雁('53)  豊田四郎 <約束されない物語の、約束された着地点>

 1  特定的に選択された女性



 「これは、東京の空にまだ雁が渡っていたときの物語です」
 
 これが本作の冒頭の説明。言わずと知れた、森鴎外の著名な原作の映画化である。
 

 ―― ともあれ、そのストーリーラインをなぞっていく。

 
 ここに一人の男がいる。その名は末造。

 その稼業は高利貸。そしてこの種の職業を商う負のイメージに違うことなく、この男もまた悪辣である。というより容赦しないのだ。こんな男が妾を持とうと発想するのは、不思議ではないだろう。

 男には夫より遥かに心が冷淡でないお常という妻がいた。そんな妻に飽きたとき、男は自分に妾を紹介する中年女の話に傾いたのである。その女の名は、おさん。彼女は高利貸からの取立ての形に、何とか妾の紹介で相殺しようとしていたのだ。
 
 このおさんの口入によって、特定的に選択された女性の名は、お玉。

 彼女は下町入谷で、子供相手に飴を作って売っている。だからその生活は常に厳しい。彼女の父である善吉は、そんな娘に同情的だが、自分の甲斐性のなさに娘を頼る以外にない男。心根は優しいが、生活力がないのだ。そんな彼女に、おさんからの妾の口入の話がもたらされた。相手は呉服商を営む大店(おおだな)の旦那で、独り身であると言う。

 お玉はその夜、父にその一件を説明した。

 「それなら会うだけ会ってみるか。で、何かい?先様には奥さんはないんだね」
 「ええ」
 「そう贅沢ばかりも言ってられないが・・・ひびの入った体か・・・全くあのことじゃ、本当にお前に済まないと思ってるよ。嫌な男があったもんだ。本当のお婿さんだとばかり思っていたのに、奥さんが子供まで連れて、怒鳴り込んで来たときには、お父つぁんもう、びっくりするやら、悔しいやら・・・お前が井戸に飛び込もうとしたときは、お父つぁんもいっそ、死んじゃおうかと思ったよ」
 「もういいわ、その話・・・いくら考えてみても、なるようにしか、ならないんですもの」

 この会話で分るように、この父娘には複雑で、辛い過去があったことが了解されるのである。
 

 お玉と末造の最初の出会いは、おさんの仲介により、旧制大学近くの旅館の一室で実現した。その席には、お玉の父善吉も同席していたが、映像は、そこでの会話を映し出さない。
 
 作り手がその直後に映し出した映像は、既に大学近くの無縁坂に一軒家を借りた末造が、お玉に優しく振舞う描写だった。



 2  一匹の蛇と籠の鳥



 その妾宅には、お玉を世話する娘がいるが、当然の如く、父の善吉は同居していない。彼は女中付きで小さな家を、末造に充てがわれていたのである。そんな父がしばしば娘に会いに行くが、末造が立ち寄っていることが多く、なかなか父娘の再会はままならなかった。
 
 一方、妾宅に通い詰めの夫に不信を持った末造の妻のお常は、夜遅く帰って来た夫を問い詰めた。

 「今まで、どこにいたんです?もう何もかも分ってます」
 「どうしたんだい?何が分ったんだよ」
 「よくそんな、しらばっくれて、いられろことね・・・少しばかりお金ができたからって、昔のこと忘れやしないでしょうね」
 「忘れようったって、忘れられやしないやな。自分のことだもの」
 「大学の小使いだって、学生さんの使い走りして、一銭二銭貯めていたときのことを・・・」
 「えー?一体それがどうしたんだよ」
 「そんなに苦労して貯めたお金を、狐に騙されて使うなんて・・・あなた、商用があるとか何とか言って、囲い者なんかこしらえて!」

 妻の嫉妬心が、一気に爆発した瞬間だった。

 だが妻の爆発は未だ、一過的なものだった。末造はそんな妻の悋気(りんき)を上手に吸収して、その場は何とか取り成したのである。夫に宥(なだ)められ、安堵した妻はまもなく蚊帳(かや)の中で、だらしない寝姿を晒していた。

 それが、夫の浮気の原因の一つであると思わせる描写だった。いつの時代でも、こんな夫婦の様態は殆んど普遍的な流れ方をするものである。
 

 一方、妾宅では、末造の人となりが、お梅という女中によって語られている。

 「旦那さんは、いい人ですね」
 「そうぉ?どうして?」
 「だって、おかみさんの言うことなら、何でも、フンフンと聞いて下さるじゃありませんか」

 こんな何気ない会話の中に、お玉に熱を上げる末造という中年男の感情が端的に説明されている。

 その末造がお玉の元に、この日もやって来た。お玉はお梅に命じて、魚を買いに行かせた。ところが、未だ少女の面影が強いお梅は、魚屋で思いもかけないことを言われたのである。

 「ウチには高利貸の妾に売る魚はないんだから」
 「旦那は高利貸なんかじゃないですよ」とお梅。
 「もう一度顔洗って、出直しておいで」

 お梅は帰宅して、お玉にそのことを告げた。お玉は初めて聞く末造の素性に、殆んど確信的な疑念を抱くが、そのことを男の前で問いただすことをしなかった。
 
 
 まもなくお玉は父と会って、その一件を正直に告げた。
 父は末造が高利貸と知って驚くが、甲斐性のない自分には何もすることもできない。だから娘に、本音でない甘え切った思いを洩らしたりする。

 「・・・お父つぁん、元の飴屋に戻ろうか」
 「いいのよ・・・その代わり私、これからは決して人に騙されないつもりよ。これでも私、あの人が思うほど、赤ん坊じゃないつもりよ」

 相手が何者であろうと、自分が手に入れた立場を守ろうとするお玉の気持ちの中には、生活力のない父に頼れない思いが横臥(おうが)している。今さら飴細工売りの厳しい生活に戻りたくないという気持ちが強かったのである。

 その帰路、彼女は偶然、末造の妻のお常と出会った。

 お玉はお常の素性を知らないが、同じ日傘を差すその姿に予感を察知したのだろう。お常もまた、それに気づいていた。彼女はお玉が質流れの反物で作った着物を身につけているのを見て、お玉と同様の疑念を深めたのである。お常は偶然、その道を通ったかどうか、映像で定かではないが、悋気の強いその性格から夫の妾宅を探していたのかも知れないのである。
 
 その妾宅にお玉が戻ったとき、隣家の裁縫のお師匠さんであるお貞の下に、高利貸の末造に苦しめられているおしげが待っていた。

 「ご無理なことと、重々承知して参ったのでございますが・・・」
 「あのう、何かお役に立ったら、あたし・・・」とお玉。

 おしげに近づいて、優しい言葉をかけた。おしげはそんなお玉を睨みつけ、迫っていった。

 「お玉さんとか言いましたね。この着物には恨みがこもっているんですよ。あんたは贅沢三昧でいいだろうけど、泣いてますよ、他の人は・・・こんなあどけない顔をして、高利貸の妾になるなんて。毎日のご飯、どんな気持ちで食べてるんです?」

 胸倉を掴まれたお玉は、予想もしない女の攻撃にただ後ずさりするばかりだった。彼女は隣家の木戸を開けて、自宅にこもって、泣き伏してしまった。

 
(人生論的映画評論/ 雁('53)  豊田四郎 <約束されない物語の、約束された着地点> 」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/53_19.html