髪結いの亭主 ('90)  パトリス・ルコント <「死への誘(いざな)い」へと最近接する、「吸収するパワー」としての「愛のパワー」>

 「結婚して下さい」

 一見(いちげん)の客に過ぎない男は、理髪店を譲り受け、それなりに成功しているように見える女に対して、唐突にプロポーズした。

 髪に触れる手触りに異常な執心を持つフェティシストの男にとって、「髪結いの亭主」になることだけが少年期からの夢だったのだ。

 3週間後、店を訪れた件の中年男に、「かほりたつ、官能」を漂わせる女は、驚くほど意外な反応をする。

 「この間は、私をからかったのかしら。もし、本気だとしたら心を動かされました。お気持ちが同じなら、承諾します。妻になります」

 男のプロポーズを、初めから決めていたと思わせる反応をする女が、そこにいた。

 「ここにずっといよう、ここは申し分ない。買い物や手紙を出すのは、僕がやるよ」

 女との共存のみで充足する男の殺し文句だが、どこまでも本音である。

 以降、この理髪店は、二人の生活の全てとなっていくのだ。

 他人の介在を不要とする男と女の関係は、理髪する妻を一日中凝視するだけの男の柔和な眼差しが、その過剰さを端的に表現していた。

 この関係には、愛し合う男と女の感情が見事に勢揃いして、そこに特段の感情の落差も見られないのである。

 男と女の睦みの日々が10年間継続し、関係を支えるパワーに劣化の兆しが読み取れないのだ。

 女に対する男の愛の継続力は、その出会いの日々から全く変わることなく、男の愛に支えられた女の愛もまた、変容する隙を生ずることがないのである。

 男と女の関係様態は、さながら堅固な要塞のようだった。

 しかし、それが幻想であることを、少なくとも女は知っていた。

 「毎日、年をとるんだ」と男。
 「人生って嫌ね」と女。

 この短い会話の中で、「かほりたつ、官能」を漂わせる女は、男の異性愛の対象となった絶対的な存在価値が、不可避なるエージング現象(加齢現象)と共に変容していく現実の怖さを認知しているのだ。

 この会話には、伏線があった。

 二人が、老人ホームを訪ねたときのこと。

 そこには、女に理髪店を譲り渡した元のオーナーが生活していた。

 「ここは死者の場所なんだ」

 老人は、そう言ったのだ。

 「彼女だけが私の命。皆が帰り、扉が閉まれば、全ては、永遠に私たちのためにあるのだ。店が私たちの世界。固い絆に結ばれた二人に、不仲の種など無縁なのだ。幸せになると分ってた。永遠に・・・」

 これは、二人の結婚式の日に、ラジカセで鳴らす自己流のベリーダンス(アラビア風の踊り)を踊る男の、至福なるモノローグ。

 こんな幻想で生きてきた男には、女が日々に感受する怖さが分らない。

 既に、そこに微妙な感情の落差が胚胎しているのだ。

 そして、悲劇が起こった。

 老いによる変容が認知できている女にとって、男の一方的な愛の幻想は、重荷にしかならなくなったとき、女は入水自殺を遂げたのである。

 雷を伴って、弾丸の雨が止まない日、女は「買い物に行って来る」と男に告げて、店を出て、その足で氾濫する河の中に身を投じたのである。

 以下、男に遺した女の遺書。

 「“あなた。あなたが死んだり、私に飽きる前に死ぬわ。優しさだけが残っても、それでは満足できない。不幸より死を選ぶの。抱擁の温もりや、あなたの香りや眼差し、キスを胸に死にます。あなたがくれた幸せな日々と共に、死んでいきます。息が止まるほど長いキスを送るわ。愛しています、あなただけを。永遠に忘れないで”」

 それは、男の愛に支えられた女の至福が幻想である怖さを知悉(ちしつ)する者が、「かほりたつ、官能」を永遠化する、それ以外にない防衛戦略であったのか。



(人生論的映画評論/髪結いの亭主 ('90)  パトリス・ルコント <「死への誘(いざな)い」へと最近接する、「吸収するパワー」としての「愛のパワー」> 」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/03/90.html