大地の子守歌('76)  増村保造 <大地に耳をそばだてて>

 大地の声を子守にして生きてきた十三歳の少女の人生が、祖母の死によって激変する。

 「人を信じるな」という祖母の戒めは、自分が亡き後の孫娘の将来を案じての教えだったが、「海を見せてやる」という人買いの狡猾な口車に乗せられて、少女は瀬戸内の小島にある売春宿に売られていく。

 そのとき、伊予(愛媛県)の山奥で自然を相手に生活していた野性的な少女の内側には、上辺の善意に誘(いざな)われてしまう、やたらに尖がっている、強固なだけで隙だらけの未熟な自我が泳いでいた。

 売春宿での少女の反抗は、引き続き野性を延長させたものだったが、殆んどリンチのような大人の折檻には全く刃が立たなかった。

 我が身を売る生活の呪縛から逃れられない少女は、一転して我が身を壊すほどの娼婦に堕ちていく。破滅に向かう魂が失明という地獄に搦(から)め捕られたとき、少女はその地獄を生んだ、もっと性質(たち)の悪い逃避行を試みたのである。

 少女を救い出したのは、かつて少女に船での救出を懇願された一人の伝道師。
 
 少女は自分を救い出してくれた奇跡的なヒーローに海上を揺らぐ小船の上で、報恩の思いを魂の底から突き上げた。

 「ウチはただで、お金をもらうことはできまへん。どうぞ、ウチを好きにしておくれまへ。この恩は、一生、忘れはせんけんな!盲のおりんのこの気持を、受け取っておくれまへ」

 少女はそのとき、初めて神と出会ったのだ。

 「人を信じるな」という祖母の訓戒に生きてきた野性の自我は、女の体を求めない伝道師によって洗浄され、困難な未来への指針を授かったのである。


 彼女は今も、大地の声に耳をそばだてる。

 光を失った少女が地に平伏(ひれふ)して、自分にしか聞こえない神の声を聞こうとする。それは、今は亡き祖母の声であり、自分を守り育てた自然の声でもある。

 この声を指針にする少女の人生は、逆境にその身を普通に預ける強靭な自我の振舞いの中で、まさに開かれたばかりであった。


 ―― これは、野性に生きた少女のその成長の記録の断片であるが、映像を殆んど全面的に支配する少女りんの激情が、いつも突き抜けていて、その生きざまを執拗にフォローする作り手の過剰さが際立ってしまっている。

 売春宿で働く女たちの悲哀が観る者に伝わってこないのは、彼女たちの日常性をカメラが追い駆けていかないからである。追い駆けて肉迫し、そこで捉えた卑屈や嫉妬、絶望や狂気などを映し出すことで、様々な自我が複雑にクロスする濃密な人間ドラマに仕上げ切ろうとする意図、それが感じられないのだ。

 一切を省略し、ひたすら、少女りんの激しい振幅のみを追い駆ける映像は、一つの強烈な自我を、良かれ悪しかれ、観る者の心に印象深く刻印させたに違いない。作り手は確信的に、ワンマンショーの映画を撮りたかったのだろう。そう思うしかなかった。

 何があっても自分の力で生きていく。

 環境的にも身体的にも苛酷な状況に置かれようと、それでも独力で生きていく。救いの手は差し延べられたが、それは神の手だった。

 神に感謝し、天に昇った祖母に感謝し、そして自らを育てた大地に感謝する。巡礼の旅は感謝の旅であると同時に、自らを未来に繋げていく確信的な旅なのだ。その旅を、自らの荒ぶる魂が抉(こ)じ開け、堂々と拓いていくのである。

 最後までこれは、旅を拓いていく者たちへのオマージュだった。

 
 
(人生論的映画評論/大地の子守歌('76)  増村保造 <大地に耳をそばだてて>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/76.html