今度は面白いですよ。相沢事件どころじゃないですからね。自分は断然やりますよ。失礼します」
 
 栗原は、最後に楽天的な言葉を残して、カフェを後にした。


(注4)「蒙古」という言葉には、「間抜けで、古臭い」という意味があり、明らかに漢民族による蔑称であるが故に、モンゴルの人たちは、「蒙古襲来」などに代表される日本史教科書の用語使用の禁止を求めている。因みに、前出の「支那」という語も同様で、差別語の如く使用された時代があったことは事実。それは、外国人が中国を呼ぶ際の蔑称に近い言葉と言っていい。

(注5)1932年5月15日、海軍急進派の青年将校首相官邸を襲撃し、「話せば分る」と答えた犬養毅首相を暗殺した事件。首謀者の海軍中尉である三上卓は、当時の政治の腐敗への国民的怒りから、助命嘆願運動が巻き起こり、その刑罰は、「叛乱罪」による禁固15年という軽微な処分となった。

 
 栗原はその足で、連隊近くの竜土軒に向かった。

 そこは、皇道派青年将校の溜まり場になっている西洋料理店。

 そのアジトには、「11月士官学校事件」(クーデター未遂事件)後で停職処分に遭い、その後、統制派軍部を批判して免官となった村中孝次がいた。

 そこに村中と共に免官となった磯部がやって来て、驚くべき情報をもたらした。それは、彼らの所属する第一師団がその年の3月に、満州に派遣されるという「島流し」の情報。いきり立った栗原は、磯部らと早急の決起を求め、何としてでも2月中に事を起こすことを誓い合った。

 決起を起こすには、歩兵第三連隊の安藤輝三の協力が絶対的に不可欠であると考えた栗原は、同じ皇道派でありながら、決起に消極的な安藤をどうしても説得する必要があったのである。

 まもなく、竜土軒で皇道派将校たちの密議が開かれた。その場で、栗原中尉は安藤大尉に迫っていく。

 「安藤大尉殿、じゃあ、あなたこのまま満州に渡るつもりですか?」
 「安藤、どうなんだ?」と磯部。

 その場に参加しながらも、寡黙を貫いている安藤に迫っていく。

 「俺は今日、公判報告を聞きに来たんだ」

 そう言って、安藤は部下の新川(あらかわ)中尉を連れて帰ろうとした。

 「逃げるんですか」と栗原。
 「栗原、あんまりガタガタするの止そうよ」と新川。
 「何!もう一度言ってみろ!」と栗原。この男は、一人でいきり立っている。
 
 帰隊しようとする安藤を、村中は別室に連れて行った。そこで決起の必要性を説く村中と磯部に対して、部下を持つ現役の将校である安藤は、決起の現実性の困難さを説いて反駁した。

 「つまりですね。事を起こした場合、陛下がどう思われるか、よく考えて見なければならないと思うんです。それに事が不成功に終わった場合、我々は陛下の軍隊を犠牲にすることになります。あなたがたは現役を退かれた方です。しかし自分は現役の中隊長です。部下に対して重大な責任があります」
 「村中さん、直接行動は国家が立つか立たないか、滅亡するかしないかの場合に限って、初めて是認されるべきものだと思うんです」
 「じゃあ、貴様は現状のままでいいと言うのか?」

 安藤に代わって、新川中尉は決起の非現実性を論理的に説いていく。

 「いいとは言いません。自分も現状には不満です。しかし現状が悪いからといって、直接行動に訴えたんでは国家の秩序は成り立ちません。満州の開発が進み、日本製の商品は海外の市場に氾濫しています。この国家の現状を見て、滅亡の危機にあるとは絶対に思えないのです」
 
 
(人生論的映画評論/叛乱('54)  佐分利信  <「取得のオプチミズム、喪失のペシミズム」―― 短期爆発者の悲惨と滑稽>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/54_17.html