現代社会に残存する「野生環境」の「感情システム」

f:id:zilx2g:20190813144703j:plain

1  「獲得経済」の時代から、僅か1万年のスパンでは、人間の感情は簡単に変わらない


私たちが自然を恣意的(しいてき)に加工し、破壊することで作り上げた、近代文明社会の中に呼吸を繋ぐ私たち人間が手に入れた、過剰な快楽装置と圧倒的な利便性。

そして、超絶的な合理主義の達成点とは裏腹に、どうしても、そこだけは進化が遅れる精神世界の陥穽(かんせい) ―― これはもう、為す術(すべ)がない。

「諸科学的達成の速度」に追いつけない、私たちの精神の「理性的能力の不具合感」。

全く手に負えないのだ。

思うに、「恐怖」・「逃走」・「威嚇」・「攻撃」といった「状況対処行動」が、私たちの「感情」のルーツとなったと想定されるので、「状況対処行動」という、この神業(かみわざ)の如く抜きん出た「システム」は、何億年という、膨大(ぼうだい)な時の波を潜(くぐ)って、動物の種の進化と共に進化してきた。

元より、感情の進化は、約500万~700万年前に共通祖先から分岐し、樹上生活をしていた人類のルーツが、アフリカのジャングルから草原に出たことが契機になっている。

人類が約200万年前から1万年前まで、100人規模の共同集団を営み、狩猟採集生活(「獲得経済」)を送るようになる頃には、DNAの塩基配列の約99%が等しいチンパンジーにはないような、感情や行動を形成させてきた。

人間的な「感情システム」を、私たちの祖先は構築していくのだ。

共同集団を営む行程で、「感謝」・「恩や義理」・「罪悪感」・「名誉」・「公平感」・「嫉妬」・「道徳的怒り」などの複雑な感情系が、「獲得経済」の時代の中で作り上げていたのである。

この時期は、地質時代の年代区分で言えば、最も新しい時代である「現世」=「完新世」(かんしんせい)と切れ、人類が出現し、活動した「更新世」(こうしんせい/大半が氷河時代)の期間と重なるが、しかし、野生環境に適応的だった1万年前の「感情システム」を、現代社会に適合させるのは難しい。

野生環境に適応的だった「感情システム」は、人類が「定住社会」を構築する「生産経済」という、農耕開始以前の期間の大部分を占める行程の中で作り上げ、鍛え上げられていったのである。
ところが、200万年の時間を要して、私たちが作り上げていった「感情システム」は、私たちの精神の「理性的能力の不具合感」を生んでしまっている。

このギャップは、一体、どこからくるのか。

人間の感情は、野生環境に適合すべく、200万年の時間を要して作り上げた文化的結晶だから、充分に、「適応行動選択システム」としての高度な機能を具有している。

この「適応行動選択システム」を、心理学者・戸田正直は「野生合理性」と定義する。

この概念は、感情が進化の結果によって獲得したものであり、本来、環境に適応したものであったにも拘らず、進化が追いつかないほど、環境を激変させてしまったことで、200万年の時間を要して作り上げた人類の「感情システム」が、現代のあらゆる文化フィールドで不合理になっていったという深い意味を持つ。

これが「野生合理性」である。

それ故、現代社会において、この「感情システム」が、必ずしも、人類の「生き延び」に有利に働いていないと、戸田正直は指摘するのだ。

それは、「野生環境」⇒「文明環境」という劇的な遷移(せんい)を一気に経由して、環境の基本条件をグレート・リセットさせてしまった歴史的現象に対応する。

ましてや、「獲得経済」の時代から、「生産経済」の時代に遷移したのが、僅か、1万年前のこと。
驚いたことに、この1万年の間に、人類は「文明」を構築してしまった。

そして、この「文明」が、「近代社会」を作り上げた。

すべてのフィールドに及んで、極めて利便性の高い「高度大衆消費社会」を構築してしまったのである。

巨大な台風の「急速強化」の現象をトレースするように、デジタル化への進化は、フィルムカメラデジタルカメラに取って代わったように、破壊的な技術を有する後発の事業に関心を持たず、自ら革新していかないと、後発の事業に呆気(あっけ)なく抜かれてしまうという、米国の経済学者・クレイトン・クリステンセンが言う、「イノベーション(技術革新)のジレンマ」が出来(しゅったい)した。

180万円程度で、アルゼンチンの最南端から出港し、約2日を要しただけで可能な「南極観光ツアー」は理解に及んでも、100億前後のツアー料金で、「月面旅行」を可能にした「現代社会」のスケールの大きな展開に、貴方はついていけるか。

私もついていけるか。

完全に未知のゾーンに踏み込んでしまった、終わりの見えない時代の変移に、私たちはついていけるか。

「獲得経済」の時代の終焉から、僅か、1万年の時間の経緯で構築してしまった「近代文明社会」の、眩(まばゆ)いほどの相貌(そうぼう)の際立(きわだ)つ総体。

これについていけるか。

残念ながらと言うべきか、僅か、1万年のスパンでは、人間の感情は簡単に変わるわけがない。
「獲得経済」の時代から、僅か、1万年の時間で、「近代文明社会」を作り上げてしまった人類の超高速の革命的遷移。

驚きを禁じ得ない。

多くのリンクを持つノード(ネットの接点)がネットを占有する現象・「スケールフリー・ネットワーク」や、「80:20の法則」で知られる「パレートの法則」(全体の数値の8割を一部の要素が生み出す)、多品種・少量の販売で収益を確保する「ロングテール現象」、或いは、GAFA(ガーファ/グーグル・アマゾン・フェースブック・アップル)に象徴されるように、それに身を預けて成功を収める一部の者と、それ以外の大多数の者たちとの落差は、いよいよ、人類社会に広がり、浸透している。

今や、ドイツに始まった、工業のデジタル化によって製造業を根本的に変換させるという、「インダストリー4.0」の時代の幕が開いて、各国も追随する流れが、引きも切らない現象に終わりが見えないのだ。

私たちは、200万年の時間を要して作り上げた人類の「感情システム」を内包しながら、「現代社会」の衝撃を集中的に浴び続け、呼吸を繋いでいるのだ。

この事態が意味するものの怖さに、私たちは、あまりに鈍感すぎる。

「野生環境」で進化させた「感情システム」を内包しつつ、「近代文明社会」の只中を生きるのだ。

私は、このことを考える時、必ず思い出す一本の映画がある。

北野武の監督デビュー作として知られる「その男、凶暴につき」である。

以下、「野生合理性」という、「感情システム」を内蔵する男の内面世界をテーマにして、本稿の中枢に肉薄(にくはく)し、掘り下げてみたい。

 

以下、「心の風景:現代社会に残存する『野生環境』の『感情システム』」より

https://www.freezilx2g.com/2019/08/blog-post.html

香港、燃ゆ

f:id:zilx2g:20190806121531j:plain

1  「日本政府は、自分の国民の人権と身の安全、自由と命のために何か言うべきだと思います」


一人の女性がいる。

22歳の大学生である。

彼女の名は、周庭(しゅうてい/以下、全て敬称略)。

自らを「オタク」と自称し、アニメ好きで、独学で日本語を習得したほどの日本贔屓(びいき)の周庭は、「2014雨傘運動」で「ミューズ(女神)」と称された、英国領香港生まれの香港人である。

但し、「香港基本法」(香港特別行政区基本法)の「第18条及び付属文書3」により、彼女の国籍は、二重国籍が認められていない中国の国籍法の適用によって、外国国籍に「変更」することを「香港政府」(香港特別行政地区政府)の入管当局に登録し、許可が下りない限り、中国ということになる。

従って、「香港政府」の元首は、習近平中国国家主席である。

2016年時点で、734万人が居住する香港の民族の91%が中国系で、言語も中国語、広東語と英語が公用語基本法第9条)、そして、仏教、キリスト教イスラム教、ヒンドゥー教ユダヤ教道教という風に、宗教は多様である。(参考記事・「外務省・香港基礎データ」)

さて、周庭のこと。

2016年に、香港の自決権を掲げる政党として立ち上げられた「香港衆志」(ホンコンしゅうし=「デモシスト」)の常務委員を務め、「非暴力の民主化」という理念の下に活動するが、残念ながら、香港独自の選挙制度・「選挙委員会」(定数は1200名)により選出された、「香港行政長官」をトップとする「立法会」(議会)での議席を持っていない。

正確に言うと、「デモシスト」の若き初代主席・羅冠聡(らかんそう/現在26歳)が参加した「2014雨傘運動」において、10代学生が結成する「学民思潮」(香港の学生運動組織)の創立者・黄之鋒(こうしほう/現在22歳)らと共に主導し、扇動した罪で禁錮刑を言い渡されたことで、虎の子の1議席を失ったという顛末(てんまつ)がある。

「立法会」(議会)での議席を失う主因となった、「雨傘革命」と呼ばれる学生蜂起・「2014雨傘運動」において、黄之鋒と共に、学生ストライキを断行した周庭は、なお燃える香港の現在を見据(みす)え、当時の活動を語っている。

ここから、周庭のインタビューを「ニューズウィーク日本版」(2019年6月17日/「『香港は本当にヤバいです』 逃亡犯条例の延期を女神は『予言』していた」)の記事から一部引用する。

その前に、インタビューの背景にある、日々、過激化していく、出口の見えない「騒乱」の状況を惹起した大デモンストレーションの連射について、正確に整理しておく必要がある。
この大デモンストレーションの連射は、「普通選挙の実施」=「香港に、今ない民主主義」を求めた「2014雨傘運動」と異なって、2019年6月から開かれた「香港騒乱」の様相を呈し、今や、「2019雨傘運動」の範疇を超え、「香港暴動」の風景さえ露わにしているのだ。

後述するが、香港で身柄を拘束した学生活動家らの、中国本土移送を可能にする「逃亡犯条例」の改正に反対する活動家らは、改正案の「完全撤回」を求めて、敢(あ)えて中心部から離れたエリアで大デモンストレーションに打って出た。

そのデモ隊の一部が、ゴム弾用の銃や催涙スプレーを、確信犯的に使う警官隊と衝突したことで、混乱が香港の広い範囲に拡大する事態にまで進展していく。

香港政府トップの林鄭月娥(りんていげつが=キャリー・ラム)行政長官は、改正案審議の再開の予定がないことを表明したが、反対派は納得しなかった。

この辺りから、多くの香港住民をインボルブした「香港騒乱」の様相を呈するに至る。(参考記事・「時事ドットコムニュース」2019年7月14日)

以下、周庭のインタビュー。

――6月9日(2019年)のデモに103万人が参加し、更に、続いて起きたデモを香港警察が激しい暴力で鎮圧しようとする、という急な展開になっている。予想できたか?

「予想できなかったです。昔から催涙弾催涙スプレー、警棒は使われていたが、今回は『ルール』が守られていない。催涙弾を撃つときは一定の距離を空ける決まりのはずだが、今回はデモ隊の目の前で撃っている。(ゴム弾の)銃は雨傘運動の時には使っていない。デモ隊の頭に向けて撃っているが理由がない。警察官が命の危険を感じるレベルではないのに、なぜ、デモ隊に対して銃を撃つのか。しかも頭を打たれた1人はメディア関係者です。香港人として暴力を許せない。警察は(デモ参加者を)殺す気ではないでしょうか」

――現地の映像を見ていると、ただ、立っている人に催涙スプレーを掛けたり、引きずり倒して警棒で殴ったりしている。

「反抗する力を失った人に暴力をふるうのはルール違反です」

――香港警察がデモを激しい暴力で鎮圧するのは意外だ。

「警棒は雨傘運動の後半から、よく使われるようになりました。1人のデモ参加者が、5、6人の警察官に囲まれて暴力を振るわれることがあった。それでも(ゴム弾用の)銃を使ったことはない」

――デモにあれほどの参加者が来るとは予想していなかった?

「元々の予想は30万人でした。100万人は誰も想像しなかったと思う」

――そのうち10~20%は2014年の雨傘運動に参加したが、その後、デモに来なかった人、30~40%は全くデモに参加するのは初めての人、と周さんは分析している。雨傘運動の失敗以降、無力感が広がっていたにも拘らず、これだけたくさんの人が集まったのはなぜか。

「この運動は特別だと思う。なぜかというと、逃亡犯条例の改正案が可決されたら、香港人はデモの権利や中国政府に反対する権利も失う。この条例案が可決されたら絶望だ、終わりだという感情を持ってみんなデモに参加したと思う」

――危機感が共有されている、と。

「危機感というより恐怖感、恐怖感よりも絶望感だと思います。今回だけは阻止しないとダメ、という意思がすごく強かった。今までの運動とは全然違う」

――逃亡犯条例は、香港人台北で殺人事件を起こしたことをきっかけに改正の動きが始まった。もし事件がなければ、香港政府は改正しなかったのか。

「そうではないと思う。この事件は政府の『言い訳』」

――元々、こういう条例を作りたいと思っていた、と。

「この事件はきっかけの1つと思います。台湾は中国の一部という前提に納得できないので、今、(改正案が)可決されても台湾は(香港人容疑者を)引き渡さない、とはっきり言った。可決されても、台湾からの殺人犯引き渡しは実現されない。本当の理由は殺人犯の引き渡しではない、と皆が思っている。
(略)私たちのような活動家だけではなく、中国の官僚と深い関係のある、中国で商売をやっている香港人や外国人をターゲットにするのでは、と思います。今回、財界やビジネス界が強く反対するのはその証しじゃないかと」

――自分の身にいつか危害が加えられるのでは、という恐怖感はないか。

「恐怖感はあります。この改正案が可決されたら、中国はやり放題になる」

――今月20日に、犯人引き渡し条例の改正案が審議され、このまま押し切られると可決されてしまう。

「でも、立法会の審議は(デモの影響で)キャンセルされた。審議をするための会議が開けるのか、私は疑問です」

――万一、そうなった時、次にどうするのか。

「今はこの運動に集中したい。これが可決されてしまうとヤバいです」

――香港から逃げ出す人たちが増えている。

ドイツ政府も、香港からの政治難民を2人受け入れました。

――周さんも万一、身の危険が迫ったら同じような行動を?

「今はない。今は戦いたい。その時になったら、どういう気持ちになるのか予想できない。残りたいです。香港に対する責任感があるから。法案が可決されたら、香港イコール中国です。香港のメリット、香港の良さがなくなってしまう。今回の改正を心から支持している人はあまりいない。普段、ビジネス界の人たちは自分の意見を言わないし、親中派が多い。今回は自分たちが一番危ないので反対している」

――確かに、今回のデモは若者だけじゃなくて年を取った人も参加している。

「世代に関わらず、参加しています。100万人は本当に歴史的。私も初めて100万人のデモに参加しました」(筆者、段落等、再構成)

以上、周庭のインタビューの骨子の部分を引用したが、本音を隠すことなく、心情を率直に表現する彼女の真摯(しんし)さに、正直、深い感銘を受けた。

敢えて引用しなかったが、このインタビューで、我が国の対応の物足りなさを批判する、周庭の章々(しょうしょう)たる言辞を受け、忸怩(じくじ)たる思いが込み上げてきて、二の句が継げなかった。

彼女は、ここまで言い切ったのだ。

「日本政府は、自分の国民の人権と身の安全、自由と命のために何か言うべきだと思います。中国は法治社会ではない。ルールを守らない政権で、勝手に罪を作りあげるのがとてもうまい。中国で収監され、不可解な形で死んだ人もいる。自由や政治的な権利だけでなく、命の問題。捕まって中国に送られたら帰れるかどうか分らない。だからこそ、香港人だけではなく、欧米政府やEUが反対の声を上げている。日本企業や日本人がたくさん香港にいるのだから、日本政府も反応しないとだめだと思う」

その通りだと思う。

それができない我が国の政権本体に、私は慚愧(ざんき)に堪えない思いで一杯である。

以下、「時代の風景:香港、燃ゆ」よりhttps://zilgg.blogspot.com/2019/08/blog-post.html

 

 

スポーツの風景 「スポーツ科学のエビデンスを根源的に失った『昭和の野球』の欺瞞性」より

イメージ 1

1  極端な体育会系精神主義に収斂される「御意見番」張本勲 ―― 「壊れても当然」と言い放つ男の愚昧の極致
 
 
「確証バイアス」・「サンプリング バイアス」等々の複数の理由で、TBSの「サンデーモーニング」には、どうしても馴染(なじ)めないが、言論の自由だから見なければいいだけの話。
 
しかし、Yahooニュースで入ってくる「張本勲の喝!」のコーナーだけは、どうしても看過できなかった。
 
この男は、「ジャイアンツの独走」と言い切った翌週に、それと真逆の情報を、恬(てん)として恥じない口調で発信する
 
DNAと広島の連勝という結果を見てから発信するから、かてて加えて、性質(たち)が悪いのだ。
 
一週間のゲームの結果を見て発信する「御意見番」とは、一体、何者なのか。
 
このレベルの矛盾なら、いつもの調子なので、聞き流せばいいのだが、しかし、2019年7月28日での「解説」には、開いた口が塞(ふさ)がらない。
 
人口に膾炙(かいしゃ)しているので詳細は省略するが、大船渡の国保陽平(こくぼようへい)監督が佐々木朗希(ろうき)投手を温存したことで、その起用の是非を巡って世論が沸騰した。
 
以下、「御意見番」持論。
 
「私は残念で仕方ありませんよ!夏は一回勝負だから99%投げさせなきゃダメでしょう。
一生に一回の勝負でね。色々、言い訳はありますけど、投げさせなきゃ。その前の(準決勝で)129球?それがどうした。歴史の大投手たちは皆、投げてますよ。勝負は勝たなきゃダメなんだから。投げさせなきゃいいという人は野球を知らない人だし、自分はよく思われようと言っている人なんだよ。壊れても当然、ケガをするのはスポーツ選手の宿命だもの。痛くても投げさせるくらいの監督じゃないとダメだよ。将来、将来って、将来は誰が保障するの?球界のって誰が決めたの?」
 
更に、畳み掛けていく「御意見番」。
 
「あの苦しいところで投げさせたら、将来、本人のプラスになるんですよ。選手はそれを乗り越えて、人並み優れたピッチャーにならなきゃ。彼が投げても負けたかもしれないよ。それでも彼に試練を与えることが、野球を辞めても、彼の人生のプラスになるじゃないの。人生の90%は苦しいことのほうが多いじゃない。あのときの苦しみを考えれば、こんな苦しみ、屁でもないというような気持にもなるんですよ。どんなであっても、彼には出してほしかった」(参考記事・「週刊文春」)
 
以上、「御意見番」張本勲の持論が、極端な体育会系精神主義の一語に収斂されるもので、この男に、プロ野球の指導者のオファーがなかったこと(?)を、大いに欣喜(きんき)せねばならないだろう。
 
それにしても、「壊れても当然、ケガをするのはスポーツ選手の宿命だもの」と言い放った、この愚昧(ぐまい)な男の暴言に、絶句した。
 
「壊れても当然」と言い放つ男の、その人格総体を貫流する極端な体育会系精神主義
 
そのアナクロな発想の風景に張り付く、「昔は良かった」という文脈の表層に、検証困難な情報が群れを成し、そこから、「歴史の大投手たちは皆、投げてますよ」という言辞が暴走する。
 
「だから、歴史の大投手たちは短命だった」
 
「権藤・権藤・雨・権藤」と称された、「地獄の連投」の惨鼻(さんび)に象徴されるように、この類(たぐい)の重要な事実が、この男の脳から、そっくり剥落(はくらく)しているのだ。
 
以下、愚昧なこの男の、「昔は良かった」論や、極端な体育会系精神主義異論を呈したい。
 


スポーツの風景 「スポーツ科学エビデンスを根源的に失った『昭和の野球』の欺瞞性」よりhttps://zilgs.blogspot.com/2019/07/blog-post.html

人生論的映画評論・続あの夏、いちばん静かな海。('91) 北野武 <「台詞なき世界」、「生命線としての音楽」、「死の普遍性」について>より


イメージ 1

<「台詞なき世界」、「生命線としての音楽」、「死の普遍性」について>
 
 
1  「台詞なき世界」について
 
 
この映画のキーワードは3つある。
 
「台詞なき世界」、「生命線としての音楽」、「死の普遍性」である。
 
まず、「台詞なき世界」について。
 
「障害者は庇護されるべき特別な存在である」
 
この命題に異論を唱える勇気ある御仁は少ないだろう。
 
それ故、この命題から様々なテーマを汲み取って、ヒューマンドラマにする商業戦略の流れが途絶えることはない。
 
即ち、「障害者をサポートする献身的な介護者」とか、「自力で障害の難題を乗り越えて能動的に生きる障害者」などのテーマで製作されるヒューマンドラマである。
 
障害者はドラマになりやすいのだ。
 
厄介なことだが、この国で障害者の問題をテーマにするとき、ヒューマンドラマの「感動譚」に収斂されるような作品が作られやすいという空気がある。
 
 実話をベースにした「名もなく貧しく美しく」(1967年製作)などは、その典型である。 

ところが、本作の場合は、些(いささ)か風景が違う。
 
障害者差別の問題とは無縁な物語構成になっているのだ。
 
確かに、主人公の聾唖者(ろうあしゃ)は清掃業の助手を務め、年上の従業員に職務怠慢で叱責を受けたり、或いは、彼の友人から揶揄(やゆ)されたり、投石を受ける描写が挿入されていたが、それらは障害者差別の問題に帰趨(きすう)させる種類とは全く異なっている。 

それらはどこまでも、抱えるハンディと共存しながら普通に働き、普通に恋愛をし、そして普通に趣味を見つけ、その趣味を自分の生き甲斐(いきがい)にまでしていくという、普通の物語のカテゴリーを逸脱することがないのだ。
 
因みに、WHO(世界保健機関)が発表した国際障害分類による、障害の3つのレベルとは、「機能・形態障害」、「能力低下」、「社会的不利」(ハンディキャップ)。
 
本作の主人公が、物語の中で(こうむ)った障害のレベルは、サーフィン大会の際、聾唖のためアナウンス音が聞きとれず、あえなく失格となってしまったエピソードに象徴されるように、「社会的不利」のレベルの範疇に収斂される何かであって、それ以外ではなかった。
 
本作の主人公の名は、茂。
 
その茂が確保した趣味とは、ゴミ集積所で見つけたサーフボードを少し手直しして、「素人サーファー」を立ち上げていくことだった。
 
その茂を支える恋人の名は、貴子。
 
映像では、一度も名前を呼ばれたことはない。
 
二人とも聾唖者であるが故に、ここでは、「台詞なき世界」が紺碧(こんぺき)の海の風景の只中で開かれていくのだ。
 
茂と貴子の関係が、濃密な恋人同士の関係であるということは、観る者に容易に想像できる。 長尺のサーフボードのため、バスに乗車できなかった茂が、乗車できた貴子との物理的距離を縮めるために、次のバス停で降りた彼女と、その彼女を追い駆ける茂との全き接触のためのランニングシーン。
 
些か物語的な臭さが気になるが、印象深いシーンだった。
 
夜の路上で、ようやく物理的距離を縮めた二人は、じっと見つめ合った後、肩を組んで仲良く帰路に就く。
 
このシーンに象徴されるように、二人の間には、「性愛」の関係にまで踏み入っていることが容易に想像できるが、一貫して北野武監督は、性愛描写を削り落していた。
 
「そんなことは想像すれば分るだろう」
 
そう言うに違いない、作り手の作家精神が伝わってくるようだ。
 
普通に生き、普通に恋愛し、普通に趣味に興じる二人の聾唖者の物語に、差別の問題が媒介する余地がないとは到底思えないが、それもまた、「想像すれば分るだろう」という一言で片づけられそうだ。
 
北野武監督は、確信的に、それらの意味のない描写を切り捨てて、物語として成立するギリギリの辺りで、二人の聾唖者の世界の中枢に肉薄していったのである。
 
まさに、「台詞なき世界」の映像の立ち上げこそが、その本来的目的であったかのように。
 


人生論的映画評論・続あの夏、いちばん静かな海。('91) 北野武 <「台詞なき世界」、「生命線としての音楽」、「死の普遍性」について>よりhttps://zilgz.blogspot.com/2019/07/91.html

「皇室草創」 ―― 両陛下が、今、思いの丈を込めて始動する

イメージ 1

イメージ 2

1  「人生脚本」を革命的に「再定義」した魂が打ち震えていた
 
 
有能な親から、有能な子供が生まれる。
 
必ずしも当たっているとは言えないが、教育熱心な分だけ、「オーバーケア」(過保護)の性向を否定できないが、子供の自立性を剝奪(はくだつ)する「過干渉」と切れている有能な親から、有能な子供が生まれる蓋然性(がいぜんせい)を敢えて書けば、その子供は相当の確率で有能になるだろう
 
然るに、その子供が成人して、希望の職業に就き、希望の職務を担当し、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)の日々を6年間近く、不満なく継続させている渦中で、そ職務の継続が艱難(かんなん)になる不測の事態が生じたら、件(くだん)の人物の人生脚本」は、決定的な狂いを生じ、渾沌(こんとん)を極めるかも知れない。
 
破綻の危機に陥り、大幅な「脚本」の書き換えを迫られ、そのために、これまで、些少(さしょう)の修正を加えつつ、推移してきた人生の「計画」が、灰燼に帰す(かいじんにきす)かも知れないのだ。
 
ここで言う「人生脚本」とは、カナダ出身の精神科医エリック・バーン「交流分析理論」の中核的概念で、幼少期に、無意識のうちに描いた「自分の人生設計図」のこと。
 
そのエリック・バーンの「交流分析理論」を私なりに解釈すれば、人間は、両親からの影響を大きく受けながら、自らの「生脚本」に準拠し、それを自覚することなく、無意識的に書き換えながら生きていて、意識内のフィルターによって、社会との「最適適応」を具現するように、「再定義」しつつ、呼吸を繋いでいくという風に説明できる。
 
従って、両親や周囲の〈状況〉から大きな影響を受けて作られたであろう、自らの「人生脚本」が破綻の危機に陥り、そこで生まれた環境の激変呑み込まれ、「最適適応」を具現するために、それが「決意」にまで跳躍するには、革命的な「再定義」「人生脚本」を歪めて理解し直す)が内側から求められざるを得ないだろう。
 
だから悩む。
 
深く悩む。
 
 
革命的な遷移とは、「次代の皇室を担う皇太子妃」になること。
 
桁違い(けたちがい)で、途轍(とてつ)もない変容だった。
 
言うまでもなく、「人生脚本」の「再定義」を果たしたは、「皇后雅子」、即ち、当時、現役外交官の小和田雅子(おわだまさこ/以下、すべて敬称略)。
 
かくて、「バイリンガル」(二言語話者)、「トリリンガル」(三言語話者)を超えて、「マルチリンガル」(四言語以上の話者)の域に達した「皇太子妃雅子」が誕生するに至る。(注1)
 
「並外れて、有能な子供」「並外れて、有能な親」の名は、小和田恆(おわだひさし)。
国連大使・外務事務次官を務めた経歴を持つ外交官である。(因みに、事務次官とは、各省庁の官僚の最高の地位で、国務大臣を補佐)
 
教師の次男として、コシヒカリの産地として有名な、新潟県北部の中核都市・新発田市(しばたし)に生まれ、長女・雅子の「人生脚本」の起点のイミテーション(模倣)になるかのように、東京大学在学中に外交官領事官試験に合格し、外務省に入省し、入省後にケンブリッジ大学に留学する。
 
爾来(じらい)、有能な人物の常で、外務省で昇進を重ねていくが、印象深いのは、欧米の外交官からの評価が高く、その能力が世界中に知られていたこと。
 
その有能な凄腕(すごうで)ぶりは、省内で、「カミソリ小和田」という渾名(あだ名)を付けられていた。
 
その一方、Wikipediaによると、官僚たちは「有能なだけにあまりに細かいところに気がつきすぎるため、部下としては仕えにくい上司であった」と語っている。
 
ここで、社会心理学・三隅二不二(みすみじゅうじ)の有名な「理論」(リーダーシップ理論)に言及したい。
 
「PM理論」とは、集団成員が組織目的を達成するための機能を、「職務遂行機能」(P型)と「集団維持機能」(M型)に峻別(しゅんべつ)し、(P)機能と(M型)機能を組み合わせて4類型化したもので、それぞれ、PM型機能の高い順から言えば、PM型⇒Pm⇒pM型⇒pm型という順列になる。
 
これで判然とするように、(P型)機能と(M型)機能のいずれも大きいPM型が、組織目的を達成するための機能として最も高く、反対に、機能のいずれも小さいpm型が、目標達成能力が最も低いということになる。
 
以上、この「PM理論」に準拠すれば、小和田恆の場合、外務省内での「職務遂行機能」(P型)が最も高い評価を受けていたと思われる。
 
しかし、「カミソリ小和田」という微妙な渾名が示すように、省内組織での目標達成機能を考慮した時、「部下としては仕えにくい上司であった」と語った先の官僚たちの、率直な反応を受け入れれば、小和田恆をリーダーとする職務の評価は、Pm型に近いのではないだろうか。
 
良かれ悪しかれ、そんな「並外れて、有能な親」の長女雅子は、自らの「人生脚本」に導かれるように、「マルチリンガル」の「並外れて、有能な外交官」になり、昇進を重ねていく人生が予約されていた。
 
しかし、彼女の人生に、革命的な遷移(せんい)が起こった。
 
前述したように、「皇太子妃雅子」の誕生が、「並外れて、有能な外交官」の「人生脚本」の「再定義」を強いて、その人格が、「世俗世界」と乖離する「異世界」の懐(ふところ)の中枢に吸収されていく。
 
その時、「皇太子妃雅子」は、「皇室」という「異世界」の世界で求められ、国民から期待される「職務」の遂行を、PM型的イメージのうちに果たし得たか。
 
これ、切っ先鋭く、「マルチリンガル」の成人女性に問われることになったのだ。
 
「異文化衝突」が招来する様々な軋轢(あつれき)によって、随所に波風が立ち、彼女の自我がセルフコントロール能力を失い、不安定で、波乱に満ちた「非日常の日常」の日々が待機していると言い切れなかったのが、以(もっ)て言い難い、私の余情を生んだのか。
 
一切は、自らのアンビション(強い願望)が崩れた衝撃に起因す
 
それは、「並外れて、有能な外交官」・小和田雅子が、「皇太子妃雅子」に遷移した時、決定的に炙(あぶ)り出されていくのだ。
 
今や、「人生脚本」を革命的に「再定義」した魂が打ち震えていた。
 
(注1)皇室問題や論壇時事などを中心に扱うニュースサイト「論壇net」によると、「皇后雅子さまは「『5カ国語』を操り、その知性は『アラブ王族』をも魅了」したと言う。直近のニュースとして興味深いのは、初対面のメラニ夫人(トランプ夫人)に対して行ったチークキスは、チークキスの文化を有する東欧スロベニア出身の夫人の笑みを引き出し、高いレベルの外交技術を表現する新皇后に対し、「このような何気ない所作一つとっても、その振る舞いから気品や知性が溢れる出る雅子さま。この様な振る舞いは、美智子さま紀子さまでは到底できなかったでしょう。雅子さまだけが自然にできたことです。(略)日本が誇る皇后の実力」と発信した。但し、国際基準の外交技術に長(た)ける新皇后の、「人生脚本」の体現でしかない、至極(しごく)普通の表現に馴染まない日本人にとって、エリート流の「手前味噌」のパフォーマンスと見る向きもあるだろう。私は、その根柢に、「皆、同じ」という「平等信仰」を崩される事態を厭悪(えんお)する日本人の、自国に「異文化」を持ち込む「マルチリンガル」(多言語話者)への差別が伏在(ふくざい)していると考えてい


時代の風景「『皇室草創』 ―― 両陛下が、今、思いの丈を込めて始動する」よりhttps://zilgg.blogspot.com/2019/07/blog-post.html

心の風景「『覚悟の一撃』 ―― 人生論」より

イメージ 1

突入するにも覚悟がいるが、突入しない人生の覚悟というのもある。覚悟なき者は、何をやってもやらなくても、既に決定的なところで負けている。その精神が必要であると括った者が、それを必要とするに足る時間の分だけ、自らを鼓舞し続けるために、「逃避拒絶」のバリアを自分の内側に設定する。それを私は、「覚悟」と呼ぶ。できれば、その内側に「胆力」を付随(ふずい)させる必要がある。「恐怖支配力」こそ、「胆力」という概念の本質であるからだ。
 
覚悟こそが言葉を分娩し、そこに血流を吹き込んでいく。「自由の使い方」を喪失した時代の浮薄さが垂れ流す、ジャンクな言葉の氾濫 ―― もうそこには、「教育」という概念に命を吹き込むリアリティは復元しないのか。
 
「赦せない」という感情ラインと、「赦してはならない」という道徳ラインが結合すると、しばしば、最強の「憎悪の共同体」を作り出す。これを法の論理で突破するのが困難になるとき、そこに死体の山が重なっていく。人間の歴史は、この類(たぐ)いの厄介な現象を内包するから、私たちの精神の僅かの進化が目立たなくなるのだ。私たちの脳には、社会心理学のフィールドで言う、「感情予測」がネガティブなものに振れやすい、「インパクト・バイアス」という感情ラインが伏在しているので、どうしても、このラインをブレイクスルーし切れないのだ。然るに、そのような目立たいものでも守り続ける根気があるかどうか、それは知性のフィールドである。
 
「絶対の自由」への旅人には、相当の覚悟が求められる。第一に、路傍で死体になること。第二に、その死体が迷惑なる物体として処理されるであろうこと。そして第三に、一切がほぼ意志的に、一ヶ月もすれば忘れ去られてしまうこと。この三つである。即ち、一人の旅人から完全に人格性が剥(は)ぎ取られ、生物学的に処理されること。このことへの途轍もない覚悟である。それは、「絶対の自由」=「絶対孤独」に最近接した者が宿命的に負う十字架であるだろう。それでも貴方は、「絶対の自由」への旅に向かうのか。
 
「親愛」「信頼」・「礼節」・「援助」・「依存」・「共有」 ―― 以上の六つの要件こそが、「友情」を構成する因子であると、私は考えている。いずれも、重厚に脈絡し合って形成された心理的コンテクストであり、これら全ての要件が適度に均衡し合って形成された関係様態 ―― それを私は「友情」と呼んでいる。
 
「秘密の共有」と「仮想敵の創出とその共有」 ―― これが、「友情」を「同志」に変えさせていくときの中枢的な情感コードとなる。
 
「愛」・「思いやり」「優しさ」 ―― 勝手に読まれ、物語含みで増幅的にイメージされていく。無自覚なまま、これらの言葉の氾濫に馴致(じゅんち)していくと、それが本来的に具備していた「言語的価値」が独り歩きし、虚構性だけが宙を舞い、いつしか、「慣習的記号」の枠に押し込められていく。「慣習的記号」でしかない言葉が、互換性を有しないゲームとして変換され、良くも悪くも、メディアで存分に消費され、遊ばれていくのである。
 
「天才の法則」「天才もどきの法則」・「スモール・ステップ(SS)の法則」そして、「法則にもならない無原則な生き方」。人生のスタイルには、この四つがあると思われる。
その腕力と、本来的な「激情的習得欲求」(ある女性脳科学者の「天才」の定義)に任せて、イノベーションを達成した巨大企業が、破壊的技術を持つ後発の新興企業の発展に興味を示すことがなく、自らの改革を疎(おろそ)かにすると、フィルムカメラデジタルカメラに置き去りにされたように、あっさりと抜かれてしまう「イノベーションのジレンマ」の凄みは、一際(ひときわ)目立つ。「激情的習得欲求」を推進力にして「イノベーションのジレンマ」を克服し、大目標に向かって直進する天才と、その多くの追随者・「天才もどきの法則」の突破力と切れて、SS者の快楽は、日々の自己完結感の達成にある。一つ一つの達成感の累積に生きられる、SS者のもう一つの強みは、目標を自在に変更できることだ。目標の達成が苛酷だったら、「今、このとき」の可能な目標に切り換えて、とにかく、一つ抜け出すのである。実現可能な目標への地道な行程を継続し切ったその向うに、より開かれた未来が待っていて、振り返ったら、軌跡がラインとなって浮かんでいる。少なくとも、この生き方は、優先順位をミスリードしない堅実性において群を抜。「無原則な生き方」で手に入れる、短期集中型の一過的な悦楽も悪くはないが、本物のSS者が一番強く、しなやかで、クレバーな生き方の選択ではないだろうか。
 
「良心」とは、或いは、内に向かった攻撃性である。そ攻撃性を実感し、自己了解することで、人は「良心」という甘美な蜜の味に一時(いっとき)酔い痴れる。自虐することで得られる快楽に際限はない。イエス然り、聖フランチェスコ然り、トルストイ然り、ガンジー然り、「私小説の極北」・嘉村磯多(かむらいそた)然りである。際限のない自虐の展開は、大抵、周囲の人間を巻き込んでいく。「良心」の呵責に苦しむ自己を他者に認知してもらいたいのだ。人は自分を不断に告発し、断罪し、苛め抜くことによって、「ここまで責めたから赦しを与えよう」という浄化の観念に束の間、潜り込んでいく。それを私たちは「良心」と呼んでいるが、そこに、「自虐のナルシズム」という感情ラインが重厚に絡んでいる心理的文脈を誰が否定できようか。
 
他人から見えないところに出口を確保したあと、人は己を巧妙に責め立てていく。抑制的で、計算された攻撃性に快楽が随伴するとき、それを「良心」と呼ぶことに私は躊躇(ちゅうちょ)しない。何のことはない。「自己嫌悪」とは裏返された自己陶酔なのである。
 
「やってはならないこと」と「やって欲しくないこと」を峻別(しゅんべつ)できない者に、相応の権力を与えてしまうこと。そこから人間の悲劇の多くが生まれる。
 
自分のことを少しでも知る者から見透かされることの恐怖感 ―― それが虚栄心の本質である。
 
私たちは程ほどに愚かであるか、殆ど、丸ごと愚かであるか、そして稀に、その愚かさが僅かなために目立たない程度に愚かであるか、大抵、この三つのうちのいずれかに誰もが収まってしまうのではないか。
 
役割が人間を規定することを否定しないということは、人間は役割によって決定されるという命題を肯定することと同義ではない。そこに人間の、人間としての自由の幅がある。この自由の幅が人間をサイボーグにさせないのである。
 
人間は、役割によって全てが決定されてしまうに足る、完全無欠な能力性など全く持ち合わせていない。人間は、人間を支配し切る能力を持ってしまうほど完全な存在ではないということだ。いつもどこかで、人間は人間を支配し切れずに、怠惰を晒す。これは、人間の支配欲や征服感情の際限のなさとも矛盾しない。どれほど人間を支配しようとも、支配し切れぬもどかしさが生き残されて、余裕なき躁急(そうきゅう)の感情の起伏が露わになるばかりと化す。支配の戦線から離脱してしまう不徹底さを克服し得るほど、私たちの自我は堅固ではない。人間の自我の能力など、高々、そのレベルなのだ。私たちは相手の心までをも征服し切れないからである。ここに、人間の自由の幅が生まれる。この幅が人間を生かし、ばせるのだ。支配の戦線から離脱し得る相対性を生かし、自由の幅で遊ぶ余裕がある者が、重大な危機の頂点を極めた「人生の達人」かも知れない。
 
日常性の裂け目の中からぬくもり(安らぎ)が作られる。「ぬくもり継続感」を、私たちは「幸福」と呼ぶ。この継続感は、適量の心地良さで収めておかないと痛い目に遭う。少な過ぎるぬくもりより、過剰なぬくもりの方が、性質(たち)が悪いのだ。ぬくもりで保護され過ぎた人生には、ぬくもりの意識すら生まれない。「幸福」の実感も殆ど曖昧になってしまうに違いない。「想像の快楽」=「プロセスの快楽」で遊ぶ余地が少ない、幸福感度の希薄さ。人間的なものから遠ざかっていく怖さ、そこにある。
 
所得の上昇は、必ずしもウェルビーイング(良好な状態)の上昇もたらさない。「ぬくもりの継続感」が確保されていなければ、「幸福」実感を手に入れられないだろう。これを、「幸福」のパラドックスと言う。未知なるフラッシュクラッシュ(瞬時の急落)を怖れる人間にとって、偏(ひとえ)に、ウェルビーイングの変異の落差を繰り返すことなく「ぬくもりの継続感」安定的に自給できれば、それ以上の至福はない。
 
タブーを越えても、吐き出したいだけのモチーフが崩れれば、大抵、予定調和の世界に入っていく。情愛をベースに結ばれた関係とはそういうものだ。
 
母の甘えと子供の甘えが程好(ほどよ)く混淆(こんこう)されていて、何某(なにがし)かの衝突を収拾するであろう、和解向かう関係の経験的なスキルの存在が、適度に混淆された甘えを存分に生かしきっている。衝突は必ず、和解という予定調和に流れ込まねばならない。だから、衝突にも技術論が必要である。衝突の技術は、和解の不自然さを解消するのだ。母と子の、殆ど日常的な諍(いさか)いのゲームもまた、経験的な技術の勝利であった。
 
普通の教育を受けた大人の自我に、少なからず、「あの素晴らしかった子供の世界に戻りたい」という願望が伏在するのは、第一に、自我の一貫性を保持したいという志向性であり、第二に、大人社会のストレス処理のためだろう。その意味で私たちの「退行」は、大抵、「部分退行」であり、「方法的退行」である。いつでも、日常性に還ってくる確かな航路が確保されていることによって、私たちは非日常的な「退行」を許容するのだ。
 
「妬まず、恥じず、過剰に走らず」 ―― これを私は「分相応の人生命題」と命名し、肝に銘じているが、実際の所、「過剰の抑制」が一番難しい。大脳辺縁系扁桃核から前頭葉に走る「A10(エーテン)神経」=「快楽神経」は、多量のドーパミンを分泌しているが、肝心の前頭葉に「オートレセプター」という抑制系がないと言われるので、フィードバッグ機能が充分に作動せず、いつでも、ドーパミンが過剰に分泌されてしまうのか。それ故に、自己実現のプロセスの中で、どうしても「過剰の抑制」が成就しないのだろう
 
「分相応の人生命題」の日常的検証は、いつも少しずつ、チクセントミハイが言う「フロー体験」(最適経験)の中枢からずれていって、脆弱な自我だけが置き去りにされてしまうのだ。それでもなお、自前の哲学に継続性を持たせたいと括る意識だけは安楽死していないようだから、せいぜい、内側の中枢で「覚悟の一撃」を再生産していくことである。
 
プレッシャーとは、「絶対に失敗してはならない」という意識と、「もしかしたら失敗するかも知れない」という、二つの矛盾した意識が同居するような心理状態である。そのため、固有の身体が記憶した高度な技術が、ゲームの中で心地良き流れを作り出せない不自然さを露呈してしまうのだ。この二つの矛盾した意識が自我の統括能力を衰弱させ、均衡を失った命令系統の混乱が、恐らく、神経伝達を無秩序にさせることで、身体が習得したスキルを澱(よど)みなく表出させる機能を阻害してしまうのではないか。
 
「健康」・「老化」・「生活の質の低下」・「孤独」―― この四つのキーワードは、近代社会に呼吸を繋ぐ者の恐怖感と言っていい。この恐怖が老境期に集中的に襲ってくるのだ。貴方はそれに耐えられるか。老境期こそ、「防衛体力」と「行動体力」の相対的強化が切に求められる、人生最大の正念場である。老境期は「生きがい」よりも、「居がい」の方が決定的に重要であるとも言われる。老境期に人生の頂点をもっていけるかどうか、そこに全てがかかっている。エリック・エリクソンの妻・ジョウンが、8段階に分けた夫のライフサイクルの9段階目に、主観的満足感に浸ることが可能な「老年的超越」の獲得を設定したのは、よく知られている。「老年的超越」の獲得こそ、人生最大の正念場・「老境期」の最高到達点であると思いたい。
 
日常性は、ほんの少し更新されていくことで、自在に変形を遂げていく。それが日常性の基盤に組み込まれて、新しい秩序を紡ぎ出す。そこからまた新しい出口を見つけ出して、人々は漫(そぞ)ろ歩いて止まなくなるのである。
 
私たちの内側では、常にイメージだけが勝手に動き回っている。しかし、事態は全く変わっていない。事態に向うイメージの差異によって、不安の測定値が揺れ動くのだ。イメージを変えるのは、事態から受け取る選択的情報の重量感の落差にある。不安であればあるほど情報の信憑性が低下するから、情報もまた、イメージの束の中に収斂されてしまうのである。
 
「恥じらいながら偽善に酔う」 ―― このスタンスを崩さないことだ。束の間酔って、暫(しばら)く恥じらい、そしてまた、昨日もまたそうであったような日常を、自らの律動で動いていくことである。酩酊を一定の流れの中で遊ばせて、その流れの中で清算し、その一部を明日の熱量に繋いでいけば、殆ど自己完結的ではないか。人は酔うときも、その酔いに見合っただけの「自己管理」が必要なである。
 
河を渡ったことがない者に、河の向うの快楽は手に入らない。河を渡ったことのない者に、そこで得た快楽の代償の不幸にも捕捉されない。快楽を手に入れたいが、不幸には捕捉されたくない。そんな虫のいい者は永久に河を渡れない。せいぜい、河の向うの快楽を想像して愉悦するだけだ。河を渡れない者にとって、「想像の快楽」こそ、最強の快楽なのだから。その決断も、時として、誇り得る勇気であるに違いない。
 
覚悟なしに河を渡るものがあまりに多い。当然、報いを受ける。大抵、本人は、その報いを自分の内側の深い所で受け止めない。だから多くの場合、人のせいにする。人のせいにするから、いつだって、貧困なる人生のリピーターになるのだ。
 
見てしまわない限り、そこには何もない。大抵の不幸は、見てしまった後からやって来る。初めのうちは輝きの微笑を放っていたものが、やがて色褪せ、遂には煉獄(れんごく)の淵に立ち竦(すく)む。立ち竦んだとき、人生の何が見えたか、何が見えなかったか、あまりに多様である。それでも湿度の高い時間を濃縮したような、決定的な人生のゲートがそこから開かれるなら、貴方は決して高い買い物をしなかった。見てしまった限り、貴方はそこを突き抜けていくしかない。見てしまった限り、貴方はもう戻れない。見てしまうことに、如何に覚悟が必要だったか。大抵の人がそのことを知るのは、いつも見てしまった後なのだ。
 
仮想敵を持たない青春が最も憐れである。その暴走を喰い止めてくれる壁もない。微温ゾーンをゲームが駆けていく。骨格の脆弱な他愛ないゲームと化した青春が、其処彼処(そこかしこ)に舞い踊る。仮想敵にならねばならない何ものかが、ゲームを煽動するのだ。かくして、言語の切っ先が苛烈(かれつ)に先導した一切の青春論は息絶えた。人生論も息絶えた。そこに、過剰なまでに「察し」を乞う、ネオテニー幼形成熟/幼生の特徴を残したまま性的に成熟し、繁殖する)の如き、予定調和的な依存型のゲームだけが生き残された。
 
青春の尖(とが)りには二種類ある。一つは、「自己主張」であるが故の尖り(「自己顕示」)であり、もう一つは、「自己防衛」としての尖りである。前者の尖りは青春そのものの尖りであり、まだ固まっていない漂泊(ひょうはく)する青春が、その内側に蓄えてきた熱量が噴き上がっていくときの、「怒りのナルシズム」である。それは青春が初めて、その怒りを身体化させていくに足る適正サイズの敵と出会って、その前線で展開されるゲーム感覚の銃撃戦を消費する快楽である。従ってそれは、そこで分娩された快楽を存分に味わっていく過程で、自我を固有な形に彫像していく運動に収斂されていくので、その運動が極端に規範を逸脱しない限り、一種の通過儀礼としての一定の社会的認知を享受すると言っていい。青春を鍛えるには、それが鍛えられるに相応しい敵対物が求められるからである。多くの場合、敵対物の存在しない青春ほど、哀れを極めるものはないのだ。漂泊する青春を過剰に把握し、その浮薄なる「既得権」を必要以上に守る社会が一番劣悪なのである。
 
守るべき者がその身に負った過大な重量感が、そんな青春をしばしば苛酷にする。そこには、ゲームが支配するガス抜きのルールが存在せず、青春の尖りは険阻(けんそ)な表情を崩せないでいるに違いない。それ以上追い詰めてしまうと、青春という液状の自我が、社会のどのような隙間からも、一気に流れ去ってしまいかねないような充分な危うさを抱え込んでいる。従って、その自我が必死に防衛しようとするものに、許容値を越えた劇薬が含まれていない限り、社会はその尖りに、むしろ同情的であっていい。潮目の辺りで、我が身を乗せる流れにしがみつく青春にこそ、救命ボートの一艘(いっそう)くらいは差し向けられてもいいのだ。しかし、そんな青春に限って、我が身を守るはずの攻撃的な棘(とげ)によって、しばしば、痛々しいまでに自傷してしまうのである。青春の自己運動の難しさが、そこにある。
 
偏見とは、特定なものへの過剰なる価値付与である。価値の比重が増幅される分、公平な観念が自壊している。想像力の均衡が自壊している。その分、教養のレベルも自壊しているだろう。
 
自分が嫌う相手を自分と一緒に嫌い、自分と一緒に襲ってくれる者を人は「仲間」と呼び、「味方」とも呼び、しばしば、「同志」と呼びさえもする。この「仲間」たちと共有する一体感は、感情が上気している分だけ格別である。社会心理学で言う所の、構成員を引き付けるパワー=「集団凝集性」の異様な高揚の中で、リスキーシフト(集団の中では言動が極端になりやすいこと)が其処彼処(そこかしこ)で顕在化し、もうそれは、極上の快楽以外の何ものでもないのだ。
 
「確信は嘘より危険な真理の敵である」 ―― これは、「人間的なあまりに人間的な」の中のニーチェの言葉である。「確信は絶対的な真実を所有しているという信仰である」ともニーチェは書いているが、それが信仰であるが故に、確信という幻想が快楽になるのだ。例えば、人がその心の中で大きなストレスを抱えていたとする。そのストレスは自分にのみ内在すると確信できるものなら、基本的に自分の力でそれを処理していく必要が出てくる。ところが、そのストレスが自分にのみ内在するものではなく、自分を取り巻く環境に棲(す)む者たちに共通するものがあると感じ、且つ、そのストレスを惹起させる因子が外部環境に大いに求められると感じたとき、人はそこに、しばしば、他者との「負の共同体」と呼べる意識の幻想空間を作り出す。そのとき、自分の中の特定的イメージがその幻想空間に流れ込んで、それらのイメージが一見、整合性を持った文脈に組織化されることで、そこに集合した意識のうちに「確信幻想」が胚胎されてしまうのである。
 


心の風景「『覚悟の一撃』 ―― 人生論」よりhttps://www.freezilx2g.com/2019/07/blog-post_12.html

「時間」の心理学

イメージ 1

1  「内的時間」の懐の此処彼処に、「タスク」への問題意識を詰め込んでいく
 
 
「自由」とは何か。
「生きる」とは何か。
「人生」とは何か。
「人間」とは何か、等々。

唐突に聞かれても、軽々(けいけい)に答えられない人生の難問について、多くの同世代の若者たちと同じように、真剣に考える時期が、私にもあった。
 
 
それに腹が立った。
 
胡乱(うろん)なレトリックで捲(まく)し立て、機先を制したつもりになる厚顔さでピンチを脱しても、「答えられるようで、答えられない現実」に腹が立つのは、内側で増すばかりだった。
 
年相応の、技巧を駆使しての「状況脱出」という「現象」それ自身が、堪(たま)らないのである。
 
私は何も知らないのだ。
 
しばしば、非武装の「空気」の後押しで饒舌(じょうぜつ)になるが、その饒舌充填(じゅうてん)する知性の欠如は隠し切れなかっ
 
一切が根源的で、厄介な「懸案」「タスク」なる。
 
ペンディング(保留)にする外になかった。
 
この類(たぐ)いの「タスク」が増えていく辺りが、不備不足を露呈する青春期の泣き処(なきどころ)なのだろうが、それを打ち遣(や)る懦弱(だじゃく)さに腹が立つのだ
 
累加される一方の「タスク」を片付けていかなければ、青春期が中空(ちゅうくう)に浮遊し、何某(なにがし)かの活動に挺身(ていしん)ていても、至要(しよう)たる人格総体の自律性・自立性・主体性・能動性が脆弱になり、隊伍(たいご)の外縁(がいえん)から弾かれて、いつしか、「進軍不能」の状態になっていた。
 
そんなが、「矛盾撞着」(むじゅんどうちゃく)の臨界点にまで押し込まれ、「進軍」を断ち切ったのは、それ以外に、厄介な「懸案」の「タスク」片付ける方略がなかったからである。
 
あらん限り時間を、「タスク」処理、即ち、「教養漬け」の日々に、自らメリ込ませる。
 
流れの中で決断した。
 
20代の初めの時だった。
 
青春期一時(いっとき)を、相応の目的意識を持って、「モラトリアム」の時間に変換したの
 
没我(ぼつが)と言えば、聞こえが良い当時の私には、それ以外の選択肢がなった。
 
気取りなく、「絶対孤独」と括った「教養漬け」の日々は、2年間続いた。
 
あっという間だった。
 
「時間」が足りない。
 
そう思った。
 
時間大切さ。
 
それを実感した。
 
思えば、道徳的理想の実現のため、守るべき徳目を定め、それを日常的に遂行していった、18世紀アメリカのオールラウンドプレーヤーとして知られる、ベンジャミン・フランクリンの自伝には、広く世に知れ渡った、「時間を空費するなかれ」(「時は金なり」)という徳目があり、これだけが、今でも、私の脳裏に焼き付いている。
 
功成り名遂げたマルチ人間の胡散(うさん)臭い説教と言うより、「𠮟咤激励」という意味合いで受容したからだろう。
 
「𠮟咤激励」と言えば、18世紀アメリカの思想家・エマーソンほど、私を鼓舞した歴史的人物はいない。
 
「絶対孤独」と括った「教養漬け」の日々の中で、最大の「啓蒙家」と言っていいかも知れない。
 
「自己を信頼して生きよ」
 
この言葉は勤勉で、徹底的な合理主義精神を有し、近代的人間像を体現したフランクリンが言い放っても、大して心に響かないが、エマーソンは違った。
 
26歳で牧師になっても、教会の形式主義に反発し、本来の自由信仰の故に牧師の職を迷いなく捨て、ヨーロッパ旅行に打って出るような独立独歩の行動的思索者。
 
「トランセンデンタリズム」(「超越主義」という理想主義運動)を指導し、自らの拠って立つ思想の基盤を独自の個人主義に据え、理想主義的な生き方を求め続けた男の表現の営為は、劣化が目立ち、ビンテージものの「エマソン選集」に読み耽っていた時期の、最強の活力源となった。
 
「自己信頼」 ―― 「エマソン選集 第2巻 精神について」(日本教文社)を貫流する基本的概念である。
 
一再(いっさい)ならず、攻め込んでくる軽鬱状態に陥(おちい)っていた時など、「自己信頼」という、特段に珍しくもない言葉が、私の精気を復元させる牽引力となっていた。
 
屈強な自我有し、「個人の無限の可能性」を主唱したエマーソンこそ、「アメリカ」という国民国家の知的体現者だった。
 
私には、とうてい届き得ない、屈強な自我を「武器」にする男の「一言一句」(いちごんいっく)が、「絶対孤独」の境地に潜り込んだつもりで、ヌケヌケと「欲望自然主義」と程良く折り合いをつけながら、「教養漬け」の日々を繋いでいった青春期の極点だったようにも思われる。
 
私の「モラトリアム」が終焉しただ。
 
「モラトリアム」が終焉し、私は旅に出た。
 
「進軍不能」の状態を脱し、新たな「進軍」を開いていく。
 
「自己信頼」へのメンタリティで武装したつもりになって、私の「時間」を決定的に展開させていく。
 
結局、約束されていたかのように、「存在」とは何か、「自由」とは何か、「生きる」とは何か、「人生」とは何か、「人間」とは何か、等々「タスク」を自己完結させることなく、引き続き背負って、〈私の時間〉を展開させていくが、挫折のリピーターと化しても、「進軍」を止めなかった。
 
この時、つくづく思った。
 
「モラトリアム」〈私の時間〉が、無駄になっていなかったことを。
 
「何か」を「履行する」。
 
とにかく、「動く」。
 
それは「移動」であり、「転位」であり、「内面的進軍」でもあったのだ。
 
だから、早い。
 
〈私の時間〉の経つのがい。
 
環境の変化の刺激を斉(ととの)える余裕を失うほど、〈私の時間〉の遷移(せんい)の早さを実感する
 
それは、自我の確立運動としての、「教養漬け」の青春期が安定軌道に乗ていくフェーズでの、「タスク」に追われる早さだった。
 
安定軌道に乗せていくか否か、それが全てなのである。
 
安定軌道は「予定軌道」ではない。
 
JAXA(ジャクサ)の打ち上げが、常に成功裏に終わらないように、H-IIAロケットを安定軌道に乗せ、その継続力が担保されるとは限らないのだ。
 
「予定軌道」として約束されていない、〈私の時間〉の「移動」を認知しながら、「安定軌道」に乗せていく。
 
その行程の推移の内堀を固めながら、〈私の時間〉が「転位」ていくのだ。
 
このように、〈私の時間〉という把握の内的構造こそ、「時間」が単に、物理学の範疇でのみ考察されるものではない現実を示している。
 
これは、時間」を体の運動の数量として捉えたアリストテレスの「時間論」と分れている。
 
だから、古代から20世紀の哲学にまで及んで、「時間論」が哲学の厄介な「タスク」になっていった。
 
 
同時に、「生理的寿命」=「限界寿命」、更に、「生活年齢」という「時間」の論意も、〈私の時間〉の表層に張り付いている。
 
〈私の時間〉の中で、〈私の状況〉を累加させて、貯留しつつ到達した、相対的な「安定軌道」の心的行程の総体を内的時間」と呼んでいい。
 
この「内的時間」の懐(ふところ)の此処彼処(ここかしこ)に、「タスク」への問題意識を詰め込んで、随伴させるから、この「時間」は、頻々(ひんぴん)と飽和状態になり、疲弊する。
一つの「タスク」終わっても、次の「タスク」が待機しているのだ。
 
「生活年齢」だけが累加されていく。
 
これだけは、どうにもならない。
 
こうして、人皆、年を重ねていくのだろう。
 
 
それが自己未完結であっても、〈私の人生〉に、「意味」を付与し続ける。
 
これが、〈生きる〉ということの内実である。
 


心の風景「「時間」の心理学」よりhttps://www.freezilx2g.com/2019/07/blog-post.html