1 「家族主義の時代」の物理的目玉商品
優れた社会派ドラマは優れた人間ドラマに補完されることによって、最強の社会派ドラマであることを典型的に検証した映像―― それが「クイズ・ショウ」だった。
以上の視点で批評していくが、この章では、映像の文化的背景について簡単に触れておく。
「古き良き時代」の代名詞とも言えるアメリカのフィフティーズ(50年代)を特徴付けるのは、道徳的規範の拠点となる家族を中心とする大衆消費文化の目立った展開であった。
戦勝気分も手伝って、人々が押し並べて裕福な生活を渇望し、家族のために消費することが社会の安定に直結するという「家族主義の時代」こそ、ゴールデンエイジと呼ばれるフィフティーズの基幹のイデオロギーだったと言える。
そんな時代が分娩した大衆消費文化の勃興は、「家族主義の時代」の物理的目玉商品として、1954年に54%の普及率を誇ったと言われるテレビジョンの顕著な文化現象だった。テレビを介して消費文明を拡大的に定着していくことで、企業スポンサーと消費者の関係がより直接的に近接し、その需要と供給の相関性がより強化されていったのである。
従って、テレビ番組のスポンサーとなる企業がテレビ局に求めるのは視聴率の安定的推移のみとなる。近年のインターネットの著しい普及によってその内実に由々しき変化が見られるとは言え、両者のこの根深い関係性はテレビの制作現場の基本命題となって、21世紀の現在となってもなお変わらない構造性をギリギリに保持しているだろう。
ともあれ、テレビ文化の顕著な台頭を特徴づけたフィフティーズの中で、視聴者参加型のクイズ番組、それもアメリカン・ドリームを象徴するかの如き一獲千金のギャンブル性を備えたクイズ番組の隆盛は、勤勉と合理主義の精神を尊ぶプロテスタンティズムのメンタリティから逸脱する風潮とも言えるが、第二次大戦後、一人勝ちした感の深いこの国の資本主義の澎湃の必然的展開であったとも捉えられるだろう。
今でもアメリカには、平均100億を手に入れることができるばかりか、「2002年末に3億ドル(約350億円)という記録的1等当せん額を出すパワーボール」(「確率論の入門基礎」HPより)という高額ロトくじ(宝くじ)があるが、しかしそれは所詮、単なる運不運のレベルの問題に過ぎない。
しかしフィフティーズの時代の中で、実録映画のモデルになった「21」というクイズ番組は、映像に記録された「事件」の影響力を見ても判然とするように、「広範囲な教養を持つ立派なアメリカ人」を志向する大衆の格好のモデルとして要請され、それを手に入れるために必要な情報量を持ち得る限定的で、特定化された「選ばれたアメリカ人」であることが、視聴者の過剰な関心を喚起させ、この国の大衆をブラウン管の前に
釘付けさせる磁力を持ったのである。
2 「博識な庶民」より「見栄えのするインテリ」
この映画のストーリーは、超人気クイズ番組の「21」のスポンサーとなっている製薬企業の社長が、不満を表出することから開かれた。
何週も勝ち抜いているチャンピオン、ハービー・ステンペルのイメージが些か俗物的で、周囲の空気を読めないような「博識な庶民」であったことに対して、スポンサーの社長は大いに不満を抱いていた。彼にとって、超人気クイズ番組の視聴率が横ばいであるという現象への不満が最も大きかったが、彼が求めるチャンピオンイメージは、「もっと見栄えのするインテリ」タイプのアメリカ人であった。
そのスポンサーの強い要求を電話で受けたNBCの社長は、現在のチャンピオンであるハービーを「アメリカン・ドリームを体現する庶民派」として満足していたが、スポンサーの要求には逆らえず、番組プロデューサーのダン・エンライトにハービーを切ることを命じた。
ダンとアル・フリードマン(プロデューサー)は、スポンサーの意に適ったチャンピオン候補探しを始めるや、自局の他のクイズ番組に応募して来た一人のハンサム青年を発掘するに至った。
その名は、チャールズ・ヴァン・ドーレン。33歳である。
著名な詩人を父に持ち、世間でも知られたヴァン・ドーレン家の一族であるという育ちの良さと、上品な顔立ちの当人自身がコロンビア大学特別講師という職業を知ることで、まさに「見栄えのするインテリ」の候補者として、ダンとアルは確信的に特定したのである。
「週給86ドル?君のような秀才をそんな薄給で雇う社会は問題だ。アメリカ教育の危機だ」
本人を前にして大袈裟に言い放ったのは、ダン・エンライトだった。
「アメリカ教育の危機」とまで言われたチャールズの心が動いたのは、彼の自我にとって、その拠って立つ心理的文脈がまさに格好の動機付けを得たからでもあった。
物語は、候補者として特定的に選ばれたクイズ好きのハンサム青年が、「教育的効果」を強調するプロデューサーたちの巧みな誘導によって、次代チャンピオンの候補者として決意するまでの心理の振幅を丹念に描いていく。
要するに、名家の御曹司であるチャールズは、NBCの他のクイズ番組に応募した偶然性によってハンティングされたのだ。
彼はダンたちの振舞いから、「21」という番組が「ヤラセ」の要素を持つことを感知し、一旦は出演を断るが、テレビ局のプロたちの詐術に嵌って、結局、「インチキはなし」という条件で出演を許諾したのである。
その日がやって来た。
元々、クイズ番組に関心を持っていたチャールズは、難なく質問をクリアしていくが、現役チャンピオンのハービー・ステンペルの獲得得点に差をつけられていた。チャールズは、最後に逆転のポイントを稼げる勝負に打って出て、その質問を受けるに至った。
「1862年、南北戦争の司令官と意見が衝突し、グラント将軍は身柄を拘束されました。そのときの北軍の司令官の名前は?」
このときチャールズは、その質問が他のクイズ番組のオーディションを受けた際に出された質問と同じであることを認知して、内心の動揺を隠しながら、熟考の末、「ハレック」という、元々答えられた回答を口に出した。当然の如く、それが正解となり、チャンピオンの交代が実現したのである。
その質問を受けたときのチャールズの心の世界は、プロデューサーたちとの「インチキはなし」という条件が破られた現実の重みを受け止めつつも、「とりあえず、今はこの沸騰した状況を抜け切る」ために、冷静な態度を装う処方の時間に費やされたに違いない。
その後の映像の描写は、チャールズの心の中の動揺を直截に露呈するものだった。
誘われてもエレベーターで降りることなく、一人、階段を駆け降りながら、こう呟いたのだ。
「答えを知ってたんだから、インチキじゃない。それに教育的効果もある。汗をかいたんだから、2万ドルは当然だ・・・すごいな、2万ドルか!」
明らかに、自分の犯した行為の重大性を認知する青年が、その行為の欺瞞性と犯罪性を稀釈化するための言い訳作りに翻弄されている心理が、そこに捨てられていた。
一切は、ここから始まったのである。
ところで、この「インチキ」にはもっと狡猾な裏工作が潜んでいた。
現役チャンピオンのハービー・ステンペルに、件のプロデューサーたちはNBCの別の番組への出演を約束するかのような誘いを持ちかけて、「21」の本番で間違った答えをするように求めていたのだ。
「金の生る木」でもあった、夫の博識を自慢する妻にも相談したハービーは、悩み抜いた末に「インチキ」を了承し、信じ難いほどの簡単な問題を間違えるという負け方をしたのである。「簡単な問題を間違える方が、リアリティがある」というようなプロデューサーの説得には、大衆心理に通じた者の狡猾さが滲み出ていた。
また、「もっと難しい問題で間違えたい」というハービーの虚栄心を拾っていく描写にも丹念さが窺えて、前線下の心理の緊張感がひしと伝わってきた。
因みに、そこで出された「簡単な問題」とは、「1955年のアカデミー作品賞のタイトル名は?」というもの。
答えは、「マーティ」。
なぜ、この問題が簡単だったか。
映画のモデルになった時代が1958年だったからだ。僅か3年前のビッグイベントの話題について、「博識な庶民」であるハービーが知らない訳がないと、当時の視聴者が考えたのは当然だったのである。
それでも、それが「ヤラセ」であると誰も思わなかったのは、空調を停止して回答者に汗を流させるという局側の手の込んだトリックも手伝って、「ヤラセ」に関与した二人の新旧のチャンピオンの迫真の演技と、「『博識な庶民』であっても、簡単な問題に答えられないのが人間の可笑しさ」というリアリズムを受容していたからであろう。
(人生論的映画評論/クイズ・ショウ('94) ロバート・レッドフォード <社会派映画の最高到達点 ―― フィフティーズの光と影>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/10/94.html
優れた社会派ドラマは優れた人間ドラマに補完されることによって、最強の社会派ドラマであることを典型的に検証した映像―― それが「クイズ・ショウ」だった。
以上の視点で批評していくが、この章では、映像の文化的背景について簡単に触れておく。
「古き良き時代」の代名詞とも言えるアメリカのフィフティーズ(50年代)を特徴付けるのは、道徳的規範の拠点となる家族を中心とする大衆消費文化の目立った展開であった。
戦勝気分も手伝って、人々が押し並べて裕福な生活を渇望し、家族のために消費することが社会の安定に直結するという「家族主義の時代」こそ、ゴールデンエイジと呼ばれるフィフティーズの基幹のイデオロギーだったと言える。
そんな時代が分娩した大衆消費文化の勃興は、「家族主義の時代」の物理的目玉商品として、1954年に54%の普及率を誇ったと言われるテレビジョンの顕著な文化現象だった。テレビを介して消費文明を拡大的に定着していくことで、企業スポンサーと消費者の関係がより直接的に近接し、その需要と供給の相関性がより強化されていったのである。
従って、テレビ番組のスポンサーとなる企業がテレビ局に求めるのは視聴率の安定的推移のみとなる。近年のインターネットの著しい普及によってその内実に由々しき変化が見られるとは言え、両者のこの根深い関係性はテレビの制作現場の基本命題となって、21世紀の現在となってもなお変わらない構造性をギリギリに保持しているだろう。
ともあれ、テレビ文化の顕著な台頭を特徴づけたフィフティーズの中で、視聴者参加型のクイズ番組、それもアメリカン・ドリームを象徴するかの如き一獲千金のギャンブル性を備えたクイズ番組の隆盛は、勤勉と合理主義の精神を尊ぶプロテスタンティズムのメンタリティから逸脱する風潮とも言えるが、第二次大戦後、一人勝ちした感の深いこの国の資本主義の澎湃の必然的展開であったとも捉えられるだろう。
今でもアメリカには、平均100億を手に入れることができるばかりか、「2002年末に3億ドル(約350億円)という記録的1等当せん額を出すパワーボール」(「確率論の入門基礎」HPより)という高額ロトくじ(宝くじ)があるが、しかしそれは所詮、単なる運不運のレベルの問題に過ぎない。
しかしフィフティーズの時代の中で、実録映画のモデルになった「21」というクイズ番組は、映像に記録された「事件」の影響力を見ても判然とするように、「広範囲な教養を持つ立派なアメリカ人」を志向する大衆の格好のモデルとして要請され、それを手に入れるために必要な情報量を持ち得る限定的で、特定化された「選ばれたアメリカ人」であることが、視聴者の過剰な関心を喚起させ、この国の大衆をブラウン管の前に
釘付けさせる磁力を持ったのである。
2 「博識な庶民」より「見栄えのするインテリ」
この映画のストーリーは、超人気クイズ番組の「21」のスポンサーとなっている製薬企業の社長が、不満を表出することから開かれた。
何週も勝ち抜いているチャンピオン、ハービー・ステンペルのイメージが些か俗物的で、周囲の空気を読めないような「博識な庶民」であったことに対して、スポンサーの社長は大いに不満を抱いていた。彼にとって、超人気クイズ番組の視聴率が横ばいであるという現象への不満が最も大きかったが、彼が求めるチャンピオンイメージは、「もっと見栄えのするインテリ」タイプのアメリカ人であった。
そのスポンサーの強い要求を電話で受けたNBCの社長は、現在のチャンピオンであるハービーを「アメリカン・ドリームを体現する庶民派」として満足していたが、スポンサーの要求には逆らえず、番組プロデューサーのダン・エンライトにハービーを切ることを命じた。
ダンとアル・フリードマン(プロデューサー)は、スポンサーの意に適ったチャンピオン候補探しを始めるや、自局の他のクイズ番組に応募して来た一人のハンサム青年を発掘するに至った。
その名は、チャールズ・ヴァン・ドーレン。33歳である。
著名な詩人を父に持ち、世間でも知られたヴァン・ドーレン家の一族であるという育ちの良さと、上品な顔立ちの当人自身がコロンビア大学特別講師という職業を知ることで、まさに「見栄えのするインテリ」の候補者として、ダンとアルは確信的に特定したのである。
「週給86ドル?君のような秀才をそんな薄給で雇う社会は問題だ。アメリカ教育の危機だ」
本人を前にして大袈裟に言い放ったのは、ダン・エンライトだった。
「アメリカ教育の危機」とまで言われたチャールズの心が動いたのは、彼の自我にとって、その拠って立つ心理的文脈がまさに格好の動機付けを得たからでもあった。
物語は、候補者として特定的に選ばれたクイズ好きのハンサム青年が、「教育的効果」を強調するプロデューサーたちの巧みな誘導によって、次代チャンピオンの候補者として決意するまでの心理の振幅を丹念に描いていく。
要するに、名家の御曹司であるチャールズは、NBCの他のクイズ番組に応募した偶然性によってハンティングされたのだ。
彼はダンたちの振舞いから、「21」という番組が「ヤラセ」の要素を持つことを感知し、一旦は出演を断るが、テレビ局のプロたちの詐術に嵌って、結局、「インチキはなし」という条件で出演を許諾したのである。
その日がやって来た。
元々、クイズ番組に関心を持っていたチャールズは、難なく質問をクリアしていくが、現役チャンピオンのハービー・ステンペルの獲得得点に差をつけられていた。チャールズは、最後に逆転のポイントを稼げる勝負に打って出て、その質問を受けるに至った。
「1862年、南北戦争の司令官と意見が衝突し、グラント将軍は身柄を拘束されました。そのときの北軍の司令官の名前は?」
このときチャールズは、その質問が他のクイズ番組のオーディションを受けた際に出された質問と同じであることを認知して、内心の動揺を隠しながら、熟考の末、「ハレック」という、元々答えられた回答を口に出した。当然の如く、それが正解となり、チャンピオンの交代が実現したのである。
その質問を受けたときのチャールズの心の世界は、プロデューサーたちとの「インチキはなし」という条件が破られた現実の重みを受け止めつつも、「とりあえず、今はこの沸騰した状況を抜け切る」ために、冷静な態度を装う処方の時間に費やされたに違いない。
その後の映像の描写は、チャールズの心の中の動揺を直截に露呈するものだった。
誘われてもエレベーターで降りることなく、一人、階段を駆け降りながら、こう呟いたのだ。
「答えを知ってたんだから、インチキじゃない。それに教育的効果もある。汗をかいたんだから、2万ドルは当然だ・・・すごいな、2万ドルか!」
明らかに、自分の犯した行為の重大性を認知する青年が、その行為の欺瞞性と犯罪性を稀釈化するための言い訳作りに翻弄されている心理が、そこに捨てられていた。
一切は、ここから始まったのである。
ところで、この「インチキ」にはもっと狡猾な裏工作が潜んでいた。
現役チャンピオンのハービー・ステンペルに、件のプロデューサーたちはNBCの別の番組への出演を約束するかのような誘いを持ちかけて、「21」の本番で間違った答えをするように求めていたのだ。
「金の生る木」でもあった、夫の博識を自慢する妻にも相談したハービーは、悩み抜いた末に「インチキ」を了承し、信じ難いほどの簡単な問題を間違えるという負け方をしたのである。「簡単な問題を間違える方が、リアリティがある」というようなプロデューサーの説得には、大衆心理に通じた者の狡猾さが滲み出ていた。
また、「もっと難しい問題で間違えたい」というハービーの虚栄心を拾っていく描写にも丹念さが窺えて、前線下の心理の緊張感がひしと伝わってきた。
因みに、そこで出された「簡単な問題」とは、「1955年のアカデミー作品賞のタイトル名は?」というもの。
答えは、「マーティ」。
なぜ、この問題が簡単だったか。
映画のモデルになった時代が1958年だったからだ。僅か3年前のビッグイベントの話題について、「博識な庶民」であるハービーが知らない訳がないと、当時の視聴者が考えたのは当然だったのである。
それでも、それが「ヤラセ」であると誰も思わなかったのは、空調を停止して回答者に汗を流させるという局側の手の込んだトリックも手伝って、「ヤラセ」に関与した二人の新旧のチャンピオンの迫真の演技と、「『博識な庶民』であっても、簡単な問題に答えられないのが人間の可笑しさ」というリアリズムを受容していたからであろう。
(人生論的映画評論/クイズ・ショウ('94) ロバート・レッドフォード <社会派映画の最高到達点 ―― フィフティーズの光と影>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/10/94.html