物理的距離を近接させた、男と女がいる。
右手にポットを下げて、麺や惣菜等を買いに行く、チャイナドレスが眩い女と、キャリアウーマンの妻を持つが故に、夕飯を食べに行く男が出会う屋台での、日常的な交叉がリピートされ、物理的距離を近接させていくのだ。
男と女の交叉の場面で流れるのは、クラシックな雰囲気を醸し出すストリングスによる、「夢二のテーマ」(鈴木清順監督の「夢二」に使用された梅林茂 による楽曲)。
映像とストリングスの哀愁が見事に溶融するのだ。
殆どコミュニティと化したかのような、60年代の狭隘な空間で妖しく絡む社交の累加によって、そこに心理的距離の近接感が生まれていった。
心理的距離の近接感が招来した親和動機の相乗効果のうちに、相互に引き寄せ合う男女感情が生まれていくのは殆ど必然的だった。
親和動機の相乗効果を分娩した直接的契機は、あろうことか、お互いの伴侶が不倫関係にあると信じる「秘密の情報」を共有したからである。
海外出張が多く、留守がちの自分の配偶者の裏切りに対する意地が、対象人格への反発力を作り出したのか、女への最近接を求める男の侵入を、女は、「一線を越えられない」と答えて封じていく。
手を握る辺りまではいくが、男はもう、その先に進めない。
そこには、裏切りに対するリベンジとして、スワッピングへの爛れに流れ込めない社会規範の空気が読み取れる。
それでも、「秘密のスポット」(ホテル・2046号室)を共有した二人は、それもまた、伴侶の裏切りへのアンチテーゼであるかのような、格好の具象的な目標を構築するに至る。
作家志望の男の創作活動に関わる共同作業が、それだった。
いつしか、小説の世界と現実がシンクロし、女は内側に蓄えていた情感を丸ごと自己投入していく。
赤いコートを着込み、カーテンの赤の色彩が眩い「秘密のスポット」に潜り込むことで、明らかに、男の人格的侵入を心地良く受容する女が、そこにいた。
これには伏線があった。
伴侶に愛人ができたことを難詰する女と、難詰される男。
創作の世界を視野に入れた、ロール‐プレーイング(役割演技法)である。
その役割演技を、リアルに演じる二人。
小説と現実がシンクロする、極めてスタイリッシュな映像の独壇場の世界だが、それは、敢えて物語を複雑化させる作り手が観る者に仕掛けた、「出入り口」を見えにくくする表現トラップでもあった。
「女がいるんでしょ。誰でもいい。いるんでしょ」と女。
一瞬の「間」ができる。
「いない」と男。
「とぼけないで。正直に答えて」と女。
ここでも、「間」。
「ああ・・・」
食事をしながら、答える男。
しかし、女からの相手が答えない。
「どうした?」と男。
「苦しいほど哀しい・・・」と女。
女は咽び泣きながら、男の胸に身を預けるのだ。
「練習しているだけなのに。彼は簡単に認めない。あまり深刻に考えたらダメだ」
ロール‐プレーイングという名の「仮想危機トレーニング」に情感投入する女と、それを相対化しない男との心理的距離が、その先にある肉感的ゾーンに届き得る辺りにまで最近接したことを意味するのだ。
それは、小説の世界のうちに、甘美だが、非日常の危うさがねっとりと張り付く、「禁断」の印を被った現実が溶融した瞬間だった。
右手にポットを下げて、麺や惣菜等を買いに行く、チャイナドレスが眩い女と、キャリアウーマンの妻を持つが故に、夕飯を食べに行く男が出会う屋台での、日常的な交叉がリピートされ、物理的距離を近接させていくのだ。
男と女の交叉の場面で流れるのは、クラシックな雰囲気を醸し出すストリングスによる、「夢二のテーマ」(鈴木清順監督の「夢二」に使用された梅林茂 による楽曲)。
映像とストリングスの哀愁が見事に溶融するのだ。
殆どコミュニティと化したかのような、60年代の狭隘な空間で妖しく絡む社交の累加によって、そこに心理的距離の近接感が生まれていった。
心理的距離の近接感が招来した親和動機の相乗効果のうちに、相互に引き寄せ合う男女感情が生まれていくのは殆ど必然的だった。
親和動機の相乗効果を分娩した直接的契機は、あろうことか、お互いの伴侶が不倫関係にあると信じる「秘密の情報」を共有したからである。
海外出張が多く、留守がちの自分の配偶者の裏切りに対する意地が、対象人格への反発力を作り出したのか、女への最近接を求める男の侵入を、女は、「一線を越えられない」と答えて封じていく。
手を握る辺りまではいくが、男はもう、その先に進めない。
そこには、裏切りに対するリベンジとして、スワッピングへの爛れに流れ込めない社会規範の空気が読み取れる。
それでも、「秘密のスポット」(ホテル・2046号室)を共有した二人は、それもまた、伴侶の裏切りへのアンチテーゼであるかのような、格好の具象的な目標を構築するに至る。
作家志望の男の創作活動に関わる共同作業が、それだった。
いつしか、小説の世界と現実がシンクロし、女は内側に蓄えていた情感を丸ごと自己投入していく。
赤いコートを着込み、カーテンの赤の色彩が眩い「秘密のスポット」に潜り込むことで、明らかに、男の人格的侵入を心地良く受容する女が、そこにいた。
これには伏線があった。
伴侶に愛人ができたことを難詰する女と、難詰される男。
創作の世界を視野に入れた、ロール‐プレーイング(役割演技法)である。
その役割演技を、リアルに演じる二人。
小説と現実がシンクロする、極めてスタイリッシュな映像の独壇場の世界だが、それは、敢えて物語を複雑化させる作り手が観る者に仕掛けた、「出入り口」を見えにくくする表現トラップでもあった。
「女がいるんでしょ。誰でもいい。いるんでしょ」と女。
一瞬の「間」ができる。
「いない」と男。
「とぼけないで。正直に答えて」と女。
ここでも、「間」。
「ああ・・・」
食事をしながら、答える男。
しかし、女からの相手が答えない。
「どうした?」と男。
「苦しいほど哀しい・・・」と女。
女は咽び泣きながら、男の胸に身を預けるのだ。
「練習しているだけなのに。彼は簡単に認めない。あまり深刻に考えたらダメだ」
ロール‐プレーイングという名の「仮想危機トレーニング」に情感投入する女と、それを相対化しない男との心理的距離が、その先にある肉感的ゾーンに届き得る辺りにまで最近接したことを意味するのだ。
それは、小説の世界のうちに、甘美だが、非日常の危うさがねっとりと張り付く、「禁断」の印を被った現実が溶融した瞬間だった。
(人生論的映画評論/花様年華('00) ウォン・カーウァイ <最近接点に達した男と女の、沸騰し切った〈状況〉のうちに>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/02/00.html