トリコロール 青の愛('93)  クシシュトフ・キェシロフスキ <「喪失と再生」 ―― 「グリーフワーク」という問題の艱難さ>

 2  「グリーフワーク」の三つのステージ ―― 「完全喪失期」から「自己防衛期」へ



 「喪失」とは何か。

 ここでいう「喪失」とは、「対象喪失」のこと。

 では、「対象喪失」とは何か。

 「過去が現在を支配すること」である。

 「再生」とは何か。

 「未来が現在を支配すること」である。

 まず、「対象喪失」について。

 愛情の対象人格を喪うに至る、「対象喪失」にとって本質的問題は、「グリーフワーク」の問題に尽きる。

 「グリーフワーク」とは、「対象喪失」の悲哀から精神的に復元していくプロセスのことで、これには三つのステージがあるというのが私の仮説。

 以下、「グリーフワーク」の三つのステージについて。

 1 「完全喪失期」である。

 これは、「自我破壊の危機」の時期でもある。

 それは、この時期の本質が、「過去が現在を完全支配」していることに因っている。

 この時期の危機を本作のケースで見ていくと、自動車事故で夫と娘を喪ったヒロインのジュリーが、「完全喪失」の衝撃によって、病院で自殺未遂を図った行為に現れていると言える。

 2 「自己防衛期」である。

 これは、「旅立ち」、「自己閉鎖」、「関係遮断」、「恐怖侵蝕」という概念によって説明される時期である。

 「グリーフワーク」の中で、これが最も重要なステージなので、丁寧に例証しながら言及していこう。

 そして、この時期の本質が「過去が現在を支配」しつつも、そこからの解放を遂行しなければ、過去が現在を侵蝕し、喰い荒し、時間を解体される恐怖感を抱くが故に、必死に「自己防衛」の手立てを模索せねばならない現実を認知し得ているからである。

 従って、「旅立ち」という名の空間移動を図っても、「喪失」の衝撃とクロスする心理から逃れられない、この「自己防衛期」が最も重要なステージであるだろう。

 この時期を本作のケースで見ていくと、ヒロインのジュリーが、事故に関わる過去の処分を遂行し、パリに旅立つ前に、マットレスのみの部屋で、自分を密かに愛するオリヴィエとの一夜限りの睦みの時間を共有したが、この行為も、彼が有名な作曲家であった夫の協力者であったからである。

 そこに読み取れる心理は、自分を密かに愛するオリヴィエに反応する好意を見せつつも、「過去破壊」の意志が媒介されていたので、ジュリーがオリヴィエを置き去りにしたという文脈である。

 ジュリーの「過去破壊」の「旅立ち」は、「子供のいない部屋探し」から開かれていく。

 「旅立ち」先の大都市で映し出されたジュリーのアクションの中で印象深いのは、「プールでの遊泳」のシークエンスである。

 ところが、交感神経の興奮を抑え、副交感神経の働きを優位にさせる「自己防衛」の故に、リラクゼーションを目的にした「プールでの遊泳」の只中に、ブルーの映像と、心象風景の乱れを表現する唐突な大音響が流されていく描写は、まさに、映像のテーマの在り処を端的に表現したシークエンスであった。

 言うまでもなく、「プールでの遊泳」での大音響は、事故のフラッシュバックを意味する音響的記号である。

 ジュリーもまた、自分が運転していないとは言え、事故車に同乗していたのだ。

 その車内で、夫と娘の死を目の当たりにし、自分だけが助かったという思いがある。

 それ故、彼女の精神状態はPTSDの症状であると言っていい。

 その把握なしに、「プールでの遊泳」でのフラッシュバックの現出は考えられないのである。

 更に、事故を目撃した青年がジュリーを訪ねて来るシークエンスもあった。

 その青年は、事故の現場からネックレスを持ち帰ってしまった行為を恥じ、それを返還しに来たのだが、そんな善意の青年の振舞いも、ジュリーにとって、「関係遮断」のための「旅立ち」を無化する心理効果でしかなかったのである。

 そして最も印象深いのは、「ネズミのエピソード」である。

 何匹もの子ネズミが、自分のアパートの部屋の片隅で巣を作っている現場を視認し、ジュリーは、不動産屋に別のアパートの部屋を探してもらうことを依頼する。

 結局、アパートの住人である娼婦から猫を借りるが、何もできず、その娼婦がネズミ退治を引き受けるという顛末であった。

 ネズミに対する彼女の恐怖感には、「母子愛着」を喚起させるイメージが張り付いているからだろう。

 そして、オリヴィエの訪問。

 彼もまた、ジュリーを忘れられないのだ。

 忘れたい女と、忘れられない男の交叉には、関係性の自家撞着が絡みついて離れないのだ。

 忘れようとしても、次々に事故を想起させ、より煩悶を深めるジュリーだけが、いつも置き去りにされてしまうのである。

 そんなジュリーが、施設に認知症の母を訪ねて、「思い出も何もいらない」と吐露するのだ。

 娘であるジュリーを特定できない母は、思い出を再生できないで、「時間」を繋げない人生を生きているのである。

 過去を破壊したい女と、過去を破壊された女の対比は、存分に残酷極まるものだった。

 そんな折、親しくなった娼婦から呼び出され、彼女が働く如何わしい店に出向いた。

 娼婦の用件は、自分の店に「客」として現れた、実父の話を聞いてもらうことだった。

 セックスを止められないと吐露しながら、娼婦の苦悩に触れ、話し相手になってもらったことに感謝されるジュリー。

 自分だけが苦しんでいないという心理効果は、幾分でも、彼女のグリーフワークの一助になっていくだろう。

 それでもなお、最も苦しい「喪の仕事」というグリーフワークの中枢に、彼女は捕捉されていたのである。


(人生論的映画評論/トリコロール 青の愛('93)  クシシュトフ・キェシロフスキ  <「喪失と再生」 ―― 「グリーフワーク」という問題の艱難さ>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/12/93.html