夜の河('56)  吉村公三郎 <「色彩が彩る純化した映像による実験作」という隠し味>

 本作は、三つのシークエンスによって説明できる映画である。

 ―― 一つ目は、男と女が初めて結ばれた旅館でのシークエンスだが、このシークエンスまでの経緯を簡単に説明しておく。

 阪大教授竹村が、桜見物で唐招提寺を訪れた際に、京都堀川で京染の店を老父と共に経営するきわと出会って以来、二人の関係は短期間のうちに男女の感情を持つに至った。

 妻子があるのを知りつつも、加茂川の宴会で横恋慕する商人に絡まれ、飽和点に達するほどのストレスを抱えるきわは、その足で竹村と落ち合い、そのまま知人の旅館に宿泊し、殆ど自然の成り行きで睦み合ったのである。

 そのシークエンスを再現する。

 部屋の外に吊るした提灯の赤が、その部屋で見つめ合う男と女の姿形を「深紅」に染めていく。

 「深紅」に燃えたスポットを激しく彩る男と女の感情を、一気に解放系に変容させるシンボリックな構図である。

 岡山行きの可能性を話す男の暗い表情を、全人格的に吸収するような女の情念が噴き出した。

 男もまた、悩みを抱えていたのである。

 悩みを抱えた男の言葉を受けて、女は自分の思いを正直に吐露した。

 「やどす・・・そんな遠い所に行っておしまいやすなんて。やどす・・・いつでもお会いでける。それが励みどして・・・自分でもこんな気持ちになってるなんて、今まで気が付きまへんどした・・・」

 男の手が最近接した女の姿形に自然に伸びて、運命づけられたように二人は結ばれたのである。

 「深紅」に燃えたスポットが、やがて薄らいでいった後の映像は、極めて現実的な話題を拾い上げていた。

 女は、男との間に宿すかも知れない子供の問題に触れたのだ。

 女がこの問題に触れたとき、不安を見せる男の気持ちを見透かして、女はそこだけはきっぱり言い切った。

 「大丈夫どすわ。たとえ出来ても、自分だけの子供として育てますわ」

 男との間に産まれた子を自分で育てる、と言い切った女の凛とした表現のうちに、既に「自立的で近代的な女性像」が表現されている。

 色彩心理については後述するが、ここでは、原色の「深紅」の色彩が求め合い、沸騰しつつある二人の激しい感情を表現するものとして、絵画的構図のうちに効果的に生かされていたことを書き添えておこう。

 ここで切り取られた構図の表現力は、それだけで充分に際立っていて、男と女の不必要な会話を封印する絵柄になっていたのである。

 ―― 二つ目は、脊椎カリエスで入院していた男の妻の死後、初めて会った男と女の、件の旅館でのシークエンス。

 このシークエンスの伏線にあったものは、ブルーの海を背景にした南紀白浜海岸での会話である。

 以下の通り。

 「あんなに長いこと寝ていられると、人間の気持ちの中には、知らず知らずのうちに諦めが出てくる。もう少しのことだ」

 男は、何気なく本音を吐露したのだ。

 女は男の一言に、激しく反応した。

 「もう少しのこと?なにがどす?」

 男を背後にして、蹲(しゃが)んでいた女は、突然振り向いて、怒ったように問いかけていく。

 そして、その場から居たたまれないようになったのか、女は男との心理的距離をも広げつつ、離れて行ったのである。

 「どうしたの?」

 これが、男の唯一の反応だった。

 誰一人いない海岸の一画に、成す術もなく置き去りにされた男がいた。

 きわが竹村の言葉にネガティブに反応したのは、戦後まもない時代の、この国になお根強い封建的な風土を反映する結婚観・女性観が、直截(ちょくさい)に吐露されていたことに対する強い違和感と、女の自我のうちに形成されていた自己像を傷つけるものであったからだ。

 女の自我のうちに形成されていた自己像とは、以下のような文脈で説明できるだろう。

 即ち、「自立的に生きる女性」であり、「その生き方に誇りを持つ人格」であることによって、「深い愛情交歓をベースにした不倫関係を延長させながらも、男の妻の不幸を望むような卑しさとは無縁な自尊感情を持つ者」という自己像である。

 そして、この自己像が推進力となって、男の欺瞞を撃ち抜いたのは、件の旅館でのシークエンスの内実であった。

 以下、そのときの女の、間接的な結婚拒絶の宣言。

 「ウチの周りのもんも、皆その気でいてます。・・・ウチも、先生好きどす。前よりも、ずっとずっと好きです。そやけど、あきまへんねん・・・ウチは、先生の奥さんがお亡くなりになればいいなんて、一遍も考えたことがなかったんですよ・・・やっぱり罪を犯したような気がしてます」

 女はここで、南紀白浜海岸で、「もう少しのことだ」と吐露した男の、何気ない本音に触れて、「待ってた甲斐があった。さあ、結婚しよう」と、男の心理を汲み取った後、こう言い切ったのである。

 「男の人は狡(こす)い。じっと、奥さんの亡くなりはるのを待っておりやした。ウチはそれが遣り切れまへんねん」

 ここまで言われた男は、途方に暮れるばかりだった。

 それこそが、「後妻となる機会を待つ愛人・妾」という類の精神風土が、未だこの国に色濃く残る時代の中にあって、とりわけ、なお根強い封建的な因習が張り付く古都では、この類の精神風土から解放されていない現実が横臥(おうが)しているのである。

 女には、それが辛かったのだ。

 自己像の破綻が耐えられなかったのだ。

 しかし男には、それが理解し難かった。

 何気なく吐露した言葉のうちにこそ、男の本音が露呈されていた事実の重量感が認知できないのだ。

 だから、男だけが置き去りにされてしまったのである。

 「君の言うことがさっぱり分らない」

 男は、そう言うだけだった。

 既に、女の中で封印し切れない男の結婚観・女性観・価値観、そして相互の感情関係の齟齬(そご)が、ここで存分に露呈されていたのである。

 因みに、このシークエンスがメロドラマのカテゴリーのうちに包摂されるものと認知できていても、些か説明過剰な心理表現だったことが惜しまれる。



(人生論的映画評論/夜の河('56)  吉村公三郎  <「色彩が彩る純化した映像による実験作」という隠し味>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/09/56.html