ミシシッピー・バーニング('88) アラン・パーカー   <「近接してくる者たちへの恐怖」が暴走するとき>

 「フリーダム・サマー」と呼ばれる、1964年夏の公民権運動家たちの熱心な活動がアメリカ南部で展開された。その中に、北部から来た若い三人の活動家がいた。二人はユダヤ人で、一人は黒人だった。

 ミシシッピー州に入った彼らは、スピード違反の容疑で拘束され、まもなく釈放された後、行方不明になった。三人はやがて死体となったことで、この国の「闇の近代」の深部を炙り出す陰湿な事件となって、世論を大いに沸騰させた。彼らはKKKから射殺されたことが判明したのだが、その根は深く、今世紀に至ってもなお大きな歴史的なしこりを残す事件として、係争中である。

 以下、ミシシッピー州に絡む人種差別についてのブログからの記事。

 「アラバマ州Montgomery(モンガメリ)の市内に、公民権運動の主な事件と犠牲になった人々の名を刻んだ記念碑があります。犠牲者は1955年に始まり1968年のキング牧師まで40人です。事件や名前の上を水が流れる水盤のようなデザイン。デザイナーはWashington D.C.のヴィエトナム戦没者慰霊碑も手がけたMaya Lin(マヤ・リン)。全40人の犠牲者を州別に数えてみると、ミシシッピ州18人がトップで、二番目がアラバマ州の13人でした。犠牲者には他の州からのサポーターたちも含まれていますので、純粋に州出身の人間ばかりではありません。しかし、二州合わせて全体の77・5%というのは、どれだけミシシッピアラバマの人種差別が激しかったかを物語っています」(Studio Be HP:「公民権運動・史跡めぐり」より)

 ともあれ、本作の舞台となった事件の被害者である三人の活動家も、その「殉教碑」の内に含まれていた。この映画は、その三人の失踪の謎を突き止めるべく、FBIから派遣された二人の捜査官の捜査活動の物語である。

 その捜査官の一人は、ルバート・アンダーソン。叩き上げの熟練刑事である。もう一人は、アラン・ウォード。ハーバード大卒の若きエリート刑事である。

 “共産主義者に、黒人にユダヤ人、仲間に伝えておけ。最後の審判の日は間近だぞ。主は天から見ておられる。人種を混ぜちゃ、世も終わり。可愛い赤ん坊、黒いのはお断りだ。そんな奴らは撲滅だ。我ら、KKK団。そんな奴らは撲滅だ。我ら、KKK団”

 ミシシッピー州の現地に向う車の中で、アンダーソン刑事は助手席で、「KKK団の歌」を下手な調子で歌っている。運転しているのはウォード刑事。FBIに入ってから3年のキャリアしか持たない若手エリート刑事。当然の如く、そんな二人の会話は車中でも噛み合わなかった。

 現地に着いた二人を待つのは、町の人々の冷たい視線。

 保安官もまた、彼らに冷徹な視線を注ぐばかり。二人の捜査の始まりは難航が予想されたとは言え、全く手掛かりのない状態からのスタートだった。

 「俺も昔、こんな町の保安官をしていた・・・ウソもクソもない。ここはまるで僻地のド田舎だ。保安官がそう言うなら、そうさ」

 アンダーソンは、既に悟り切った者のような覚悟を括っている。

 その覚悟を括り切れないウォードとの差は歴然としていた。彼はレストランで、平気で若い黒人に語りかけていく。南部共同体の特有の空気を切り裂く青年刑事の振舞いに、店内にいる者たちの視線が一斉に集中した。
 
 「話はないですよ」と若い黒人。

 彼は最初から北部から来た白人刑事との接触を避けている。そうしなければ、自分の身の安全が保てないのだ。

 以下、焼け跡を見た二人の刑事の会話。

 「三人はこの町に、有権者登録所を作ろうとした。ところが、KKK団が焼き討ちを」
 「選挙はさせずか?」
 「その通り」
 「事務所は何と?」
 「三人は集会所を焼かれた謝罪に来たと・・・町に戻って、誰かと話しているはずだ。そこから始める」
 「誰も何も言わんよ。皆、ここで一生暮らすんだ。つまらんことは言わんよ」
 「それが我々の仕事だ」

 二人の意識には相当の落差がある。その落差は、ウォ-ド刑事の認識の甘さによって露呈されることになった。三人の手掛かりを求めて黒人宅を訪ねても、誰も何も答えないのである。

 「一体、なぜこんな憎しみが・・・」とウォード。
 「俺が子供の頃、近所にモンローって黒人がいた。そいつは、親父より運のいい奴だ。ラバを買った。当時大変なものだった。親父は嫌っていた。モンローはラバで畑を耕している。皆が囃した。モンローの畑は、どんどんでかくなるってね。ある朝、ラバが死んでいた。誰かが毒を。以来、誰もラバの話をしなくなった。ある日、モンローの家は空になっていた。北部にでも行ったんだろう。親父の顔を見たよ。親父の仕業だった。親父は息子に気づかれて、恥じたんだろう。俺にこう言った。“黒いのに負けちゃ、おしまいだ”とね」
 「言い訳か?」
 「親父の話をしたのさ」
 「つまり何だ?」
 「黒人を憎んだ親父の本当の敵は貧乏だった」

 この会話の瞬間、二人の泊まったモーテルの部屋に銃丸が撃ち込まれ、窓ガラスが砕け散った。

 「これで分ったろ」とアンダーソン。
 「本部に応援を送らせる」とウォード。
 「そいつは絶対にまずい」
 「送らせる」

 ウォードの気負いだけが際立っていた。

 
 まもなく北部から応援がやって来た。

 ウォードの戦略は徹底した合理的捜査によって貫かれていた。三人の活動家が乗った乗用車が沼から発見され、海軍予備隊のサポートによって、大掛かりな沼の捜索が実施された。しかし手掛かりとなるようなものは全くなかった。

 その間、フリーダム・サマーに参加した黒人がリンチに遭ったり、また黒人の集会所や教会、家屋が焼き打ちの被害に遭ったりした。まさに「ミシシッピー・バーニング」の世界が展開されていく。

 KKKも随所に出没するようになり、北部から「白人殺し」の捜査に関心を持つメディアが押しかけて来た。それが却って地元民の感情を逆撫ですることになったのである。彼らの保守的な北部嫌いの感情が、一気に噴き上げていったのだ。

 教会に集う黒人たちの、野外での細(ささ)やかな集まりの中に、二人の刑事は顔を出した。

 そこにいた一人の少年が、「保安官事務所」という捨て台詞を残したことで、二人は保安官助手ベルの自宅を訪れた。勿論、手掛かりは何も得られない。しかしアンダーソン刑事は、南部生まれの嗅覚からベル夫人が事件の真相を知っているという予感を持っていて、再び、亭主のいない留守を狙って夫人宅を訪れた。そこで夫人が僅かに反応した心理を読んで、アンダーソンは自分の予感を確信に変えつつあったのである。

 その直後、教会関係者たちはKKKの暴力の餌食になって、先の少年もまた手痛い報復を受けた。まもなく、KKKの黒幕とされるタウンリーという実業家が、メディアの質問攻めに遭った。そのときのタウンリーの独演は、偏見と悪意に満ちていた。

 「私はミシシッピー人であり、アメリカ人だ。ミシシッピー人の姿が、マスコミに捻じ曲げられるのはうんざりだ。はっきり言っておく。ユダヤ人は認めない。反キリストだからだ。奴らの金融カルテルが、共産主義を支えている。ローマ・カトリック教徒も認めない。トルコ人も東洋人も黒人も認めない。我々はアングロ・サクソンのデモクラシーを守るのだ」



(人生論的映画評論/ミシシッピー・バーニング('88) アラン・パーカー   <「近接してくる者たちへの恐怖」が暴走するとき> 」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/88_17.html