相対経験

 経験には、「良い経験」と「悪い経験」、その間に極めて日常的な、その時点では評価の対象に浮き上がって来ない、厖大な量のどちらとも言えない経験がある。

 この経験が結果的に自分を良くしてくれたと思われる経験が「良い経験」で、その逆のパターンを示すのが「悪い経験」である。

 然るに経験は、本質的に内面的であるが故に、それを合理的に価値づけることの困難さと、その価値の予測困難性というものが、初めからそこに内包されている。 

 加えて経験は、経験主体の態度を個性化する傾向を持つ。経験のパイル(注1)が主体を学習させていくことで、主体の態度の個性化を際立たせてしまうのである。この経験主体の学習は、主体中枢の自我の進化や成熟度によって様々な様相を展開するから、単に時々の心地良い経験のパイルが、幸福実感を常に増幅していくこととは限らないのである。

 「私はこの経験によって、勉強させてもらった」と後に回顧される経験は、主体の態度を修復させるほどの心地良い経験として自我に記録されていくだろう。私たちの経験の多くは、その時々の、私たち自身の逢着点から相当の幅を持って評価される相対性にこそ馴染むのである。

 私たちは、日夜ご馳走ばかりを食べるわけにはいかず、見ただけで吐きたくなるものも食べないわけにはいかないときもある。食べることを避けられずに食べるという、この一点において存在価値を持つ食べ物は、絶対的価値を持つと思われるどのような食べ物の存在の仕方よりも、しばしば決定的な価値を有するだろう。状況が価値を作り出してしまうのである。

 この経験が、精神に幅を生む。

 経験の多くは相対的なものなのだ。

 だからどんな経験でも、しないよりはした方が良いと思われる相対経験には、不必要な経験など決してない。相対経験は心に幅を作るトレーニングでもある。心の幅が人生に構えを作る。この構えがスキルになって、人の内側を少しずつ豊穣なものに仕上げるのだ。

 無論、私たちは主観的には、「良い経験」と出会うために時間を開いていく。未来は忽ちのうちに過去になり、その過去を現在の自我が定めていく。更に未来の自我が、それを同質の文脈で固めていったとき、私の軌跡にリアリティが被されるのである。

 私の過去の挫折を、「あれはあれで良かったのだ」という風に、偏光フィルター(注2)を装着して飾り逃げしてしまうことの誤謬は、「認知的不協和の理論」が教える所だった。「悪い経験」も、「良い経験」も、全て私の起伏に富む軌跡の向うに脈絡をもって棲んでいる。無理に飾り逃げする必要などないのだ。

 同時に、「あれがなかったら・・・」と思わせる経験をも無化する必要はない。痛烈な痛みを持って定まった経験が、なお私の現在を食(は)んでいるなら、私はそれに対峙し、いつの日か、それをクリアにする意志をギリギリに捨てないで、少しずつ吐き下しながらもリザーブしていくことである。無理に流そうとしないことだ。無理に流したら、逆流が私を激甚にヒットするに違いないのだ。

 澱みの認知もまた、大切なのである。幸福の実感は、程々でいいではないか。


(注1)建物の基礎などに使われる杭のこと。

(注2)PLフィルターとも言う。カメラのレンズに装着して、色彩のコントラストを高めたりすることで、画像を鮮やかにする機能を持つ。
 
 
(心の風景 「相対経験 」 より)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post_5505.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)