過剰なる営業者

 過剰な営業者は、過剰なる自己像ホルダーか。

 単に度外れた社交家なのか。或いは、他者から必要以上に見透かされることを恐れ過ぎる臆病心が、不必要な煙幕を張ることで、剥き出しの自我をガードするのか。また、自我を囲繞する視線にシャープに反応し、オーバーなマインド・リーディングをそこに加えることで、予定調和に向かって、必要以上のスマイルを連射せずにはいられないのか。

 まるで、そうしなければ認知されないという過剰な自己像が、そこにあるかのようだ。

 他者もまた、私からの営業サービスを常に待っていて、その行き届いた気配りによる安寧を手に入れたがっているという、過度な思い込みに捉われたりもする。そこに共通するのは、彼らは一人でも敵を作りたくないということだ。極端に言えば、自分が関わる全ての人を自分の味方にしなければ気が済まないのである。
 
 だから彼らは旅人になる。

 自分を包囲する小宇宙の旅人になる。

 そして彼らの旅には終わりが来ない。自分を取り巻く視線に、終わりが来ないと信じるからだ。それらの幻想の視線がリアリティを持つと信じる点によって、彼らはあまりに偏頗(へんぱ)な観念論者であるという他はない。

 自分がいつでも他者に注目するわけではないように、他者もまた自分へのウォッチャーではあり得ないという風に、関係の中で自己を相対化できない自在性のなさにおいて、彼らは飛び抜けて偏見居士である。偏見とは過剰なる価値付与なのだ。ここでは、関係の中での自己の存在を必要以上に価値付けてしまっているのである。

 また彼らは、あらゆる人たちから好感を持たれなければ気が済まないと考えるほどに、傲慢居士でもある。世の中に、そのような厚顔な思いを抱く人々だけは許せないと決め付けている人がいることを無視し、そんな人をも敵にしたくないと発想する傲慢さはあまりに自己中心的ですらある。
 
 人から僅かでも嫌われるような事態を恐れる、その自我の狭隘さは、他人の揚げ足を取らずにいられない偏狭なる一言居士と、恐らく、コインの裏表の関係を成している。その自己中心性と主観性、その偏見の度合いと傲慢さに於いて、彼らはいつも関係の深き森に潜むことが叶わないのだ。
 
 手負いを重ねることが怖いのか。
 
 スマイラーや偏屈を通せないと、瞬く間に自己像が壊れると思っているのか。その自己像の破綻が、自らの社会的ポジションを揺るがすことに耐え難いのか。何かに捉われたようなその呪縛感には、自己を間断なく展開していかないと、充分な安寧を手に入れられないと幻想する頑なさが張りついている。

 この頑なさが、その特有の表現様態を突き上げていて、そこでの多忙さが、自らを内深く掘り下げていく系統的な地道さへの隘路となっているのだろうか。
 
 
(心の風景 「過剰なる営業者」 より)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post_5082.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)