ヒトラーの忘れもの('15)  マーチン・サントフリート

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<「葛藤の行動化」 ―― デンマーク軍曹に張り付く矛盾が炸裂する>


1  空をも焦がす爆裂の恐怖の中で、地雷を除去するドイツ少年兵たちの物語


第二次世界大戦後、ナチス・ドイツが崩壊した1945年5月のこと。

「諸君の任務を説明する。諸君は、このデンマークで、戦争の後始末を行う。デンマークは、ドイツの友好国ではない。我々デンマークの国民は、ドイツ兵を歓迎しない。諸君は憎まれている。諸君を動員した目的はただ一つ。ナチスは我が国の海岸に地雷を埋めた。それを除去してもらう。ナチスが西海岸に埋めた地雷は220万になる。他の欧州の諸国の合計を上回る数だ。連合国軍の上陸を阻止する目的だった」

エベ・イェンスン大尉(以下、エベ大尉)の声が、大きく響き渡った。

ここで言う「諸君」とは、戦争捕虜となった、大半が少年の12名のドイツ兵。(のちに2名が参加し、14名に)

当然ながら、彼らには、抵抗すべき能力の何ものもない。

そんな彼らを支配し、管理するデンマーク下士官がラスムスン軍曹。

地雷を扱ったことがないドイツ少年兵には、「はい、軍曹」という返答しか持ち得ない。

「黒い旗と小道の間に、4万5千個の地雷がある。全部、除去しろ。除去が終われば家に帰す。それが終わるまでは帰れないぞ。1時間に6個の除去を行い、爆死しなければ、3ヶ月間後には帰れる」

ラスムスン軍曹の声も、大きく響き渡った。

海岸にある、黒い旗との間に埋められている地雷の除去。

これが、少年兵たちが命じられた、途轍(とてつ)もない任務の内実である。

命を懸けた、危険な作業に身を投じる以外の選択肢がない少年兵たち。
かくて、エベ大尉の指導のもと、本物の地雷の除去の訓練を経て、この任務なしに帰国できない状況に置かれた少年兵たちの、絶望と苦闘の物語が開かれていく。

横一列になって、砂浜を匍匐(ほふく)しながら、一本の棒を砂浜に突き刺しながら地雷を捜す。

地雷を発見したら、それを知らせ、衝撃を与えないように、地雷の信管を慎重に抜き取る。

弾薬を発火させる起爆装置=信管を抜き取ったら、それを地図に記入していく。

信管を抜き取った地雷であっても、大量の弾薬を含むので、この危険物も慎重に扱わねばならない。

対人地雷には、ワイヤーによって、ピンが抜かれて爆発する「引張式」もあるから要注意なのだ。

加えて言えば、第二次世界大戦中に独軍が開発した箱型の対人地雷・「S-マイン」は、信管を踏むや否や、爆発によって高く飛び上がるので、地雷を踏んだ人物以外にも被害を与えると言われている。

この脅威の危険物・4万5千個の地雷の除去が終わるまで、この作業が続くのだ。

訓練中に、既に爆死する現場に立ち会い、地雷の恐怖を知っている少年兵たちには、「その日」の命の保持だけが全てだった。

作業を終えるや、少年兵の唯一の塒(ねぐら)となっている小屋が、ラスムスン軍曹によって鍵(閂=かんぬき)をかけられ、物理的に封印される。

そして、命を繋ぐ食糧が滞る事態もまた、少年兵たちにとって、何より厄介な問題だった。

少年兵たちの中に、セバスチャンという、寡黙で思慮深い少年がいる。

そのセバスチャンは、2日間滞っている食糧が、いつ届くかと軍曹に尋ねた。

「どうなろうと関係ない。勝手に餓死しろ。ドイツ人は後回しだ」

この一言で、あっさり片付けられてしまう。

「はい、軍曹」

相手の眼を見て、はっきりと返事をすることが義務付けられている少年兵には、返答すべき言辞は一つしかないのだ。

そんな少年兵たちは飢えを凌ぐために、ドイツ軍の少壮(しょうそう)将校だったヘルムートが家畜の餌を盗み、それを食べた少年たちが食中毒を起こしてしまう。

その結果、双子(ヴェルナー・レスナーとエルンスト・レスナー)の弟が、食中毒によって体調を崩し、1時間の休憩を求めても、軍曹に拒否され、作業に戻るように言われるだけ。

飢えに苦しむ少年兵たちの中で、事件・事故が起こるのは不可避だったのだ。

最初の犠牲者を出してしまうのである。

食中毒を起こしたヴィルヘルムが、地雷除去の只中で、両腕立を吹っ飛ばされてしまったのである。

この「予約」された悲劇を知り、救助を求められ、迷った末に、ラスムスン軍曹はヴィルヘルムを救護センターに預けるが、少年の様子が気になった軍曹がセンターに訪ねて行ったとき、既に死亡したことを知らされる。

ラスムスン軍曹が少年たちに食糧を分け与えたのは、この一件を知った直後だった。

センターのパンを手に持ち、帰っていくラスムスン軍曹。

その現場を視認するエベ大尉。

軍曹が率いる少年兵たちによる地雷除去の作業を介して、その関係構造の変化を読み取るデンマーク将校と、デンマーク軍曹との間に、亀裂が生じていくシーンとして映像提示される。

食糧を得た少年たちに待っていたのは、地雷除去の作業の負担増だった。

エベ大尉によって、軍曹に与えられた任務の遅れを取り戻すためである。

それでも、食糧を得たことで元気を取り戻す少年たちは、帰国後の希望を語り合う時間を共有する。

ラスムスン軍曹の報告で、ヴィルヘルムが帰国を果たしたことを聞いたこと ―― それが、このような時間を可能にしたのである。

この報告が事実でないことは、観る者だけが知っている。

しかし、このヴィルヘルムの一件以降、ラスムスン軍曹の内面に変化が現れてきたことも、観る者だけが知っている。

その契機に、仲間を思う強い思いで、自分に話しかけてくるセバスチャンの存在があった。

そんな軍曹が、エベ大尉から睨(にら)まれていくのは必至だった。

セバスチャンと軍曹との関係が、まるで、親子のような関係に昇華していけばいくほど、英軍将校との対立は深刻になっていく。

そんな状況下で、二人目の犠牲者が出た。

作業中、セバスチャンが2個重なった地雷に気付いた時だった。

大声を上げたセバスチャンの注意に気づくことなく、双子の兄のヴェルナーが爆死するに至る。

信管を抜き取った後、地雷のワイヤーを引っ張ったことで、爆破してしまったのである。

敵を油断させて仕掛けた「ブービートラップ」である。

この結果、残された弟のエルンストは、その衝撃を受け止められず、一切の拠り所を失い、喪失感を深めていく。

祖国での会社経営を語リ合っていた双子の夢が、瞬時に崩壊するに至ったのである。

この事故は、ラスムスン軍曹が変化していく決定的なモチーフになっていく。

地雷除去の作業に休日を設け、少年たちと共にサッカーに興じるのだ。

映像は、少年たちの笑顔を初めて見せる。

しかし、それは束の間(つかのま)の休日だった。

愛犬が地雷の犠牲になってしまったのだ。

この一件は、ラスムスンを「鬼の軍曹」に戻してしまう。

本作の中で最も重要なエピソードなので、後述する。

少年たちを震撼(しんかん)させる事故が起こった。

海岸沿いに住む農家の幼女が地雷原に入り込み、その母親が軍曹に救助を求めるが、不在だったので、セバスチャンが危険なエリアに入り、幼女の救出に向かう。

しかし、今や、兄を喪ったトラウマで自我が半懐しているエルンストが、危険を顧(かえり)みることなく、砂浜を歩いて幼女に辿り着く。

セバスチャンが幼女を救出した後、エルンストだけが戻らず、海岸に向かっていくのだ。

エルンストに戻るように促す少年たちの声を無視した結果、エルンストの爆死が出来(しゅったい)する。

本質的に、この事故死は、最も信頼する兄を喪い、心的外傷を負ったエルンストの自殺であると言っていい。

悲劇が終わらない。

空をも焦(こ)がす爆裂があった。

信管を抜き取り、地雷をトラックに運んでいた複数の少年兵が、一瞬にして爆死してしまうのである。

先述したように、信管を抜き取った地雷であっても、大量の弾薬を含むので危険極まりないのだ。誘爆し、大爆発を引き起こしてしまったのである。

もう、限界だった。

今や、生き残った少年兵は4人のみ。

セバスチャンとヘルムートも、生き残った少年兵の中にいた。

ラスムスンは、少年兵をドイツに帰国させようとする。

生き残った4人を救うのは、それ以外の選択肢がなかった。

しかし、生き残った4人ばかりか、ラスムスンも騙される。

エベ大尉は、7万2千個の地雷があるスカリンゲンという、「デンマーク最後の地雷原地帯」と言われる危険地帯に、4人を送るのだ。

地雷除去の経験者が必要だったからである。

エベ大尉に抗し、ラスムスンは「国に帰してやってくれ。頼む、死なせたくない」と強く申し入れるが、「命令だ」の一言で全く取り合わない将校。

「エベ」と呼び捨てしてまで迫るラスムスンが、最後に選択したアクションは、セバスチャンら4人をトラックから下ろし、「国境は500メートル先だ。走れ」と言って、解放する行動だった。

自らを犠牲にしてまで逃がしてくれるラスムスンに、声をかけられず、後方を振り返りながら走っていくセバスチャン。

いつまでも、少年兵を見つめ続けるラスムスン。

ラストカットである。

空をも焦がす爆裂の恐怖の中で、地雷を除去するドイツ少年兵たちの物語が終焉する。

「2000人を超えるドイツ軍捕虜が除去した地雷は、150万を上回る。半数近くが死亡、または重傷を負った。彼らの多くは少年兵だった」(キャプション)

伏線描写や音楽の多用、「スーパー少年」(セバスチャン)に象徴されるシンプルなキャラクター設定、等々、相当にハリウッド的だが、それでも感銘深い映像だった。

人生論的映画評論・続「人生論的映画評論・続: ヒトラーの忘れもの('15)  マーチン・サントフリート」(’15)より 

ティエリー・トグルドーの憂鬱('15)  ステファヌ・ブリゼ

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セルフネグレクトすることで削られてしまう「自己尊厳」だけは手放せなかった男の物語>

1  物言わぬラストシーンの先に待つ、ネガティブな状況を引き受けていく覚悟


頑固だが、仕事熱心なエンジニアのティエリーが、人件費の削減のためにリストラする会社の経営方針の犠牲となり、集団解雇される。

進路で迷う発達障害の一人息子と、心優しい妻を持ち、失業の憂(う)き目に遭(あ)ったティエリーの再就職探しが開かれるが、この国の若者たちの失業率の異様な高さと切れていても、中高年の再就職も決して楽ではなかった。

職安に斡旋されたクレーン技師の資格を取得しても、未経験者だから雇えないと断られる始末。

面接は頓挫(とんざ)し、必死で職を得ようとする寡黙(かもく)なティエリーが、その性格を反映する就活セミナーでの模擬面接のシーンが面白かった。

「猫背に見えて、覇気が感じません」
「胸元が開いていました。浜辺にいる気楽な人みたい」
「笑顔がなく、冷たい感じが」
「考え込み、心、ここにあらずという感じ」
「おどおどして、心を閉ざしてるように見えます。答え方もおざなりで、面接に集中していない様子。主張がない」
「活気がない」等々。

ティエリーの模擬面接での様々な態度を、明らかに、年少の若者たちから、率直に吐露されるのだ。

そして、就活セミナーの講師による、面接での守るべき態度を教示される。

「面接では、愛想の良さが、とても有利な要因となります。面接官に、いい雰囲気を感じさせること。彼らは、あなたの働く姿を想像します。面接での態度や表情から、職場での姿を思い描くのです。ですから、面接での社交性は重要な決め手となります」

それを真摯に受け止めるティエリー。

模擬面接でのティエリーの態度こそ、トレーラーハウスの売却交渉で見せた頑固さや、愛想の悪さ、「冷たい感じ」などが、この直後に、彼が得た職にフィットするように印象づけるものだった。

彼が得た職 ―― それは、スーパーの監視人という、常に目を光らせて店内を見回る、「万引きGメン」のような職務。

ティエリーは、スタッフと協力し、店内の見回りや監視カメラをチェックして、万引き犯を摘発したら、常習犯でない限り、報告書を書かせ、できる限り、その場で金銭的に解決するという職務を遂行するが、どこのスーパーでも常態化しているように、当然ながら、万引きの対象にレジ係などの従業員も含まれていた。

それは、防衛的で、家族思いの誠実な性格と些(いささ)かマッチングしないような仕事だったが、真面目な性格が功を奏して、忠実に職務を遂行するティエリー。

そんな彼が意想外の事件に遭遇する。

仕事熱心な女性従業員がクーポンの割引券を、常習的に万引きしている現場に立ち会って、即日解雇されたその夜、店内で自殺するという衝撃的な事件だった。

数日後、ティエリーは黒人女性のレジ係が、自分のポイントカードをスキャンさせた不正行為を監視カメラで目撃し、別室へ連れて行く。

「これは犯罪よ」と女性監視人。

「たかがポイントよ?万引きとは違うわ」とレジ係。

その現場に立ち会ったティエリーは、レジ係から、「あなたでも、上司に報告する?」と問われ、「分らない」と一言、反応するのみだった。

その直後のティエリーの行動は、意を決したように部屋を出ていくシーン。

自ら選択した再就職先を退職し、スーパーの監視人という職務と訣別(けつべつ)するのだ。

物言わぬラストシーンの先に待つ、ネガティブな状況を引き受けていくティエリーの覚悟を問うかのように、観る者に暗示させて、ドキュメンタリーの如きリアリズムで貫流させた物語が閉じていく。

 

人生論的映画評論・続「人生論的映画評論・続: ティエリー・トグルドーの憂鬱('15)  ステファヌ・ブリゼ」('15)より

同性愛者を許さない ―― 究極の残酷刑・石打ち刑で罰する

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1  感情が憎悪に変換され、集合化した人々の憎悪が、石を手にする者の「正義」に収斂されていく


予(あらかじ)め、身動き取れないようにされる。
体中を縛られるのだ。
声を出せないように、布などを口に押し込められる。
猿轡(さるぐつわ)である。
白い布で全身を包まれる。
破壊された身体の一部が飛散しないためだ。
刑場となる広場に運び込まれ、下半身を土に埋められる。
全く動きが取れなくなる。
ここから石打ち刑が爆裂する。
激しい痛みが音声になっても、四方八方から握り拳程度の大きさの石が飛んでくるから、音声を掻(か)き消してしまうのだ。
まもなく、その音声が消えていく。
膝下(ひざもと)が骨折する。
それでも、即死させない。
簡単に即死させるわけにはいかないのだ。
罪人の苦痛を最大限にするためである。
だから、石打ち刑の執行を停止させる。
翌日、刑の執行を再び開くためだ。
昼食時に休みを入れ、午後から再開し、夕方まで続けられる。
顔が血だらけになった罪人が、ここで絶命しなかったら、その翌日も続くのだ。
この「悪魔の連鎖」を、人は「究極の残酷刑」として受け止める。
―― さすがに、現在は、何日もかけて処刑するような石打ち刑は行われていない。
それでも、一部のイスラム教国では、未だに、この「究極の残酷刑」を採用している地域も存在している。
それをネット画像でも見られるという現実自体、異常極まりないと言える。
究極の残酷刑・石打ち刑が、人権擁護団体の槍玉に挙げられているのは言うまでもない。
同性愛者を許さない。
この感情が憎悪に変換され、集合化した人々の憎悪が、石を手にする者の「正義」に収斂されていく。
「正義」に収斂された感情が、無敵の稜線を駆け登っていく。
無敵の稜線を駆け登っていく歩程(ほてい)が積み上げられるほど、感情が昂(たか)ぶり、その昂揚(こうよう)が「正義」を捨てていく。
捨てられた「正義」は土塊(つちくれ)と化し、真砂土(まさど)に風化していく。
もう、そこには、射程に捕捉される何ものもない。
憎悪が継続力を持ち、同性愛者を許さないという、集合化した人々のラインだけが崩れずに、どこまでも連なっていくのだ。

 

以下、時代の風景: 同性愛者を許さない ―― 究極の残酷刑・石打ち刑で罰する

 

香港の若者たちを見殺しにしてはならない

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1  「我々にとっては、生きるか死ぬかの状況だ」


海外での仕事を辞めて、香港に戻って来た青年がいる。

目的は、ただ一つ。

香港の抗議活動に参加するためである。

「香港の将来のための、生きるか死ぬかの闘いだ」

そう言い切ったのだ。

黄之鋒(こうしほう)・周庭ら、10代の学生が指導した「学民思潮」(香港の学生運動組織)(のちに「香港衆志=デモシスト」に参加)の初心(うぶ)な学生運動が、「香港に、今ない民主主義」=「普通選挙の実施」を求めた「2014雨傘運動」の頓挫(とんざ)と切れ、これに対して今回のデモは、「今、あるものが失われようとしていることを食い止める」ための闘争の様相を呈している。

「今、あるもの」とは、「港人治港」(こうじんちこう/香港人による香港の統治)という、香港市民に与えられた絶対的特権である。(因みに、反意語は「京人治港」(「北京の人間が香港を統治する」)

これが壊される恐怖。

即ち、香港の書店関係者が、中国当局によって拘束された「書店員失踪事件」(「銅鑼湾書店事件」)によって沸点に達したが、「香港で国家分裂や反逆などを禁じる条文」として、常に問題化される「香港基本法23条」によって「逃亡犯条例」改正案が、「港人治港」を疑うことがない、ごく普通の香港市民に突き付けられたのだ。

刑事犯罪者(思想犯)を「反送中」(中国への強制送致)を可能にする、「逃亡犯条例」の改正案こそ、2019年6月から開かれた「2019雨傘運動」のコアにある。

「今、あるもの」さえ奪われる香港市民の怒りが、200万デモ、170万デモという、想像の域を遥かに超えた動員力のうちに爆轟(ばくごう)したのである。

冒頭の青年の話に戻す。

彼は、デモ隊の要求は受け入れられないと、改めて表明したキャリー・ラム行政長官の攻撃的姿勢や、香港の新界に隣接する深圳市(しんせんし)に中国の武装警察を駐留させている現状を知って、決断する。

「今しかない。だから香港に帰って来た。今回成功しなければ、香港は言論の自由、人権、全てを失う。抵抗しなくちゃいけない」

「『自分は役立たず』と言って、デモに参加でずに罪悪感に苦しむ香港人留学生」(ニューズウィーク日本版 2019年9月4日)が多く存在する中で、件(くだん)の青年を動かした香港の現実の大きな変容。

それは、実弾まで使用するに至った、香港警察の圧力による抗議活動の衰勢と過激化の風景だった。

また、ある教師は匿名を条件に訴えた。

「闘い続ける必要がある。一番恐ろしいのは中国政府だ。我々にとっては、生きるか死ぬかの状況だ」

逮捕者は、既に1000人以上。

それでも、香港の若者たちは怯(ひる)まない。

参加者の多くは、アパートの狭い部屋で、家族と暮らす生活を繋いでいる。(ニューズウィーク日本版 2019年8月31日「『生きるか死ぬか』香港デモ参加者、背水の陣」参照)

日経ビジネス」によると、香港市民の生活は決して豊かではない。

この事実は、所得分配の不平等さの指標である「ジニ係数」で現れている。

香港の「ジニ係数」をみると、返還直前の1997年では0.483、2006年には0.5、2011年には0.537までに達している。

0. 4が警戒ラインで、0.6以上が危険ラインとも言われる「ジニ係数」の数値のリアリティ。
 
「香港政府による土地供給に入札できるのは、実質的には財閥と呼ばれる巨大資本のみ。彼ら「持てる者」は土地高騰によって利を得るが、大多数の香港人にはその恩恵が届かない。持てる者と持たざる者の格差はますます広がっていく」

この「日経ビジネス」の記事は、香港デモの背景にある由々しき事実の一端を説明していると言える。

そんな状況下で、「立ち上がって政府を倒すか、政府のいいようにされるかだ。選択の余地はない」と言い切る若者がいる。

彼らの危機意識の根柢に、「中英共同宣言」(1984年)によって、返還から50年後の2047年に、香港の「高度の自治」が失効するという観念が覆(おお)っているのだ。

「時間はなくなりつつある」

この危機意識が、香港の若者たちを動かしているのである。

以下、「時代の風景:香港の若者たちを見殺しにしてはならない」より

https://zilgg.blogspot.com/2019/09/blog-post_9.html

 

日本の年金制度をやさしく解説する

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1  「人生100年時代」の中で、「人生脚本」を前向きに発想し、自律的に考えていく


【ここでは、批評含みの言及で括りつつも、基本的には批評抜きで解説している】

2019年、厚生労働省が「年金財政」の検証結果を、「社会保障審議会年金部会」(厚労相の諮問機関)に提出した。

今後100年にわたって推計し、若い世代に対し、厚生年金・国民年金の財政健全度の将来像を示す重要な作業である。

結果からは、基礎年金の最低保障機能の強化や、低成長が続く中でも、年金の実質価値を毎年下げるルール(マクロ経済スライド)への改定の制度改革の必要性が読み取れる。

厚労省が年金の定期健診と呼ぶ「財政検証」は、「年金改革法」(2004年)によって、原則5年に1度の実施が義務づけられているが、この3度目に及ぶ検証によって炙(あぶ)り出されたのは、若い世代が求めるに足る年金が確保できない恐れがあること。

この大問題を今、私たち日本国民は認識せねばならない。

ここから、日本の年金制度をやさしく解説していく。

まず、押さえておきたいのは、社会人1年生の給与明細から天引きされた厚生年金保険料は、件(くだん)の1年生の将来の年金額にならないという事実である。

では、誰に支給されるのか。

現在、年金を受け取っている高齢者に支給されるのである。

これは、日本の年金制度の仕組みを理解すれば、すぐ分ること。

日本の年金制度が、現役世代が高齢世代を支える「賦課(ふか)方式」になっているからである。
公的年金の保険料の総額は36兆円で、これに税金を加算した収入総額は53.5兆円。(図示した通り)。そして、給付は総額51.6兆円となっている。

ここで、国民年金に上乗せされて給付される、会社員の厚生年金保険料を示すと、給与×18.3%で、これを、会社負担と自己負担が9.15%の折半になる。

日本の公的年金は「2階建て」になっていると言われる所以である(図示・厚労省)。

現在、「賦課方式」によって、高齢者に支給される年金額の平均が、月額約22万であるのに対して、20歳以上60歳未満の国民全員が必ず加入することになっている国民年金=「基礎年金」が、満額のケースで1人あたり約6万5000円。

年金の受給年齢は原則65歳。

前倒しで60歳から受給したり、先送りで70歳から受給するのも可能だが、前者の場合、最大で30%程度減額する一方、後者の場合は42%増額するので、自身の健康状態が判断の目安になるだろうか。

ただ、医療の驚異的な進化によって、日本国民の平均寿命が伸びている現実を踏まえ、後者に一括するシステムの定着化を目指して、政府は制度の見直しを検討している。

但し、少子高齢化の問題がリアリティを帯びてきて、「減っていく年金額」の深刻度に如何に対処するかというテーマが、我が国の「生き死に」に関わる問題にまで膨れ上がってきた。

現在の受給者と、将来世代の受給者の間の格差が広がっていること。

この辺りは最重要課題なので、後述する。

国民年金=「基礎年金」の話に戻す。

この国民年金の保険料は定額であり、2016年度は月額16260円となっている。

加入期間に応じて決まる国民年金の支給額を、2015年度価格の算定式で言えば、少し複雑だが、780100円×(加入月数÷480)ということになっている。

加入期間が満期の40年間ある場合には、満額がもらえるが、それより少ないと、少しずつ減っていくシステムである事実を押さえておきたい。

ここで、もう一度、「現役世代が払った保険料を高齢者に給付する、『世代間での支え合い』の仕組み」について、長文だが、厚労省の広報から引用する。

公的年金制度は、いま働いている世代(現役世代)が支払った保険料を仕送りのように高齢者などの年金給付に充てるという『世代と世代の支え合い』という考え方(これを賦課方式といいます)を基本とした財政方式で運営されています(保険料収入以外にも、年金積立金や税金が年金給付に充てられています)。  
また、日本の公的年金制度は、『国民皆年金』という特徴を持っており、20歳以上の全ての人が共通して加入する国民年金と、会社員が加入する厚生年金などによる、いわゆる『2階建て』と呼ばれる構造になっています。
具体的には、自営業者など国民年金のみに加入している人(第一号被保険者)は、毎月定額の保険料を自分で納め、会社員や公務員で厚生年金や共済年金に加入している人(第二号被保険者)は、毎月定率の保険料を会社と折半で負担し、保険料は毎月の給料から天引きされます。
専業主婦など扶養されている人(第三号被保険者)は、厚生年金制度などで保険料を負担しているため、個人としては保険料を負担する必要はありません。
老後には、全ての人が老齢基礎年金を、厚生年金などに加入していた人は、それに加えて、老齢厚生年金などを受け取ることができます。このように、公的年金制度は、基本的に日本国内に住む20歳から60歳の全ての人が保険料を納め、その保険料を高齢者などへ年金として給付する仕組みとなっています」(厚労省ホームページ)

以上で述べているように、専業主婦で、夫が会社員や公務員の場合は、原則60歳まで保険料を払わずに、基礎年金を65歳から受け取れる。

これは「第三号被保険者」と呼ばれている。

パートで働いている場合、年収106万円までなら厚生年金に加入せずにすむため、働き過ぎないよう調整する主婦もいるのは、よく知られている。

また、従業員が受け取る「給付額」があらかじめ約束されている企業年金がある。

確定給付企業年金」と「確定拠出年金」という、2つの私的年金である。

最も多く利用されている「確定給付企業年金」は、企業が利回りを事前に決めて運用する企業年金であるのに対し、「確定拠出年金」は自ら運用する私的年金で、安定志向の強い日本人が、運用手段を自分で選ぶ後者よりも、前者を選択するのは必然の理であると言える。

ここで、「減っていく年金額」の問題に言及する。

1945年生まれで厚生年金に加入していた人は、保険料負担1000万円に対し、受給できる年金額が5200万円で、これは保険料の5.2倍にあたる。

ところが、1990年生まれ(Y世代=「氷河期世代」=「ロストジェネレーション」、アメリカではミレニアル世代)の人は3200万円の保険料に対し、受給額は7400万円で、これは保険料の2.3倍と低下する。

世代間の格差が顕著であることが判然とする。

以上が、厚労省の試算である。

様々な波紋を呼び、話題となった金融庁・金融審議会の「市場ワーキング・グループ」(座長 神田秀樹 学習院大学大学院法務研究科教授)の報告書によると、95歳まで生きる場合、公的年金に頼った生活設計では2000万円が不足すると指摘し、「資産寿命」(長い老後を暮らすための資産の蓄え)を延ばすことを求めたことで、年金制度への不信感がピークに達し、国民からの不満が炸裂した。(金融庁ホーム・令和元年6月3日)

当然のことである。

今や、人間の「生理的寿命」(限界寿命)が、「資産寿命」を追い抜いてしまったという事実の重さ。

資産が底が突きたら「老後難民」になるということか。

一言で要約すれば、ウェルビーイング(良好な状態)の老後を過ごすためは、自助努力が不可避であると言っているのだ。

「人生100年時代」の中で、「人生脚本」を前向きに発想し、自律的に考えていくことには何の問題もないが、「老後資金2000万円問題」の骨子は、本来的に金融機関サイドの問題であって、国民の自助努力の範疇を超えている事実を軽視していること。

これが問題なのである。

それでも、安定的な資産形成を望み、自助努力を怠らない多くの日本国民にとって、より豊かな老後生活を送るために、「老後資金2000万円問題」を主体的に受け止めていくだろう。

従って、「人生100年時代」を生きるには、例えば、NISA(ニーサ・少額投資非課税制度/注1)・IDECO(イデコ・個人型確定拠出年金/注2)などの私的年金が、資産形成方法の一つの手立てとして活用しやすく、有効であると思われる。

(注1)「2014年1月にスタートした、個人投資家のための税制優遇制度です。通常、株式や投資信託などの金融商品に投資をした場合、これらを売却して得た利益や受け取った配当に対して約20%の税金がかかります。毎年一定金額の範囲内で購入したこれらの金融商品から得られる利益が非課税になる、つまり、税金がかからなくなる制度です」(金融庁ホーム)

(注2)「個人型確定拠出年金(IDECO)は、確定拠出年金法に基づいて実施されている私的年金の制度です。この制度への加入は任意で、ご自分で申し込み、ご自分で掛金を拠出し、自らが運用方法を選び、掛金とその運用益との合計額をもとに給付を受けることができます。また、掛金、運用益、そして給付を受け取る時には、税制上の優遇措置が講じられています。」(IDECO公式サイト)

「時代の風景:日本の年金制度をやさしく解説する」より

https://zilgg.blogspot.com/2019/09/blog-post.html

 

(2019年9月)

セールスマン(’16)  アスガー・ファルハディ

(’17)f:id:zilx2g:20190827104421j:plain

「報復権」を解体できない男の最終的焼尽点 ―― その内的風景の痛ましさ

1  事件の破壊的トラウマが関係を食い潰していく ―― その1


「皆逃げて!」
「アパートが壊れるよ!」

大声が飛んだ。

アパートの倒壊危機の状況下で、「何があったんです?」と尋ねても、埒(らち)が明かなかった。

エマッドは妻のラナを呼び、逃げることを促し、アパートの住民は性急に避難する。

アパート住民が、逃げ場を求めてパニックになっている、この冒頭のシーンの混乱は、ショベルカーの映像提示によって、都市を再開発し、高級化する「ジェントリフィケーション」の様態と切れ、高い経済成長を実現しつつある「中進国」にあって、近代化の急速な膨張による、杜撰(ずさん)な工事の悪しき所産であることが判然とする。

エマッドの怒りは、近代化と、北部中心に進む歪(いびつ)さを見せる都市化が急速に進むイランの現状を炙(あぶ)り出していた。

イランの首都テヘランは、1400万弱の人口を抱える同国最大の都市である。

イスラム教の第4代正統カリフマホメットムハンマド死後の国家指導者)のアリ―(ムハンマドの父方の従弟)の子孫のみが、「ウンマ」(イスラム共同体)の指導者とするシーア派の拠点国家であり、「中進国」イランのテヘランは、このシーア派住民の文化的中心地でもある。(イラン人は、サウジアラビアのようなアラブ民族ではなく、ペルシア人であり、言語も、ユーラシアから西アジア、南アジアに広く分布する、インド・ヨーロッパ語族のペルシア語である)

その文化的中心地として急成長を続けている、イラン北西部・テヘランに、国語教師のエマッドと妻のラナが住み、共に、小劇団に所属して、今、アーサー・ミラーの代表的戯曲「セールスマンの死」の舞台稽古で、老いた主人公夫婦を演じ、精を尽くしている。

そんな渦中で惹起したアパートの倒壊事故によって、居住スポットを奪われた夫婦は、同劇団のババクが紹介してくれたアパートに移住する。

「最低な街だな。全部壊して、やり直した方がいい」とエマッド。

「やり直した結果がこれだ」とババク。

管理人のいない、移住先のアパートでの会話である。

ところが、この移住先がとんでもない代物(しろもの)だった。

そこに住んでいた、前の住人所有の多くの荷物が無造作に残っていたからである。

アパートの住人の話では、前の住人(ラナとの電話のやり取りがあるが、基本的にマクガフィン)は、引きも切らず、異なる男が訪ねて来て、「ふしだらな商売」をしていた女性であると言うから、余計、厄介だった。

そして迎えた、「セールスマンの死」の公演。

事件が起こったのは、その夜だった。

夫より先に帰宅したラナが何者かに襲われ、浴室でレイプの被害に遭ったのだ。

相手の顔を見る余裕すらないパニック状態の只中で意識を失い、事件を知った隣人のサポートを得て、浴室から病院に連れて行かれ、ERで治療を受けていた。

夫の帰宅と誤って、玄関の扉を開けてしまったラナの行為に全く落ち度がない。

だから、事件を知ったエマッドが、ラナを誹議(ひぎ)することはない。

それでも、この理不尽な事件を悲憤慷慨(ひふんこうがい)する、エマッドの怒りの感情は収まらない。

それは、事件の破壊的トラウマによって、「男性恐怖症」(恐怖対象が男性である対人恐怖症)に陥り、身動きが取れないラナと、そのラナを襲った男に対する感情が膨張し、復讐的暴力の忿怒(ふんぬ)を抑えられないエマッド。

まさに、瞋恚之炎(しんいのほむら)である。

そんな二人の会話。

「一人は怖いの」とラナ。
「警察に行こう。告発すれば、犯人が見つかる」とエマッド。
「どういう風に?」
「奴のトラックがあるから。携帯もあったが解約されていた」
「誰なの?」
「前の住民は、ふしだらな女だったそうだ。犯人は彼女の客らしい」
顔に傷を受け、記憶を失っているラナの内側では、極度に「男」を怖れる感情だけが漂動(ひょうどう)していた。
「髪を触られ…あなただと思って、あとは何も覚えていない…」

嗚咽しながら、必死に、それだけを話すラナ。
セールスマンの死」を演じるラナは、もう、リアルな演技を演じ切れない。
だから、代役を立てられる。

「一人が怖いの」
「しばらく実家に帰るか?」
「この顔で?」
「今朝、決心した。警察に行くか、忘れるか、どっちかに」
「すべて忘れて引っ越しを」
「分った。だが、その前に。君がしっかりしてくれ」
「私のせい?」
「きちんと薬を飲んで、夜はちゃんと寝てくれ」

一貫して、自室の浴室でシャワーを浴びることを拒むラナに対して、苛立(いらだ)つエマッド。

「君が分らない。夜は、そばに寄るな。昼は、そばを離れるな。どうすればいい?」
「死ねばよかった…」

一人で仕事に向かおうとするエマッドは、部屋の隅で項垂(うなだ)れているラナに気づき、傍(かたわ)らに座り、「よせ」と一言。

エマッドにとって、強姦された妻への復讐の情動を抑え、事態の収束を警察に委ねようとするが、その合法的選択肢をも拒絶するラナを目の当たりにして、もう、何も言えなかった。

責めているのではない。

気持ちも分らなくない。

それでも、内側に累加されたストレスを処理できず、思わず、不満を洩(も)らしてしまうのだ。

思うに、エマッドの行動原理のうちに、被害者遺族の「報復権」という、暴力的な観念が張り付いていて、これが彼の復讐的暴力の忿怒の心理的推進力になっていた。

教師でありながら、授業中に居眠りをしてしまうほど疲弊し切っていくエマッドの心身は、妻ラナと異なる次元で、ウエルビーイングの状態から完全に乖離(かいり)していた。

まるで、事件の破壊的トラウマが、二人の関係を食い潰していくようだった。

人生論的映画評論・続「セールスマン」(’16)より

https://zilgz.blogspot.com/2019/08/blog-post_27.html

ハッピーエンド(’17)   ミヒャエル・ハネケ

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<「疑似リアル」の世界で、「生身の日常空間」を異化する少女の「見捨てられ不安」の重さ>

1  「ディスコミュニケーション」の空疎な風景が漂動する


いつも書いていることだが、家族とは、分娩と育児による世代間継承という役割を除けば、「パンと心の共同体」である、と私は考えている。

近代化され、一定の生活水準の高さを確保した社会の中で、家族の役割の中枢は、今や、「心=情緒の共同体」にシフトしてきている。

「情緒の共同体」は、現代家族の生命線なのである。

家族とは、大いなる「安らぎ共同体」であると言っていい。

この辺りの崩れが顕在化したとき、家族は、忽(たちま)ちのうちに幻想=「物語」を剥(は)ぎ取られ、そこに家族成員の確信的で、継続的な努力が傾注されていかない限り、その崩壊を防ぐのは難しいと言わざるを得ない。

―― ここで、「家族とは社会の核であり、家族を語ることは同時にその集約である社会を描くこと」と語る、ミヒャエル・ハネケ監督の「ハッピーエンド」の中で描かれた、三世帯家族の実相に言及したい。

以下、ホームページから、本篇のストーリーの概略。

「カレーに住むブルジョワジーのロラン家は、瀟洒(しょうしゃ)な邸宅に3世帯が暮らす。その家長は、建築業を営んでいたジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)だが、高齢の彼はすでに引退している。娘アンヌ(イザベル・ユペール)が家業を継ぎ、取引先銀行の顧問弁護士を恋人にビジネスで辣腕(らつわん)を振るっている。専務職を任されたアンヌの息子ピエールはビジネスマンに徹しきれない。使用人や移民労働者の扱いに関しても、祖父や母の世代への反撥(はんぱつ)があるものの、子供染みた反抗しかできないナイーブな青年だ。また、アンヌの弟トマは家業を継がず、再婚した若い妻アナイスとの間に幼い息子ポールがいる。その他、幼い娘のいるモロッコ人のラシッドと妻ジャミラが住み込みで一家に仕えている」

簡単に説明すれば、これが、三世帯家族のアクチュアリティー(現実性)の様態である。

だから、物語の序盤で透けて見えてくるロラン家には、「家族共同体」の自壊現象によって、家族内部の意思疎通(いしそつう)が顕著に剥(は)がされ、殆ど修復の余地がないような心象を、観る者に与えてしまう。

老いた父の建築業を継いだ辣腕家の姉・アンヌや、リールにある病院の外科部長の任にある弟・トマが、ただ形式的に「情緒的結合力」の表層を装おう努力を繋ぐが、二人がその行動に振れれば振れるほど、ロラン家の「ディスコミュニケーション」の内実が露わにされていくという、トラジコメディ(悲喜劇)の空疎感が漂動(ひょうどう)する。

典型例として映像提示されたのは、アンヌとピエールの母子関係。

食卓を囲む限定スポットで、アルコール依存症とも思しきピエールを、母のアンヌが注意するシーンがあった。

「親子ゲンカは、食後にやってもらうとありがたい」

この老父のジョルジュの一言で、言い訳をしながら、「親子ゲンカ」が中断されるという些細(ささい)なシーンだが、この母子関係の歪(ゆが)みは、本篇の最後まで延長されるので、看過できない問題を抱えていたと言える。

建設現場での事故を機に、責任者であるピエールの振舞いの不味(まず)さが、かえって事態の収拾を拗(こじ)れさせ、有能な母から駄目出しされるエピソードの挿入は重要である。
ピエールが事故の被害者宅を訪ね、逆に殴られてしまう始末の悪さは、これで、もう何もできなくなり、〈状況逃避〉するこの男の、融通無碍(ゆうずうむげ)とは全く無縁な、捩(ねじ)れ切った人格像を提示することで了解可能である。

「能なしだ、僕は能なしだ」
「バカ言って」
「思ってるくせに。会社を継ぐ気がないと分ってるだろ」
「それで、何するの?」
「何かしないと、まずい?」
「自分が可哀そう?殴られて、いじけるなんて、ただのガキよ!」
「いつものママに戻ったね。早く帰って仕事しなよ」
「お手上げだわ」
「その通り」

この会話は、〈状況逃避〉する息子と、建前と本音を分ける母との関係の歪みの本質が、二つの矛盾したメッセージ(メッセージ+メタメッセージ)を送波するダブルバインドの、コミュニケーション状況にある現象を示唆するものだ。

「やればできる。頑張って」と言いながら(建前のメッセージ)、頑張ろうと努力しても頓挫(とんざ)した息子を、「お手上げだわ」という本音を吐露する母。

普段はその本音(メタメッセージ)を隠し込み、「あなたが会社を継ぐのよ」と言いつつも、「能なしで、会社を継ぐ気がないと分ってる」母が、再婚予定の弁護士と共に、建築会社の再興と発展を考えているだろう物語の予想展開は、アンヌとピエールの母子関係が、既に、ピエールの子供時代に淵源(えんげん)することをサゼッションしている。

だから、ラストでのアンヌの婚約発表のパーティーで、アフリカ移民を連れて乗り込み、母の婚約者を突き飛ばそうとし、パーティーを壊そうとするピエールの稚拙な行動にまで振れてしまうのだ。

どこかで、「見捨てられ不安」とも共存していたに違いない、ピエールの自我の底層に深く張り付く「母の呪縛」という、解決困難な根源的テーマの重さ。

この重さによるストレス解消のために、行きつけのカラオケステージで、精一杯のパフォーマンスを見せるピエール。

この若者には、カラオケステージで暴れ捲(まく)ることで、辛うじて、自己同一性を保持しているのだろう。

少なくとも、この母子関係の家庭が、「安らぎ共同体」とは無縁だったことは充分に理解可能である。

―― 次に、アンヌの弟・トマの生活風景について。

父の家業を継ぐことなく、再婚相手である、若く心優しい妻・アナイスとの間に幼い息子・ポールを儲け、病院の外科部長の任にあり、何不自由なく暮らしている。

社会人として、有能な姉弟を強く印象づけるが、外科部長の任にあるためか、毎日、帰りが遅い。

このような人物によくあることだが、帰宅の遅さの原因は愛人を抱えているからである。

この映画で印象的に映し出されるのは、愛人とのチャットで「変態プレー」を愉悦するシーン。

シーンと言っても、次々に、パソコンに打ち込まれる文字の氾濫(はんらん)のみ。

例えば、こんな調子。

「何が起ころうと、いつか、あなたが忘れようと、私は永遠に、あなたのものよ。あなたを想い過ぎて、涙が出てきたから」
「君の涙は飲みたいが、泣かないでくれ。僕は苦しみの放尿で、君を慰めよう。君を傷つけたい。君の中に完全には入れないから」
「変態セックスの好みがあるなら、私に隠さず、すべて話していいのよ。私の体を利用して」

これは、愛人からのチャットだが、チャットでの卑猥(ひわい)な会話がエスカレートし、変態セックスの妄想のみで性的興奮を高め、満足する様子が手に取るように分る。

後述するが、トマの父・ジョルジュが、自家用車を運転し、自殺未遂と思われる追突事故を起こし、車椅子の生活を余儀なくされる重傷を負った現実の只中でも、トマは、このようなチャットを楽しんでいるのだ。

SNSを介して、特定他者と閉鎖系の時間を愉悦する行為に、倫理的なジャッジを下しても、何の意味もない。

他人のプライバシーに侵入し、倫理的なジャッジを加えるほど、私たちは気高くないのである。

むしろ、父・ジョルジュの追突事故に関わり、疲弊し切った感情が、愛人からのチャットに性的興奮を搔(か)き立てるような行為に振れたとも考えられる。

恐らく、人間とは、こういう生き物なのだろう。

そして、利便性が高く、瞬時に空間をワープするSNSの閉鎖系の時間を占有し、存分に愉悦する。

現代社会は、ここまで、人間の欲望を解放し、自在な移動を可能にしたのである。

トマの話に戻すが、無論、この時点で、心優しい妻・アナイスは、この事実を知る由もない。

その意味で、トマの家庭が「安らぎ共同体」を保持していると言える。

トマとの間で儲けた可愛い赤子がいて、日々、夫の帰りを待つアナイス。

経済的不安もなく、特段に、マタニティーブルーもなかったように思えるので、このまま、夫の不倫に気づくことさえなければ、夫婦の心理的共存は強化されていく可能性は高いだろう。

ところが、呆気なく、この事実が知られてしまう。

この事実を知ったのは、アナイスではない。

これも後述するが、母が入院したことで、実父のトマに引き取られ、ロラン家に厄介になる13歳のエヴである。

その方法は、スマホで動画投稿するほど、文明の利器に馴致(じゅんち)しているエヴが、父のパソコンでチャットの事実を知ったのだが、それだけでなく、愛人からの電話の素振りの不自然さで、エッジの効いた鋭利な感覚を有する少女は察知していたのである。

「恐ろしい事態になった。娘がパソコンを開け、このチャットを見た。自殺未遂を起こした。幸いなことに未遂で済んだが、僕たちの会話はすべて消さなければならない。それに、これからは何も保存できなくなる。この先、娘がどんなことを考えるのか、まるで見当もつかない。これからは時間を決めて…」

このトマの言辞の意味も、本作の要諦(ようてい)なので、後述するが、アナイスに知られることを怖れるトマの驚愕(きょうがく)の心情が、透けて見えるのだ。

愛人とのチャットに象徴されるように、この男の存在自身が、ロラン家の「ディスコミュニケーション」の、その空疎な風景の重要な因子になっている事実を炙(あぶ)り出していた。

以下、人生論的映画評論・続「ハッピーエンド」(’17)より

https://zilgz.blogspot.com/2019/08/17.html