草の乱('04) 神山征二郎監督 <善悪二元論を突き抜けられない革命ロマンの感動譚>

  結論から書く。

 秩父事件を描いた映画「草の乱」では、事件を知る誰もが考えるように、北海道(野付牛町 現在の北見市)まで逃亡した井上伝蔵の病床での回顧によって事件の概要が語られていくが、肝心の蜂起の後の「前線基地での幹部の闘争放棄=『敵前』逃亡」についての描写の甘さが、映像のリアリティの基幹部分を壊し、単なる「革命ロマンの感動譚」に流してしまったのである。

 「今の日本のありよう、進路に強い危機感を抱いています。国民が望まない方向に日本をもっていこうとする政治の意図を、強く感じます。秩父事件当時の時代状況とも、よく似ているんです(略)明治政府は、養蚕農民を助けるどころか逆をやる。これにつけこんだ極端な高利貸しの横行。消費者ローンの看板が全国どこにでも出ている、今の日本の風景と重なり合いませんか」(「しんぶん赤旗 日曜版」 04.9.12より)

 これは、「秩父事件を映画化したいという思いは、監督になった頃から持ちつづけていました」(同紙より)と語る、本作の作り手である神山征二郎監督自身の言葉。

 良かれ悪しかれ、欧米列強の餌食とならないという大義名分によって、かなり暴力的で人工的な近代国家の構築のための軍事強国を目指したが故に、「集会条例」(1880年公布)、「出版条例」(1869年に公布)に象徴されるように、政治活動の自由を厳しく規制する言論統制を敷いた時代と、好きなことを好きなだけ言えるばかりか、国家権力の「手先」と看做(みな)される警察官に職務質問されただけで激しく抵抗した男子中学生が、あろうことか、拳銃を奪おうとした事件すら出来するほどに権力を恐れない社会風潮があり、更に、1700パーセントもの関税をかけてもらって国に守ってもらえるコンニャク芋農家等(それもWTO交渉で厳しい現実あり)が存在する現代の政治・社会・経済状況を安直に重ねてしまうその能天気さは、いつもながら、この手の表現者の殆ど化石化した常套句、即ち、「今の時代は最悪だ」という根拠の乏しい床屋談義的な言論のレベルを全く越えられていないのである。(注1)

 このように殆ど返す言葉がないような信じ難き歴史観を持ち、多分にイデオロギーの濃度の深い作り手の人間観の底の浅さが、「人民救済を標榜するヒューマニストにも、心の弱さが多分に潜む」という、あまりに当然の人間把握を簡単に素通りしてしまう致命的欠陥を晒してしまうのは、残念ながら、この国の一群の映像作家たちの、確証バイアス過多な「本領発揮」の様態であるとも言えるだろうか。

 従って、この作り手もまた、感情移入を抑えたつもりの人物描写を、結局、お決まりの善悪二元論の「感動歴史活劇」の範疇を越えられなかったのである。

 神山征二郎監督が、安直で粗悪な作品を作ることを好まないタイプの作り手であり、それ故にどちらかと言えば、私自身、特別に揶揄することなく、他人が手掛けない仕事を好むという「スノッブ効果」とか、「希少性の快楽」(人との差異を好む心理傾向で、私の造語)を有するマイナーな映像作家であるという一定の評価をしているだけに、数多の浮薄な作り手たちの手法と同様に、映像の決定的な局面でリアリズムから逃避した本作の出来栄えを受容できなかったのである。

 30年以上もの間、映画化の企画を抱懐していると、事件に対する存分な思い入れによって、その情感系が、内側で堅固な感傷的イメージの粋として化石化されてしまうのだろうか。

 蜂起の後の、「前線基地での幹部の闘争放棄=『敵前』逃亡」についての描写の甘さ。即ち、「善悪二元論を突き抜けられない革命ロマンの感動譚」―― これが全てだった。


 要するに、映像が「前線基地での幹部の闘争放棄=『敵前』逃亡」の中枢に存在したであろう、井上伝蔵の非日常下での立ち居振舞いを物語展開の軸に据えてしまったため、それ以外の人物描写が稀薄になりすぎて、事件の主要な局面である「金屋(本庄市)の戦闘」(10人以上の戦死者を出す)とか、菊池貫平を領袖とする信州転戦や、その流れの中で出来した、「東馬流(南佐久郡小海町)の激戦」(14人の戦死者を出す)といった事件展開との脈絡の描写が弱く、それらは単にエピソード的な位置づけしか持たなくなってしまったのである。

 辛辣に書けば、それらの描写を「幹部逃亡」との脈絡で描き切れないのは、「幹部逃亡」の脆弱さを露呈するからであったとしか思えないのだ。「前線基地での幹部の闘争放棄」について、正確な情報把握を持ち得ない当時の混乱した状況下(注2)では、その人間的振舞いを心理学的に把握し得るのが充分に可能であり(だからと言って、彼らの行為の責任の重さは免れ難いものがある)、それ故にこそ、前述したように、「人民救済を標榜するヒューマニストにも心の弱さが潜む」という、あまりに当然の人間把握をベースにした映像を記録して欲しかった、と指摘せざるを得ないのである。

 要するに、自由民権運動の最高到達点と評価される「秩父事件」の「偉大さ」、「革命性」を強調したいという歴史家たちの、事件に対する特定的な切り取りによる「顕彰」活動の、その特定的な視座に捕捉されたかのような作り手の主観的な思い(ロマンチシズム)が、存分に反映された表現世界の枠組みを、本作は残念ながら越えられていなかったということだ。

 物語展開に対する私の主観を敢えて書けば、この事件をよりダイナミックに、且つリアリスティックに映像化しようとするならば、例えばそこに、菊池貫平率いる信州転戦に至るような異様な緊迫感を伝える状況描写による、客観的で複眼的な視座を持った表現を捨ててはならないと思うのである。

 しかし、それは無い物ねだりであった。

 そのような表現を初めから捨てていたと想像できてしまうのは、「前線基地での幹部の闘争放棄=『敵前』逃亡」という把握が、作り手の中に全く存在しないと思われるからである。

 或いは、それが仮に存在していたとしても、それをリアルに描いてしまうと、「革命ロマンの感動譚」という幻想が根柢から壊されてしまうので、どうしても事件の最も重要な局面から意図的に眼を逸らす以外になかったのであろう。

 現実の歴史をモデルにした映像化に際して、自分の思想性や、観客の反応を意識した商業的発想と無縁に成立し得ないコンテンツ提供への配慮を考えるとき、その辺の特定的な切り取りは、当然の如く、多くの映像作家が自在に駆使する手法なので難詰するには及ばない。

 それにも拘らず、表現的完成度の高さによって映像作品を評価する視座を決して捨てない者にとって、本作の物語展開の、何かあまりに静謐で感傷的な流れ方は、事件から34年後に、死を目前にして、未決の確定死刑囚であった過去を回顧する井上伝蔵を主人公にすることによって、初めから予定調和の「革命ロマンの感動譚」が約束されてしまっていたのである。

 結局、このような作品と付き合うときは、ゆめゆめ「映画から歴史を学ぶ」などという、恐らく、そのとき限りの感傷に流された挙句、歴史のリアリズムを学習したつもりにならないことだ。それ以外ではない。


(人生論的映画評論/草の乱('04) 神山征二郎監督 <善悪二元論を突き抜けられない革命ロマンの感動譚>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/03/04.html