偽れる盛装('51) 吉村公三郎 <浮薄な感傷を突き抜けた、「世界を分ける踏切」の構図という主題提起力>

 1  「男に踏まれても、それを跳ね返す女の強さ」を身体表現する、京マチ子の圧倒的存在感



 邦画界の狭隘な縛りを抜けて、作家的主体性を貫徹するために松竹を退社した新藤兼人が、吉村公三郎らと作った「近代映画協会」の第一回作品である本作は、男の欲望の犠牲になっていく悲哀を描いた、「祇園の姉妹」(1936年製作)の作り手である溝口健二へのオマージュでもあった。

 しかし、脚本を書いた新藤兼人の思惑がどうであったにせよ、私には本作の基調音が、成瀬巳喜男の「あにいもうと」(1953年製作)のそれに近いという印象を拭えないのである。

 両作の中で重要な役柄を演じた、京マチ子の存在感が際立つからだ。

 恐らく、このような役柄を演じさせたら、京マチ子の全人格が放つ圧倒的存在感は、数多の女優の姑息な「演技力」が嵩(かさ)に懸かって来ても、それらを蹴散らす「身体表現力」において一頭地を抜くものがある。

 近代的自我を保持する、「おもちゃ」(「如何にも的」なネーミング)という名の芸妓をヒロインに仕立て、封建体制下での日本女性の「被害者性」を強調する溝口よりも、どんな体制下にあっても、バイタリティ溢れる生き方を身体表現する成瀬の映像世界のヒロインたちのイメージと、まさに京マチ子の全身が放射する、「男に踏まれても、それを跳ね返す女の強さ」のイメージが見事なまでに重なるのだ。

 爛熟した色気から放射される性フェロモンによって、男を手玉に取る狡猾さを身体表現する「関係支配力」を、その人格の根柢において支え切る「自立的な強靭さ」こそが、″肉体派女優″と揶揄された彼女の本質である、と私は考えている。

 その″肉体派女優″が最も輝いたシークエンスがある。

 京都祇園界隈で、靜乃家という小さな芸者置き屋の唯一の稼ぎ頭である君蝶が、格式の高い置き屋の年増芸者からパトロンを奪ったときの場面だ。

 元々、靜乃家は芸者出身の古風な母の置き屋だが、昔のパトロンの恩義から、住まいである置き屋を抵当にして金銭を工面したため、借金の返済で四苦八苦していた。

 バイタリティ溢れる君蝶が置かれた立場は、置き屋と家族の双方を守るという二重のプレッシャーに捕捉されていたのである。

 その問題は、彼女が男を手玉に取る狡猾さを身体表現せざるを得ない充分な理由に成り得たと言えるだろう。

 そんな状況下で出来した、パトロンを眼の前にしての年増芸者との直接対決は、喰うか喰われるかという世界で生きる女たちの壮絶なリアリティに溢れていた。

 「取ったり、取られたりがウチらの商売や!」

 これは、君蝶を演じる京マチ子の歯切れのいい啖呵だった。

 その挙句、年増芸者との激しい取っ組み合いが開かれて、当然、君蝶の圧勝となった。

 格式の高い芸者置き屋からパトロンを取ったことに恨みを持たれた際に、「パンすけ」呼ばわりされながらも切ったこの気持ち良い啖呵が、君蝶=京マチ子の真骨頂であったという訳だ。



 2  過激な「営業」への怨嗟が爆発した、遮断機の降りた踏切前の悲劇



 しかし君蝶の過激な「営業」は、資金提供力を失ったパトロンからの怨嗟の的となった。

 「お前は薄情な女やな」
 「こっちゃかって、大事な体を提供してまっせ。女房子供があるのに、芸者買いなどしはるさかいや。これに懲りてじっくり反省しいや」

 この怨嗟が、本作のクライマックスシーンに繋がっていく。

 男の怨嗟は、花柳界の温習会(舞踊などの発表会)のステージの只中で爆発する。

 懐に出刃包丁を秘めた件の男が、全く翻意しない女の前で、遂にその刃物を持って切り掛かっていったのだ。

 当然の如く、温習会の「都おどり」のステージは混乱の坩堝(るつぼ)と化し、逃げ惑う人群れを押し分けて、男の殺気だけが特定的な対象人格に向かって牙を剥くのだ。

 温習会のステージから逃げ伸びた女は、細く長く伸びている祇園の街路を疾走する。

 そして女は、遮断機の降りた踏切の前で立ち往生する。

 その踏切に男が追いついて、女の背中から出刃包丁の鋭利な一太刀が切りつけられ、女の悲鳴が捨てられた。

 〈状況〉に捕捉された女の恐怖の感情を表現するBGMの、如何にも芝居じみた仰々しさが些か耳障りだったが、本作のクライマックスシーンは、禍々(まがまが)しい「事件」が内包する、人間の愛憎劇の醜悪さを極める時間のうちに閉じていった。

 しかし、君蝶は生き延びたのである。

 生き延びた君蝶は、すっかり芸妓稼業に嫌気をさしていた。

 映像は、不安な未来を抱える君蝶の嘆息を拾い上げる一方で、君蝶の実妹である妙子の不安だが、しかし、新しい世界での旅立ちをイメージさせる自立歩行の可能性を印象付けてエンドマークに流れ込んでいった。


(人生論的映画評論/偽れる盛装('51) 吉村公三郎 <浮薄な感傷を突き抜けた、「世界を分ける踏切」の構図という主題提起力>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/09/51.html