あにいもうと('53)  成瀬巳喜男 <「見過ぎ世過ぎを立てていく女たち」と、「甲斐性、意気地のない男たち」の現在性>

  「あにいもうと」の人格を相対化させた、さんの存在が何より重要だが、この劣化した家族の人格的ストレッサーとも言うべき、もんの存在の尖り方から書いていく。

 彼女の存在の尖り方は、ラスト30分の中で展開されている。

 「あにいもうと」の大立ち回りのシーンが、その象徴である。

 「あにいもうと」の大立ち回りには、重要な伏線があった。

 もんが東京で、小畑という学生の子を孕んで実家に帰郷するが、その目的は自分の子を産むためだった。

 しかし、その事実を知った兄の伊之吉は、一方的にもんを非難、罵倒するばかり。

 因みに、石職工の腕利きだが、女好きで怠け者の性格の伊之吉は、同様に「川師の赤座」と異名をとって、羽振りの良かった昔の面影もない怠惰な父と、その「甲斐性のなさ」において同質の精神構造の持ち主。

 一方、罵倒されて嗚咽するもんは、結局、その場を去って行方知れずになった。

 そして、もんの腹の中の子は、流産するに至った。

 そんな経緯の中、もんの留守に学生の小畑が赤座家を訪ねて来て、深く謝罪したのである。

 しかし、もんを孕ませた若造に恨みを持つ伊之吉は、バス停に向かう小畑を待ち伏せした。

 そのときの、伊之吉の感情のこもった激しい言葉。

 「もんはな、俺が子供のとき、抱いて一緒に寝たり、毎晩、夜中に小便に起こして、土間が暗いから付いてやったもんだ。もんが丸っ切り、赤ん坊の時分からいつも俺が負んぶしてよ。終いには、もんの子守りをしないと、遊びに出る気がしなくなったんだ・・・てめえの子を孕んで帰って来た日にゃ、もんを苛めて、終いには犬畜生みたいに、汚がってやったんだ。皆、俺を憎んで、もんに付くようになったよ。俺はそれでいいと思ったんだ。じゃないと、もんが邪魔ものにされるからな」

 伊之吉が小畑を思いっ切り殴ったのは、この直後だった。

 もんのために自分が犠牲になったという言い分には、力関係の優位を前提化した情況の勢いに後押しされた後付けの感情が、沸騰する空気の只中に引っ張り出された印象を拭えないが、嗚咽する伊之吉の表情には嘘はなかったであろう。

 ともあれ、その伊之吉は、小畑を殴った一件を帰省中のもんに打ち明けたことで、「あにいもうと」の激しい取っ組み合いが始まったのである。

 大立ち回りの口火を切ったのは、もんだった。

 「誰がお前に、そんなことしてくれって頼んだ!なぜ、そんな卑怯なことするんだよ!あたしの体をあの人にやったからって、何でお前が御託を言う必要があるんだ!」

 それは悪態と言うより、歯切れの良い啖呵だった。

 もんが卓袱台(ちゃぶだい)を蹴飛ばしたことで、当然、大喧嘩となった。

 「このキチガイアマ!」

 怒り狂った伊之吉に殴られ、蹴られ、庭に放り投げられたもんは、「畜生!」と叫んで、部屋に入って来るや、兄に掴みかかっていった。

 しかし、そこは腕力で勝てない女の哀しさ。

 もんは逆に押し倒され、思い切り頬を叩かれた。

 「畜生!殺しやがれ!」

 座敷の中央で仰向けになったもんは、大の字になって叫ぶのだ。

 「お前みたいに、小便臭い女を引っ掛けている奴とさ、憚(はばか)りながら、もんは違う女なんだ。お前の御託通りに言えば、あたしは淫売同様の、飲んだくれの、嫁にも行けないあばずれ女だ。・・・だからって、一度許した男を、手出しのできない弱みに付け込んで半殺しにするような奴なんて、兄貴だって誰だって、黙って聞いちゃられないんだ。お前、それでも男か!こんな弱い者苛めをする兄貴だと思わなかった」

 当然、痛い所を衝かれた伊之吉の鉄拳が、啖呵を切る女の頬に飛んできた。

 あまりに本質を衝く、歯切れの良い啖呵を封印するためだ。

 ところが、殴られた後も、女の啖呵は止まらない。

 「ひょろすけ!女一匹が、てめえなどの拳骨で気持が変わると思うのは大間違いだ!泥臭い田舎に彷徨(うろつ)いているお前なんぞに、あたしが何をしていか分るもんか!」

 もっと見事な啖呵が、そこに捨てられた。

 母のりきと、妹のさんは号泣するばかり。

 「いい加減に、この家から出て行きやがれ!」

 妹を殴り尽くした男には、もうこの戦術しかなかった。

 啖呵を切る女と、それを切られる男の構図は、職人世界の情感系言語が機能しない物語の真骨頂を彷彿させていたのである。

 「お前はまあ、大変な女におなりだね・・・後生だから、堅い暮らしをして女らしくなっておくれ」

 この母の言葉で、全てが終焉した。

 この劣化しつつあるように見える家族は、腕力で訴えることをしない母と妹の嗚咽が、なお有効な戦略である事実を検証して見せたのだ。

 それが、ラストシーンの姉妹の会話に繋がっていくのである。

 「今度いつ来るの、お姉ちゃん」

 この妹の問いに、姉は正直に答えて見せた。

 「さあ、おっかさんたちの顔でも見たくなったら・・・嫌な兄貴だけど、あんな顔でも見たくなる時があるからね・・・」

 田舎道を帰って行く姉妹の表情には、「おっかさんたちの顔でも見たくなったら・・・」という思いによって結ばれた家族の情感を窺わせるものがあったが、本作は機能不全化しつつある家族を、たった一人で支え切る肝心の「おっかさん」が他界したときの、その暗いイメージを払拭させる決定力を保証する何かではなかった。

 ここでも成瀬の映像は、容易に予定調和に逢着させる甘さとは無縁なのである。

 最後に、ここでのテーマの括りとして、妹を思う兄の心理を簡単に考えてみよう。

 このように考えられないか。

 マスコットのように可愛がっていた妹が、いつしか自分の支配力を脱したとき、自分の視界に投射された対象人格のイメージは、あろうことか、自分に似た自堕落な生活をしているという偏見が根柢にあって、妹の帰郷による再会の度に、それを負い目に思う感情と繰り返し出会ってしまうことの不快感。

 そんな屈折した感情が、その場凌ぎの生活を延長させるだけの兄の自我に、固く張り付いているように思われるのだ。

 それでも、懐かしき記憶を共有したと信じる妹への、兄の断ち切れぬ思いが学生を殴らせるに至ったのであろう。

 「自己の支配力からの脱却」と「懐かしき記憶を共有したと信じる幻想」、そして、「自堕落な生活への負い目」と「自堕落な生活を延長させているという妹への偏見」。

 これらの複雑な感情が絡み合って、虚勢を張るだけの兄の自我の内に塒(とぐろ)を巻いているのではないか。

 そう思えるのだ。


(人生論的映画評論/あにいもうと('53)  成瀬巳喜男 <「見過ぎ世過ぎを立てていく女たち」と、「甲斐性、意気地のない男たち」の現在性> 」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/03/53.html