少年時代('90) 篠田正浩 <「思春期前期」の抑制困難な氾濫の中で ―― 汝の名は「擬似恋愛」なり>

 「何も言うな。俺は可哀想なんかじゃない」

 クーデター前のガキ大将の少年が放ったこの言葉が、本作の健全なヒロイズムを根柢から支えている。

 この映画の強さは、そこにある。

 この強さは、そこに至るまで表現してきたものの構築的な強さである。

 従って、その強さは充分に自律的であった。

 ―― そこに至るまでの簡潔なプロットを書いておこう。

 昭和19年の晩秋。

 あと半年もすれば、10万人の死者を出した東京大空襲(1945年3月10日)という、未曾有の大戦災に遭う緊迫した戦況下で、小5の風間進二は、富山の伯父の家に「縁故疎開」(親類・知人を頼る疎開)することになった。

 当然の如く、東京出身の進二は、唯それだけの理由で古典的ないじめに遭うが、その進二に親近感を覚え、私生活面で何かとサポートしたのは番長の大原武。

 ところが、学校内ではよそよそしい態度に終始するばかりか、威張って見せる武の「別人」ぶりを、進二には理解できない。

 進二は問いただした。

 「どうして大原君はこんなに優しいのに・・・どうして・・・」
 「いじめる言うがか?・・・分らんのう!分らんのう!」

 そう言って、進二の頭を押し付ける武が、そこにいた。

 問いただされたガキ大将も、自分の感情を把握し切れないで、彼なりの身体表現を展開するのみだった。

 このような時期の、このような感情を精緻に描き切ったという一点において、本作の評価は揺るがないものとなったと言っていい。

 何より、「児童期後期」の特徴は「思春期前期」と重なっていて、同性・同年齢児によって構成されるミニ集団を作ることで、ミニ集団の枠外に存在する者への排他性を特徴づけ、そこには、固有の価値を持つ、相応の「権力関係」による一定の序列と役割分化が見られるだろう。

 ここでは、「児童期後期」の特徴が、「思春期前期」と重なっているという事実こそ重要である。

 即ち、この時期の男児の場合、身体の外形の顕著な変容によって自我が不安定になることで、自己コントロールが十全に作用しなくなるという由々しき事態が出来するに至るのだ。

 それは、身体の外形の変容が「思春期前期」のステージに踏み込んでいるにも拘らず、当該自我がなお、「児童期後期」のステージに捕捉されているからである。

 しかし、思春期の二次性徴として、精巣や副腎から分泌されるテストステロンなどの性ホルモンの分泌が活発化することで、精神面の不安定さが常態化されていくが、異性感情に大きく振れていく「思春期後期」の氾濫には届くことなく、未だ自我がなお、「児童期後期」のステージにあって、同性関係の延長線上で、「擬似恋愛」という未知のゾーンの只中をダッチロールしているのだ。

 まさに、武の心理的混乱の正体は、彼の身体の変容が、既に「思春期前期」のステージに踏み込んでいるにも拘らず、その自我がなお、「児童期後期」のステージに捕捉されているという矛盾の発現だったと言えるだろう。

 学校内での、進二との「権力関係」の中においても、「思春期前期」のステージに踏み込んでいる武の「擬似恋愛」は、特段に「厄介」な光芒を放っていて、抑性の困難な感情に拉致されて当惑する外なかったのである。

 進二もまた、武の感情を充分に受容できないのは、同様に、異性感情に振れていくことのない「児童期後期」の幼児性を引き摺っていたからだ。

 「進二はお前のために話とるんじゃない。俺のために話とるんじゃ」

 武の放つ、この言葉の含意は重要だ。

 その体型の違いから既に声変わりを果たし、同年代の「児童期後期」の仲間たちを置き去りにして行った一人の少年、それが武である。

 この少年だけが、「思春期前期」に現象化する男性ホルモンによって引っ張られる感情に搦め捕られていたのだ。

 そこに、「擬似恋愛」という未知のゾーンの誘(いざな)いによって、自分でも抑制困難な感情体系を引き摺っていた。

 通常、思春期の子供の内側に出来する氾濫によって、ステップアップした自我の形成を立ち上げ、「仮想敵」を作っていく。

 その「仮想敵」のターゲットは、まず自分自身になるだろう。

 それで処理できない感情を、今度は身近な家族や友人に吐き出していく。
 
 教室では、教師もまた有力な「仮想敵」になる。

 しかし、敗色濃厚の戦時下の時代状況にあって、社会規範の暗黙のルールの中で、大人への反抗は封印されているので、結局、沸騰した感情は、同年齢の仲間たちとの喧嘩や憂さ晴らしなどで処理されていくだろう。

 そこでは、最も力の強い武がボスとなる「権力関係」が形成されていく。

 そんな武の思春期の宇宙の中枢に、垢抜けた都会から飛来して来た、美形の少年の存在が捕捉されることで、武は、進二と名乗るその少年に「擬似恋愛」の感情を抱くに至った。

 いつしか、ガキ大将の少年の内側に、独占感情と嫉妬感情が湧き起る。

 それが、先に武の放った言葉となった。

 ところが、肝心の美形の少年には、武の感情の氾濫が全く理解できない。

 当然である。

 身体の小さい進二は、未だ「児童期後期」の感情体系に収斂されていたのである。

 二人の少年の拠って立つ感情体系には、同年齢の枠組みの制約に収斂されない、「異文化」に近い世界の様態を露わにしていたのだ。

 ガキ大将の「権力関係」が及ばないテリトリー外で惹起した、外部暴力による進二の身に起こった危機を、「スーパーマン」の疾風の振舞いのうちに救った武にとって、進二と二人で収まる、写真館での「思い出のショット」は、殆ど「ハネムーン」の記念写真以外ではなかったのである。

 武の中の、「児童期後期」と重なる「思春期前期」の抑制困難な氾濫 ―― 汝の名は「擬似恋愛」なり。


(人生論的映画評論/少年時代('90)  篠田正浩 <「思春期前期」の抑制困難な氾濫の中で ―― 汝の名は「擬似恋愛」なり>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/12/90_22.html