妻('53)  成瀬巳喜男 <覚悟を決めた女、覚悟できない男>

 1950年代初めのこの国の、とある木造家屋が、朝の外光を浴びた裏通りに融合した絵画のようにして、比較的明るい長調の旋律に乗って映し出されてくる。

 今度は、その家屋に住む中年夫婦が、いつでもそうであるような日常の継続性の中で、それぞれの作業に余念がない姿を映し出す。しかしそれも束の間、この映像が刻んでいく現実の様相は、長閑な旋律に相応しくない描写だった。

 夫は咥(くわ)え煙草で外套の埃を庭に払い、帽子を被り、出勤支度を整えている。一方妻は、朝餉(あさげ)の後の片づけを、恐らく、いつものゆったりとした律動によって熟(こな)している。残り物の食べ物を妻が口に頬張って、食器を台所に運んだ場所に、鞄を持った夫が急くようにやって来て、そのまま玄関に直行する。夫はかなり使い古した靴を磨いて、振り向くことなく家を出た。

 その夫の後ろ姿を視界に入れた妻は、無表情に夫の出勤を見守るだけ。そこに、一言の会話を刻むことがなかったのである。

 最後までパラレルに進行する夫婦の朝の風景が炙り出したのは、倦怠期を迎えた子供のいない中年夫婦の日常的現実のさまだった。
 
 その後、夫婦のモノローグが流れていくことで、この映画の主題がどこにあるかということが、観る者に理解されるに至る。
 
 まず、妻のモノローグ。
 
 「この頃の主人って、一体どういうんだろう。私の顔を見ると疲れた、疲れたって・・・・・。いい加減私だって、家庭ってものが嫌になってしまう。もともと、暖簾に腕押し見たいな人で、何を考えてるんだか、さっぱり訳が分らない。だから、私はいつもまでも独り者みたいにイライラしちゃうんだわ。いつまでもうだつの上がらない安月給で、私がこんな内職でもしてるから、何とか家計が立ってゆくんだけど。結婚十年目の夫婦生活ってもの、一体こんなことでいいんだろうか」
 
 更に、夫のモノローグが続く。

 出勤途上での、くすんだ感情がそこに吐露されている。
 
 「どうして、たった二人だけの生活が上手くゆかないのか。妻は一体、俺にどうしろと云うんだろう。一々俺を遣り込めて、それでいい気持ちって訳でもあるまい。この頃、俺はつくづく自分の家が重荷になってきた。家と一緒に妻に対しても、少しずつ気持ちが薄れてゆくのをどうすることも出来ない。長年連れ添ってる夫婦の間っていうものも、考えてみれば案外頼りないものだ・・・それにしても、十年間の夫婦生活から、二人は一体何を得たんだろう。失ったものだけが多いんじゃないだろうか」
 
 夫の名は、中川十一(じゅういち)。妻の名は美種(みね)子。

 中川十一は安月給の会社員。

 結婚して十年になるが、子供のいない夫婦は二階に間借り人を置き、妻の機械編みの副職で、何とか家計を遣り繰りしている。この夫婦は、以上のモノローグで露呈されたような関係が長く続いていて、映像を通してその関係の破綻が顕在化していくことを、観る者に想像させるに充分な導入になっている。
 
 夫の十一が、会社の昼休みにアルマイトの弁当箱の蓋を開けてみると、目刺し四本と沢庵二切れ、そして誇張されたような梅干が一つ。それらがそこに、時代とマッチした細(ささ)やかなる庶民の生活のリアリティを際立たせている。

 十一が弁当を食べ始めると、そこに髪の毛が一本、冷たいご飯の中に混じっていた。彼はそれを不快な表情で取りあげて、捨て去った。妻が作った弁当の粗末さが明け透けに説明されるこの描写の中に、既に、モノローグでの夫婦の関係の有りようが滑稽含みで表現されていた。

 一方、同じ部屋で昼食をとるタイピストの相良房子の持参した弁当の中身は、手の込んだサンドウィッチや果物が、如何にも女性らしい細やかさで綺麗に盛り付けられていた。

 そのコントラストに思わず吹き出したくなるような、成瀬らしい言わずもがなの描写が、映像に生活臭たっぷりの律動感を刻んでいた。
 
 その頃、妻の美種子は、友人である未亡人の訪問を受けていた。

 その友人は嫁ぎ先での居心地が悪くて、子供を連れて自活の道を考えている。古本屋や洋裁店でも開いて、女一人生きていく方途を模索する彼女の眼から見ると、美種子の生活はパラダイスに見えるらしい。それをやんわりと否定する美種子には、未亡人の自立の困難さを見せ付けられて、「誰か心当たりでもない?好きな人でも探しなさいよ」と答えるのが精一杯だった。

 このような描写によって、繰り返し、「女の自立の困難さと、それを乗り越えていく逞しさ、或いは、その悲哀のリアリズム」という、成瀬映画のお馴染みのストーリー・パターンが、既に、ここでもなぞられていく流れが踏襲されているのが了解される。そしてこのパターンの範疇に収まっている、「生活力のない男たちのだらしなさ」という定番的な造形にも変化がない。成瀬的映像宇宙には、常に特別な衒(てら)いがないのである。

 十一は会社の帰りに、間借り人の松山に偶然会って、二人は一杯飲み屋で愚痴を零し合っていた。映像では、松山の愚痴を十一が聞いている場面だけが紹介されている。
 
 「それでも、奥さんがちゃんと働いておられるからいいですよ」と十一。
 「いやぁ、僕は昔の亭主ってだけで・・・・・どうもその分上手く、ピッタリいかないんですよ」
 「ピッタリいかないって、どういう風に?」
 「つまり、昔の亭主にですね、義理のようなもんだけで向かってこられちゃたまりませんからね。女房の気持ちはもう、千里も先に離れているんです・・・僕は近い内に女房と別れようと思ってます。それがまあ、私としての、真心からの贈り物ってものになる訳ですからね」
 
 松山は失業中で、その夫を女房が水商売をして扶養している。松山には、それがいつも重荷に感じられているようである。
 
 
 夜遅く、松山夫人が中川家に帰って来た。当の松山は、二階の自分の部屋で泥酔して横になっている。当家の主はもう布団の中に潜って、本を読んでいる。中川夫人は松山夫人の帰宅を確認して、主人に厭味を言った。

 「狐につままれたみたいだわ」

 そう言いながら、左手でバリバリと下品な音を立てている。煎餅を齧(かじ)っているのだ。右手では、お茶を飲んでいる。

 中川夫人の話は続く。

 「あの人クリスチャンで、前には小学校の代用教員までしてたのよ」
 「それは時と場合には、人間、どんなことでもやるだろうさ」
 
 夫にはどうでもいい話だった。
 
 「だって、あの人がバーの女給だなんて・・・」
 
 音を立てて煎餅を齧る妻の振舞いを、夫は不快な表情で一瞥して、そのまま布団の中に潜り込んだ。それを確認する妻は、何事もないように一日を閉じていく。

 
(人生論的映画評論/妻('53)  成瀬巳喜男 <覚悟を決めた女、覚悟できない男>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/blog-post.html