1 闇の奥に封印された過去
―― 本作のストーリーラインを簡単に追っていこう。
アウシュヴィッツ(オシフィエンチム)を体験した、ソフィーという名の一人のポーランド女性がいて、彼女と同棲する、ネイサンというユダヤ人の妄想性分裂病(統合失調症)者がいた。
二人が住むアパートに、本篇のナビゲーターを務めるスティンゴという、南部出身の作家志望の青年が入居して来て、忽ちのうちに彼らは意気投合し、そこに奇妙な友情関係が成立する。
時は1947年。場所は、ニューヨーク市ブルックリン区。
粗暴さと優しさを同居するネイサンの奇癖に翻弄されながらも、彼の愛に縋りつくようなソフィーの不安定な心を癒すスティンゴは、彼女の閉ざされた過去の扉を少しずつ開いていく。
反ユダヤ主義の大学教授の父を持ちながらも、ナチスドイツから迫害され、自らも二人の子供と共にアウシュヴィッツに送られたという事実。そして収容所内での辛い生活が彼女の口から語られるが、スティンゴはしばしば、彼女の暗鬱な表情の奥にある闇の部分に弾かれて、立ち竦む。
どうしても届き得ない、二人の棲む世界との距離に違和感を覚えながらも、スティンゴは美しいソフィーに惹かれていく。
ネイサンの粗暴さがソフィーに今までにない恐怖感を与えたとき、危機感を感じたスティンゴは彼女を連れてワシントンに逃げ、市内のホテルに宿泊する。
スティンゴはそこでソフィーに求婚し、自分の郷里である南部に戻って、二人で幸福な家庭を築こうと懇願した。
しかし、スティンゴの抱懐する幸福のイメージに同化できないソフィーは、そこで初めて、自らの闇の奥に封印された過去を、絞るように解き放ったのである。
2 不条理な選択
―― 以下、ソフィーの告白。
アウシュヴィッツ駅に降り立った収容者の長い列の中に、ソフィーと二人の子供が不安げに立っていた。
その列は、全ての収容者を、働く者と死に行く者に選別する地獄のラインだった。
一人のドイツ将校がソフィーに近づいて、語りかける。
「美しい。君と寝たい。ポーランド人か?…お前も薄汚いアカか」
初めは恐怖で反応できなかったソフィーは、捨て台詞を吐いてその場を去ろうとするドイツ将校に、必死に弁明する。
それは、自分たちの身を守ろうとする母親の、精一杯の自己主張だった。
「ポーランド人よ。ユダヤ人ではないわ。子供たちも違うわ。彼らは純潔人種よ。私はクリスチャンでカソリックよ」
「アカではない?信心を?」
「私はキリストを信じています」
「救世主キリストを信じているのか?」
「ええ」
「彼は言っている、“幼き子供らをわが手によこすがいい”と。子供は、一人残していい」
将校のこの信じ難い言葉に、ソフィーは恐る恐るその意味を確認する。
「何ですって?」
「子供は一人残していい。一人は手放せ」
「選べとおっしゃるの?」
「お前はユダヤ人ではない。選択の特典を与えてやる」
神経を疑うような将校の冷徹な言葉に、苛烈極まるリアリティの、底知れぬ重量感を感じとったソフィーには、このとき、あってはならない現実を前にして躊躇している時間がなかった。
「そんな… 選ぶなんてできないわ。できないわ」
「選ばねば、2人とも向うの列だ。選ぶのだ」
「そんなひどい…できないわ」
狼狽(うろた)えるソフィーに、将校は死の選択を迫った。
「2人とも向うだぞ。やかましい。つべこべいうな!選ぶのだ!」
「止めて!できないわ!」
幼気(いたいけ)な娘を抱えるソフィーの手に力がこもった。母にしがみつく息子の表情が恐怖に震えていた。
「2人とも向うだぞ。連れて行け。早くしろ!」
「娘を連れてって!私のベビーを!その子を連れてって…」
咄嗟に娘を差し出すソフィーの行動は、殆ど衝動的だった。
しかしそこに、一片の理性が働いていなかったとは言えなかった。
厳しい収容所内で生存する確率を考えて、彼女は恐らく息子の生命を選択したに違いない。
だからこそ彼女は、あってはならない選択を迫られた不条理を呪い、何某かの理性的選択を行った自分自身を呪わずにはいられなかったのである。
この不条理な選択を、もしドイツ将校が権力的に遂行していたならば、ソフィーの自我は壊されずに済んだかも知れないのだ。
まさにそのような「究極の選択」を遂行した、「母なるもの」としての自我は、無残に壊されゆく運命を免れなかったのである。
(人生論的映画評論/ソフィーの選択('82) アラン・パクラ <もう選択したくない人生>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/10/82.html