無防備都市('45)  ロベルト・ロッセリーニ <「時代限定の映画」の賞味期限が切れたとき>

 1  「3つの死の悲劇」を囲繞する者たちのリアリズムの欠損感



 「『無防備都市』と『戦火のかなた』、そしてそれより小さな規模で『ドイツ零年』がおさめたつかのまの成功は、誤解の上に成り立っていた。人びとはネオリアリズモについてさかんに語り、わたしをそれの推定上の父親として、そこにひとつの流派、ひとつの組織、そして新たな美学に至るまで、求めようとしていた。

 見せもの社会が、自分にとってやっかいなもの、ないしは定められた限界を超えた感動を生み出すものをとり込んでしまおうというやりかたが、ここにも見られる。実際には『無防備都市』の新しさは、伝統的な機構が役に立たなくなったので、スタジオを使わなくて映画が撮れるような新しいテクニックを自分で考え出さなければならなかった、という事実のおかげである。このリアリズモは、労働条件から生まれただけのことだ」(「ロッセリーニの〈自伝に近く〉」ロベルト・ロッセリーニ著ステファノ):ロンコローニ編 朝日新聞社/筆者段落構成)

 以上のロッセリーニの言葉はとても正直で、好感が持てる。

 「世界の映画シーンを全く変えてしまったロベルト・ロッセリーニに“戦争3部作”とは、史上、『無防備都市』(1945年)『戦火のかなた』(46年)、『ドイツ零年』(47年)をいう。いわゆるネオレアリズモの揺るぎない代表作であり、未だ鮮烈な衝撃を与えずにはおかない。たとえ、戦争を知らない世代にたいしても、である」(株式会社ジェイ・シー・エー ビデオジャケット解説:杉田誠一)

 こんな褒め殺しが引きも切らない中で、ロッセリーニの言葉は、映画史の画期を成すと言われるネオレアリズモの代表的な映像作家であることの重荷と、過剰なラべリングに対して苛立っているようにも見えるからだ。

 「無防備都市」に対する私の評価は、とても褒め殺しの類に内包される文脈の内に説明できる何かではない。

 この映画に対する私の基本的な感懐を要約すれば、ロッセリーニの強い問題意識と、旺盛な熱意・意欲によって、極めて強引に映像を引っ張り切ったというものだ。

 そのため、ストーリーラインの骨格を支える、3人の中心人物の描写が物語を支配し切ることによって、彼らの「勇敢な生き方」を補填し得るはずの、周囲の登場人物の描写が希薄化し、相当に粗雑になってしまった。

 これは、「二人の殉教者と、愛を求めて路上で射殺される女」についての物語が、劇的に、且つ、特化されて記録されていくというストーリーラインの骨格が強調されるあまり、そこに関わる者たちの肝心の描写が拾えなかったと把握してもいい。

 こうした物語の広がりの切断によって、リアリズムの濃度を希釈化させることで、ドキュメンタリー映画のような雰囲気を壊す「愚」を、意図的に回避しようという狙いを作り手が持っていたとしたならば、それは明らかに、リアリズムについての読み間違いであるだろう。

 因みに、リアリズムには、「展開のリアリズム」と「描写のリアリズム」があり、両者は相互補完することによって、映像に「完成度」の高さを保証するのである。

 前者は、「有り得ない話を作らないというルール」であり、後者は、「個々の状況・情景・人物・事象等の現実性を保証するというルール」のことで、私自身の仮説。

 そのことを考えるとき、ストーリーラインの骨格を支える、3人の中心人物に関わる者たちの肝心の描写を拾うことに、殆ど意味を見い出さないかのような問題意識の拘りが、作り手が望んだであろう、「3つの死の悲劇」を囲繞する者たちのリアリズムの欠損感を惹起させることで、観る者の共感的理解を削り取ってしまったのである。

 一部の例外を除いて、ネオレアリズモの作品にに多く見られる「人物描写の脆弱さ」が、本作において決定的な瑕疵を生んでいるのだ。

 その辺りについては、2で言及していこう。



 2  「人物描写の脆弱さ」の事例について



 「人物描写の脆弱さ」の事例を本作から挙げれば、レジスタンスの指導者マンフレーディの愛人である、マリーナの描写の脆弱さが目立っていたように思われる。

 本作で重要な役割を果たす彼女は、ゲシュタボの手先であるイングリッドとの同性愛に溺れ、麻薬への逃避にも歯止めが効かず、更に、空襲の際に逃げなかったということでマンフレーディに惚れられたものの、その自堕落で退廃的な心情風景が、終始、靄(もや)に霞んでしまって、件の闘士を裏切り続ける心理を彼の冷淡さに収斂させてしまう、如何にも御座なりで、説得力の弱い印象付けで映像処理されてしまったのである。

 僅かに拾われていた、二人の会話。

 「人生なんか汚いものよ。貧乏したら悲惨よ」とマリーナ。
 「哀れなマリーナ。君の幸せとは、大きな家に住んで、いい服を着ることか?」

 このマンフレーディの辛辣な言葉に、マリーナは答えた。

 「愛してくれないからよ。お説教するだけ、他の男たちより悪いわ」

 この会話のみで二人の関係の歪みを斟酌してくれ、と言わんばかりの描写の導入は、最後まで関係をフラットに拾い上げる脆弱さを克服できなかったと言える。

 これ以外でも、「どうも性格が合わないようだ」と、マンフレーディがピーナに吐露する場面があったが、全く深みのない、言わば添え物のようなマリーナの描写は、凄惨な殉教を果たしたマンフレーディの自我を囲繞する周辺背景を、その根柢において空洞化させてしまったのである。

 彼女の存在なしに成立し得ない物語が抱えた瑕疵は、決して小さくなかったのだ。

 また、ピーナの妹に関する描写に至っては、姉の死を知らずにフランチェスコと再会したときの驚きが描かれただけで、その後のフォローが全くなかった。

 たとえ不和であったとしても、姉の死を知って、妹が動揺する描写を簡単に捨てることは、あまりに不自然であるか、それとも映像構成において粗雑過ぎると言えるだろう。

 更に、イングリッドの振舞いも表面的な描写に終始していて、最後まで感情への立ち入り禁止のゾーンを崩すことはなかった。

 彼女たちの人物描写は、「3つの死の悲劇」の悲惨さを際立たせる上で無意味なだけで、厳粛な反独パルチザンの「殉教死の栄光」の物語にとって、リアリズムとの不調和を来す障害でしかないと言いたいのだろうか。

 然るに、このような周辺人物の描写の脆弱さが、却って、主人公たちの苦闘や苦悩の深い部分を照射させなかったのだと、私は思う。


(人生論的映画評論/無防備都市('45)  ロベルト・ロッセリーニ  <「時代限定の映画」の賞味期限が切れたとき>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/04/45.html