「バカンス」を軟着させた青春の息づかい ―― 映画「ほとりの朔子」(’13)の素晴らしさ 深田晃司

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1  囲繞する大人社会のリアリティの「観察者」

 

 

 

8月26日 日曜日。

 

浪人中の朔子(さくこ)が、叔母の海希江(みきえ)と共に、外国旅行に出かける海希江の姉・水帆(みずほ)の家を訪れる。

 

水帆が留守の間、二人が夏の終わりを過ごすのである。

 

旅支度を終えた水帆を車で送るのは、海希江の幼馴染の兎吉(うきち)。

 

その娘・辰子(たつこ)を紹介され、朔子をヒロインとする「バカンス映画」の一日が開かれていく。

 

8月27日。

 

一人で海に入る朔子の二日目は、夏の海の波音の響きが構図に融和していた。

 

8月28日。

 

インドネシア語の研究をする海希江は、翻訳の小説に出てくる花、川辺に咲くフシグロセンノウの存在を、水帆の知人の敏江から聞き知り、それ見に朔子と徒歩で出かける。

 

途中、自転車に乗り、甥の孝史(たかし)を連れた兎吉と出会い、二人はそれぞれの自転車の荷台に乗り、川辺まで別の道を行く。

 

先に着いた孝史と朔子は、叔母たちを待つことになるが、いつまで経っても海希江らはやって来ない。

 

かくて、中期青春期の渦中にある、朔子と孝史は自然に会話を交わすことになる。

 

孝史は高校に行かず、兎吉のホテルで働いていると言う。

 

程なく到着した海希江は、早速、フシグロセンノウの写真を撮り、それに見入る朔子。

 

朔子は今、「ほとり」(大人と子どもの中間で、そのどちらでもないという意味=監督の言葉)

にいて、たおやかに佇んでいた。

 

8月29日。

 

兎吉が河原に忘れた麦わら帽子を届けるために、辰子がバイトする喫茶店に行く朔子。

 

闊達(かったつ)そうな大学生の辰子は、詩を自費出版したと言う。

 

帰り際に麦わら帽子を辰子に渡そうとすると、父と一緒に住んでいないというので、兎吉が経営するホテルへ届けに行く。

 

ホテルと言っても、その内実は、風営法で規制されている偽装ラブホテル

 

その偽装ラブホテルで働く孝史と再会した朔子は、その孝史から意外な話を耳にする。

 

過去に、兎吉と海希江が付き合っていて、結婚寸前まで行ったがダメになったという話である。

 

そんな話を含めて、二人の会話がプライバシーにも及び、その関係に一定の近接感が生まれていく。

 

朔子が家に戻ると、大学の非常勤講師である西田と、敏江とその友人たちが、海希江の元に集まっていた。

 

そこでも朔子は、兎吉と孝史についての噂話を聞かされる。

 

兎吉がチンピラであり、その甥の孝史は福島原発事故の避難民で、両親は仮設住宅に住み、孝史は疎開し、今、兎吉のところに住んでいるということ。

 

「変な仕事も手伝わされているみたいだし、あんな男に預けるなんて、よっぽど追い詰められていたんでしょうね、ご両親」

 

その話に聞き入る朔子だが、席を外して二階に上がる。

 

大人たちの溢れ出る世間話に囲繞され、何も起きない朔子の一日が閉じていく。

 

8月30日。

 

西田と共に、海岸に行く朔子と海希江。

 

泳ぎが苦手な西田は、砂浜で、二人が海で遊んでいるのを眺めている。

 

兎吉の娘・辰子が西田に声をかけたのは、そんな時だった。

 

大学の講師である西田を知っていて、著作も読んでいたので、それを話題にして話す二人。

 

そこに孝史もやって来て、朔子と海岸沿いを歩いていると、同級生の数人とすれ違い、卑猥な言葉を投げかけられ、孝史は冷やかされる。

 

朔子と孝史のもとに、同級生の一人・知佳(ちか)が戻って来て、彼らの冷やかしを謝り、その連作先を教える。

 

少しずつ、朔子のバカンスの日常が忙しなくなってきた。

 

8月31日

 

大学の西田の授業に出席する辰子。

 

授業終了後、辰子は西田に声をかけ、車で送ってもらうことになる。

 

その車内で、辰子は自分の身の上話を始める。

 

チンピラだった父親が母の死を機に、辰子を大学へ行かせるため、ラブホテルの支配人となったが、その大学では偽装大学追放のキャンペーンをしているのだ。

 

それが、辰子が父親を倦厭(けんえん)する理由だった。

 

妻子持ちの西田と海希江との関係を責め、父親のラブホテルを使えばいいと冗談を言う辰子。

 

その西田は辰子を誘い、関係を持つに至る。

 

一方、朔子は約束通り、孝史をランチに誘ったが、注文した直後に知佳から電話がかかり、この喫茶店に呼ぶように朔子は言い添えて、自分は店を出てしまった。

 

その直後、朔子は海岸へと足を運び、砂浜を走り、迷い歩く。

 

朔子の内面が、緩(ゆる)やかに漂動していた。

 

9月1日

 

辰子の誕生日の自宅での食事に、兎吉から呼ばれた海希江と朔子は、海希江の愛人である西田を連れ、兎吉の自宅を訪ねる。

 

辰子と関係を持った西田は、当然ながら乗り気でなかったが、兎吉が女性の好みや学生との関係について、執拗に聞いてくる卑猥な話題に嫌気が差し、席を外しまう。

 

海希江が心配していくと、西田は台所で不満を垂れる。

 

「正直言って、うんざりだ。お前のために、ここまで来たのに」

「ちょっと、私、来てくれなんて言った?」

「それが、勝手だって言うんだよ。汲み取れよ、僕の気持ちを」

「あのね、私はここに、仕事をしに来ているの」

「それが、どうだってんだよ。僕だって仕事があるのに」

「だから、仕事と恋愛は分けたいの。言ってるよね、前から」

 

なおも続く、世俗の臭気全開の諍(いさか)い。

 

「来なければ良かったよ。それにあのチンピラ、最低だよ。親も娘も。何だって君は、あんなのとつきあってんだ」

「古い馴染みなの、親友を悪く言わないで」

「親友以上なんじゃないか」

「そうよ、ばっか、そんな訳ないでしょ」

 

「汲み取れよ」という西田の言辞には、その思い入れの強度において「男性社会の象徴」(監督の言葉)でもある。

 

それが、直後のシーンで炙り出されることになる。

 

兎吉親娘がカラオケをしている部屋に戻り、東京に戻ることを西田が告げると、辰子がいきなり頬を叩いた。

 

「面白くねえよ!エロ親爺!」

 

それを止める父親をも叩いた気強い辰子にとって、男社会の異臭への倦厭を身体化せざるを得なかったのだろう。

 

笑み含みで、大人社会の現実を視界に収める朔子は、外に出て花火をしていると、孝史がデートから帰って来た。

 

孝史はデートではないというが、知佳にイベントに誘われた話をすると、朔子は頑張れと励ます。

 

朔子を囲繞する大人社会のリアリティは、いよいよ増幅していくようだった。

 

以下、人生論的映画評論・続: 「バカンス」を軟着させた青春の息づかい ―― 映画「ほとりの朔子」(’13)の素晴らしさ 深田晃司より

SOMEWHERE ('10)  ソフィア・コッポラ

 

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<ハリウッドスターの光と陰 ―― その特化された日々を切り取った世界を映し出す>

 

 

 

1  父と娘が共有する時間の濃密度の高さが、男を変えていく

 

 

 

男は、ロスにある観光拠点ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに近い、“シャトー・マーモント・ホテル”で暮らしている。

 

男の名は、ジョニー・マルコ(以下、ジョニー)。

 

著名なハリウッドスターである。

 

飲み過ぎで階段から落ち、怪我をしたジョニーは、ホテルの自室に、ポールアクロバットダンサー(ポールダンサー)を呼ぶが、それを見て、さして愉悦することもない。

 

この空虚感が男の内側を支配している。

 

そんなある日、別れた妻レイラから、11歳の娘クレオフィギュアスケートの送迎を頼まれ、一時(いっとき)、娘との触れ合いで心が満たされるようだった。

 

しかし、時を移さず、いつものようにパーティーで知り合った女性を情事に誘うが、コトが始まるところで、寝入ってしまうほどに、ジョニーにとって、女との日常茶飯事の情事は惰性に過ぎなかった。

 

されども、漫然とだらだらと続く無為な日々に、終わりが見えないのだ。

 

翌朝、マネージャーから電話が入り、写真撮影と記者会見に出席することになる。

 

更にジョニーは、特殊メイクの型取りで、頭部全体に石膏を塗りたくられ、40分も待たされる。

 

【この長回しのシーンには笑わされる。他にも長回しのカットが散りばれられていて、そのリアルな演出は観ていて飽きることがない】

 

出来上がったのは、ジョニーの面影も拾えない完璧な老人の相貌。

 

ホテルに戻り、呼んだマッサージ師は、いつもの女の子とは違う見知らぬ男性だった。

 

ところが、マッサージ師が相手と一体感になるために、全裸で施す姿を目の当たりにして、ゲイと勘違いし、マッサージに早々と帰ってもらうというエピソードがインサートされる。

 

ホテル在住の女からの誘いが絶えないジョニーのところへ、再び、娘クレオがやって来た。

 

テレビゲームで興じ、楽しいひと時を過ごした夜、別れた妻・レイラから電話が入る。

 

「しばらく家を空けるわ。クレオは2週間キャンプよ。送り届けて。あなたの実家の近く」

「いつ戻る?」

「分からない。少し時間がいるの」

「俺は新作の公開で、イタリアに行くんだ」

「とにかく10日までに、ベルモントに連れてって」

 

それだけだった。

 

突然、娘クレアと過ごすことになったジョニーは、クレオ随行させ、ミラノに向かう。

 

ホテルのプール付きのスイートルームを案内され、ミラノ市長からの表彰や会食、映画祭での授賞式などの仕事の合間に、父娘(ちちこ)水入らずの時を過ごす。

 

ロスに戻り、短い間の父娘の暮らしは続く。

 

クレオが朝食を作り、ジョニーの友人と3人で食事を供にする。

 

更に、二人で卓球に興じ、プールに入り、プールサイドのチェアで並んで日光浴する父と娘。

 

その間、ジョニーに様々な女が言い寄って来ても、特段の関心を持たず、父娘の時間を最優先して、何より愉悦するのだ。

 

そして、愛娘(まなむすめ)のクレオを、キャンプに車で送り届ける日がやって来た。

 

その車中で、突然、クレオが泣き出した。

 

クレオ、どうした?なぜ泣く?」

「ママは、いつ戻るんだろ。“しばらく家を空ける”って、それしか聞いてない。パパは忙しいし」

「おいで、ほら、泣くな」

 

クレオを抱き寄せ、車を走らせる父ジョニー。

 

ラスベガスに立ち寄り、カジノで遊んで、クレオを存分に楽しませるのだ。

 

翌日、キャンプへと向かう乗り継ぎ場所まで、ヘリコプターに乗り込む。

 

「じゃ、キャンプを楽しめよ。迎えに行く」

 

父娘は抱擁し合い、クレオはキャンプに向かうタクシーに乗り、ジョニーはヘリに向かう。

 

振り返ると、クレオが父を見つめている。

 

ジョニーも、思わず声をかける。

 

クレオ!傍にいなくて、ごめん!」

 

ヘリのエンジン音に掻き消されながら、ジョニーは思いの丈を声にした。

 

帰りのヘリの中で、涙を拭うジョニー。

 

ホテルの自室に戻ると、元の怠惰な生活が待っていた。

 

しかし、ジョニーは今、「快楽の園」での日常に振れることがない。

 

レイラに電話をかけるジョニー。

 

「どうかした?」

「俺は、空っぽの男だ。何者でもない」

「ボランティアでもしたら?」

「どうすりゃいい?俺の望みは、ただ…今から来られないか?こっちに」

「それはムリよ」

「そうか、それじゃ」

「あなたなら、大丈夫よ」

 

ここで電話は切れるが、ジョニーの嗚咽は止まらない。

 

一人、プールに入り、パスタを茹でて食べ、夜の街灯りを眺めるハリウッドスターが、そこにいる。

 

意を決したのか、ジョニーはホテルをチェックアウトすることにした。

 

フェラーリに乗り、高速を走らせる。

 

郊外の道路脇に愛車を止め、一人で、力強く歩き出すのだ。

 

そこには、吹っ切れたような笑顔があった。

 

父と娘が共有する時間の濃密度の高さが、男を変えていくのだろうか。

 

そう、思わせる括りだった。

 

以下、「人生論的映画評論・続: SOMEWHERE ('10)   ソフィア・コッポラ」より

オーバー・フェンス('16)   山下敦弘

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<「普通」という心地よい観念に隠れ込む男」と「壊れた女」の檻が解き放たれ、何かが起こっていく>

 

 

 

1  ハクトウワシの求愛パフォーマンスに同化する女との出会い

 

 

 

【以下、心理分析含みの批評をインサートしながら、梗概をまとめていきたい】

 

函館訓練校の建築科。

 

様々な職歴を持ち、幅広い年齢層の男たちが訓練を受けている。

 

実家のある故郷に戻り、大工の修行をする白岩義男。

 

バツイチの中年である。

 

その白岩(しろいわ)が学校帰りに、路上で、一人の若い女と中年男との言い合いに遭遇する。

 

「私が言ってるのは、愛情表現のこと…ダチョウだって、もっと愛情表現するよ」

 

女がそう言うなり、ダチョウを真似た踊りのパフォーマンスを始めるのだ。

 

笑みを浮かべた白岩と、女の視線が合う。

 

これが、白岩と女の出会いだった。

 

アパートに引っ越して来てまもない白岩は、一人で弁当を買い、2本の缶ビールを飲むという生活を淡々と送っている。

 

訓練校建築科の同期である代島(だいじま)に誘われ、飲みに行った義男は、バーの出店計画を打ち明けられる。

 

白岩を副店長として、開店の協力を求めてきたのだ。

 

自分には向かないと断る義男の前に、キャバクラで働いている先日の女が現れた。

 

彼女の名は、田村聡(さとし)。

 

「名前で苦労したけど、親を悪く言わないで。頭悪いだけだから」

 

聡の言葉には毒がない。

 

店を出た際、代島に出店の件を念押しされた白岩が帰ろうとすると、聡から強引に車に誘われ、アパートに送ってもらうが、何事も起きない。

 

営業経験のある代島に、「この店、やれる女、多いっしょ」と言われていても、白岩にはその気がない。

 

部屋に戻った白岩は、整理していない荷物の中から、一通の手紙を取り出した。

 

「これしきのことで、娘を実家に帰してよこす、君の無責任で冷たい仕打ちには腹も立ち、娘も、もう、そちらに帰す気は全くありません。娘はまだ若く、失敗は失敗として、再出発の方法を探してやりたく思っていますので、今後のことは、一切、口出し無用に願います。子供については、一応、君は父親だが、会わせる気はなく、もし異論があるならば、法的に異議を申し立てるよう願います。今後、いかなる音信は不要で、直接連絡を取るようなことはしないでいただきたい」

 

この義父からの手紙を燃やした白岩が外に出ると、聡が車から顔を覗かせる。

 

白岩がキャバクラに現れた時から、聡は白岩に好意を持っていた。

 

「聡が会いたいと言っていた」という代島の伝言で、聡のバイト先の遊園地に、いつもの自転車を漕いで会いに行く白岩。

 

「何しに来たの?」

「え?代島君が、聡が会いたがっているから…」

「だから、しょうがなく来たわけ」

「そうじゃないけど…俺も、会いたかったから」

 

既に、白岩の感情を確認するほどに、聡の思いの強さが表現されている。

 

だから、こんな言葉に結ばれるのだ。

 

ハクトウワシの求愛、知ってる?ガッツ、すごいよ。空中で、脚と脚をガッとつないでさ、くるっくる回りながら落下するの。ほんとに恋に落ちるの」

 

そう言って、聡のハクトウワシの求愛パフォーマンスの踊りが始まった。

 

その踊りに惹きつけられる白岩。

 

誘われるまま、自転車の後ろに聡を乗せた白岩が彼女の実家に着くと、離れの部屋に上がった。

 

二人で缶ビールを飲み始めるや否や、聡は突然立ち上がって台所へ行き、薬を飲み、全裸になって体を洗い清めるのだ。

 

恐々と、覗き見る白岩。

 

「これやらないと、身体が腐る気がして」

 

そう言い放って、全裸のまま白岩に近接し、激しく唇を重ね、交接する。

 

以下、その直後の二人の会話が、物理的・心理的に近接した関係を呆気なく破壊してしまう。

 

「本当は、結婚してるの?」

「してないよ」

「じゃ、なんで指輪してるの?教えて。ずっと気になっていたんだけど、黙っていたんだよ」

「いや、もう、別れてるから」

「したら、何で別れたわけ?子供もいたんでしょ」

「先に自分のこと話せよ。代島と寝たことあるだろ」

「寝たよ、だから?流れで一回寝ただけだよ。もういい?何で指輪してんのか、言ってよ!言えないの?あ、言えないようなことしたんだ!奥さん、殴ったんだ!」

「落ち着けよ」

「今日は落ち着いていたのに。あなたのせいで、こうなったの!何で、正直に言ってくれないの?奥さんのこと教えてよ!」

 

嗚咽交じりで、聡の支離滅裂な叫びが止まらない。

 

「今日から自分が変われるかも知れないと思ったのに!もう、死んだみたいに生きなくてもいいって思ったのに!ねえ、教えてよ!」

「分かったよ!子供が生まれて…仕事で遅くなる日が続いて、その日も遅くなって、会社から帰って来たら、その、奥さんが子供の顔に、枕押し付けてたんだよ」

「ひどいね」

「いや、俺が悪かったんだろうけど…」

「そりゃ、そうでしょ」

「お前に何が分かるんだよ」

「あんたに、何が分かるのよ。分かんないから、奥さんの頭がおかしくなったんでしょ…ほら、出た、その目。その目で見られると、自分がゴミになった気がすんだけど!」

「そんな目、してないよ」

「したっしょ!前に会ったときもしたんだよ!」

 

そう言って、物を投げつけ、部屋の窓ガラスを割る聡。

 

興奮が収まらない聡は、白岩を部屋から追い出そうとする。

 

「俺は、普通に生きてきたんだよ!今までずっと。お前らが勝手におかしくなっただよ!殴ってもないし、家にもちゃんと帰っただろ。これ以上、何やりゃよかったんだよ。俺がどれだけ我慢してたのか知ってんのかよ!何も知らないのに、言いたいことだけ言ってんな!」

「あんたとなんか、会わなきゃよかった。お店にも来ないで。来たら、帰っから」

 

これが、二人の男と女の運命的な出会いと、別れの顚末の一端だった。

 

【惚れ込んだ男に対する女の激発的感情が、早くも炸裂する。女にとって、離婚したのに指輪を手放せない男の、元妻に対する執着心が許せないのだ。だから、「子供の顔に、枕押し付けてたんだ」という男の物言いの欺瞞性が透けて見えてしまう。それは、男の「結婚観」の甘さへの怒りでもある。離婚の相関性に垣間見える男の、その「結婚観」の甘さへの怒りの根柢に通底するのは、なお指輪を手放せない男に張り付く、元妻への「愛着心」という感情的決めつけであると思われる。「分かんないから、奥さんの頭がおかしくなった」とまで言い切った女には、「頭がおかしくなった奥さん」への同化意識と、その「奥さん」への嫉妬感が複合的に共存している。それは同時に、「自分がゴミになった気がする」という、「その目」に惹かれた女の「不全感」の発現でもある。そして、男もまた、女によって裸にされた「分からなさ」に対し、感情を剥(む)き出しにする。だから、収斂点を吹き飛ばされた二人は、一時(いっとき)の「別離」を余儀なくされたのである。かくも、人間の感情は複雑なのだ】

 

以下、「人生論的映画評論・続: オーバー・フェンス('16)   山下敦弘」より

The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ('17)   ソフィア・ コッポラ

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<特殊な状況が特殊な関係を生み、特殊な事件を作り出した>

 

 

 

1  「女の園」で起こった事態の陰惨なる顚末

 

 

 

1864年 バージニア州 南北戦争3年目

 

鼻歌を歌いながら、森の中でキノコ狩りをする少女が、大木の根元に横たわる北軍兵士に遭遇する。

 

少女の名は、マーサ・ファンズワース女子学園に寄宿するエイミー。

 

兵士は、「男性はいるか」とエイミーに尋ねた。

 

「今は、生徒が5人、先生一人と、園長のマーサ先生だけ。あなたは敵の北軍だけど、ケガ人だから」

 

兵士の名はマクバニー。

 

マクバニーはエイミーの力を借りて、何とか学園に辿り着いたが、玄関前で倒れ込んでしまう。

 

「少し回復するまで、面倒を見ましょう」

 

園長のマーサの言葉である。

 

背景にキリスト教精神の教えがある。

 

かくて、男子禁制の学園の音楽室にマクバニー伍長が運ばれ、マーサと教師のエドウィナによって手厚い手当てを受けることになる。

 

生徒たちは部屋の様子を伺っているが、マーサに入室を禁止される。

 

戦争の真っ只中で、男たちが出征したことで食料は不足し、生徒たちには帰る場所もなく、学園に寄宿しているのだ。

 

そこに、南軍の警備隊が学園に立ち寄り、敵軍兵士が彷徨(さまよ)っていると忠告するが、マーサはマクバニーを通報することはなかった。

 

以下、覚醒したマクバニーとマーサの会話。

 

「良くして頂き、感謝してます」

「私が(南軍の)警備隊に通報したら?」

「それは怖くない。通報されるより、悪いことがありますから。軍刑務所で死ぬよりマシです。あなたのお陰で命がある」

「それは、どうだか。脚は痛む?」

「少し」

「無感覚の方が怖いのよ」

「確かに」

「ブランデーを?」

「うれしいな」

「喜ばせるためでは…あなたは、お客じゃない。迷惑な闖入者のご機嫌はとらないわ」

「よく分かってますが、楽しむのは好きでしてね」

 

以上の会話で、マクバニーが脱走兵である事実が判然とする。

 

そこへ、手伝いを求めてアリシアがやって来たが、マーサは部屋に追い返す。

 

次に部屋にやって来たのは、年少のマリー。

 

マクバニーに聖書を勧めに来たのである。

 

そのマリーが、教師エドウィナの真珠のイヤリングを付けて部屋から出て来たところを、エドウィナに注意される。

 

エドウィナ先生、今日は皆がおしゃれをしてるの…先生だって、おしゃれしてるわ」

「してないわ…仕事に戻って」

 

そう言うや、間を置かずに、エドウィナはマクバニーの傷の手当てを始める。

 

そこで、マクバニーは言葉巧みにエドウィナに語りかけ、彼女の心を掴み、弄(もてあそ)ぶ。

 

「あなたは独りで生きられる。そこが他の連中と違う。それに容姿も違う。今まで見た誰よりも美しい」

 

そして、エドウィナの手を掴み、彼女の希望を引き出すのだ。

 

「ここを出ていくこと」

 

エドウィナは、思わず本音を口にしたのである。

 

傷が癒え、歩行が可能になったマクバニーは、庭の手入れを買って出る。

 

水を持って来たエイミーに、マクバニーが語りかける。

 

「打ち明けると、個々での一番の友達は君だよ。君がいなきゃ、俺は今も森の中だ」

 

男はこのように、教師をはじめ、子供たちの気を引く言葉を連射し、自己保身に余念がない。

 

「この状態なら、今週末には出て行けます」

 

怪我の状態を確かめたマーサは、そう言い放った。

 

「傷が治って、残念だ」

 

男の反応である。

 

すっかり、マクバニーの虜(とりこ)になっているエドウィナは、「出て行かないで」と伝える。

 

「愛している…初めて話した時からね。拒まれるかと思い、言えなかった。最後の機会かも知れないので、打ち明けた…西部に行きたい」

「父に会えば、きっと助けてくれるわ」

「一緒に行こう」

 

そう言って、エドウィナにキスした瞬間、アリシアがドアを開けた。

 

夕食に招待することになったマクバニーを呼びに来たのだ。

 

そして、夕食の宴が始まった。

 

皆、一様にオシャレをし、特に若い子たちは嬉々としている。

 

会話が弾み、バイオリンやピアノの演奏が始まる。

 

一見、ワイルドな相貌で、男の〈性〉をあからさまに露呈するマクバニーは、エドウィナに、今夜、部屋を訪ねると囁(ささや)く。

 

エドウィナは部屋のベッドに横たわり、マクバニーを待っていたが、マクバニーは現れなかった。

 

アリシアの部屋で音がするので入室するや、エドウィナは衝撃を受ける。

 

あろうことか、彼女とマクバニーは激しく抱擁し合っていたのだ。

 

男が慌てて、エドウィナに「待ってくれ」と詰寄るが、彼女は振り払い、マクバニーは階段から転げ落ちてしまう。

 

再び、脚の骨は砕け、止血し、壊疽(えそ)を防ぎ、死を回避するため、マーサは左脚を切り落とす決断をする。

 

エドウィナに布とノコギリと解剖学の本を持ってくるよう指示し、マーサは自ら手術を施行(しこう)した。

 

術後、覚醒したマクバニーは、脚を失ったことを知るや、絶叫する。

 

「神様!あいつらは、何をしたんだ?」

 

部屋に入って来たエドウィナを、激しく罵(ののし)るマクバニー。

 

「なぜ、あの女を止めなかった。人殺し!」

 

「命を救うためだった」

 

マーサがマクバニーに話すが、彼は聞く耳を持たなかった。

 

その後も、マクバニーは怒号の嵐で荒れ狂い、態度が一変して狂暴化するのだ。

 

松葉杖を使い、皆が集まる食堂にやって来るや、誹謗(ひぼう)し、酒を飲み、その瓶を割ってしまう。

 

恐怖に包まれた女性たちは、マクバニーを学園から追い払おうとするが、逆に、銃を持ったマクバニーに脅され、全員が居間に集められた。

 

「お前らは何をした?この脚を見ろ。死んだ方がマシだ。殺して欲しかった。目を背け、俺を憐れんでる。こんな俺が男か?心を許してた俺を弄(もてあそ)び、このザマだ!もう十分だ。悪魔ども。6発残ってる。今度何かしたら、そいつをぶっ殺すぞ!いいな!」

 

そう叫ぶや、シャンデリアを撃ち落とすマクバニー。

 

エドウィナはマーサの制止を振り払い、部屋に戻るマクバニーを追っていく。

 

部屋に入ったエドウィナはマクバニーに迫り、二人は激しく体を求め合う。

 

一方、マーサは、怯(おび)え切った生徒たちと、事態の処置について話し合っていた。

 

「早く追い払わないと、このままでは危険だわ」

 

マクバニーがキノコ料理を好きだというマリーは、エイミーに“特別なキノコ”を探すことを提案する。

 

マーサはエイミーに、件(くだん)のキノコ狩りを頼み、「歓送会」を開くことを決断し、その日のうちに行われるに至る。

 

そして、全員がテーブルにつき、歓送会の食事が始まった。

 

「あったことは忘れて、私たちと食事を。旅のご無事を祈って」

 

マーサがマクバニーに言葉をかけ、マクバニーも席に着く。

 

「逆上したことを許して頂き、感謝します」

 

そして、エイミーが摘んできた“特別なキノコ”が振舞われる。

 

それを食べながら、マクバニーは最期の言葉を残す。

 

「出ていきますが、その前に俺のしたことの償いをします」

 

そう言うや、呆気なく、息を引き取ったマクバニー。

 

南軍への合図である青い布が門に巻かれ、白い布に包まれたマクバニーの遺体が門外に置かれた。

 

これが、「女の園」で起こった事態の陰惨なる顚末(てんまつ)である。

 

以下、人生論的映画評論・続: 「The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ('17)   ソフィア・ コッポラ」より

 

武装解除できない青春の壊れやすさ 映画「きみの鳥はうたえる」('18)  ―― その「予定不調和」の秀逸な収斂点  三宅唱

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1  「僕にはこの夏がいつまでも続くような気がした」

 

 

 

函館郊外の書店で働く“僕”は、失業中の静雄とアパートで共同生活をしていた。

 

そんな“僕”は同じ書店で働く佐知子と、男女の関係になる。

 

彼女は店長の島田とも関係があるようだったが、そんなことを気にもせず、“僕”と静雄が住むアパートにやって来ては一緒に過ごす。

 

夏の間、3人はともに酒を飲み、クラブへ行き、ビリヤードに興じる。

 

そんなひと夏が終わるころ、静雄が佐知子とキャンプに出掛け、3人の関係は微妙に変わる。

 

―― 以上の文面は、WOWOWオンラインの簡単な梗概。

 

「僕にはこの夏がいつまでも続くような気がした。9月になっても、10月になっても、次の季節はやって来ないように思える」

 

この文学的な表現は、映画の序盤における一人称のモノローグ。

 

今回は、詳細な粗筋を省略して、本来の人生論的映画評論の視座で本作を批評していきたい。

 

 

 

2  「青春時代」とは何か

 

 

 

フィリップ・アリエスの「子供の誕生」などの著作に詳しいが、18世紀のブルジョア家庭から子供を可愛いがる風習が生れ、余剰農産物を獲得した余裕から、親にとって子供は情緒的満足の対象となっていく。

 

【因みに、「エミール」の著作で名高いルソーは、自分の5人の子供を全て施設に捨てたという公然たる事実があり、「告白」に詳しい。これがフランス革命前のヨーロッパ社会の一般的風景だった】

 

歴史上初めて、「子供」が普遍的に「発見」されたのである。

 

「子供」の発見は、同時に、「青年」や「女性」の発見でもあり、「少年期」や「青春時代」の誕生でもあった。

 

西洋史学者・木村尚三郎(「家族の時代」)によると、「女性」が発見されたのも、この近代社会の過程を通してである。

 

それまで女性は、「少々力の弱い大人」であり、中世では、夫の代わりに相手貴族と「法廷決闘」する権利を持っていたのである。

 

近代社会が一切を変容させていく。

 

近代になって、女性と子供は男により保護されねばならない存在とされ、むしろ、社会から除外されていった。

 

【1804年に公布されたフランスの民法典・「ナポレオン法典」では女は無能力とされ、夫の家長権が確立する。女性の無能力制度の確立である】

 

「青年」や「女性」の発見は、同時に、「恋愛」の誕生を告げたとされる。

 

青春期に愛を育み、遂に結婚に至るという、西欧型の「恋愛物語」が近代の産物ということなのである。

 

―― 以上は、「心の風景 覚悟の一撃 2 ―― 人生論・状況論」という拙稿の一文である。

 

近代社会において生まれた「青春時代」という概念の中枢に、心理的・社会的文脈において、「モラトリアム」の意味が内包しているのは、既に自明である。

 

では、「青春時代」とは何か。

 

私は、思春期初期から青春期後期に及ぶこの特殊な時期を、「自我の確立運動」の最前線であると考えている。

 

自我とは、簡単に言えば、「快・不快の原理」・「損得の原理」・「善悪の原理」という人間の基本的な行動原理を、如何にコントロールしていくかという〈生〉の根源的テーマを、意識的・且つ、無意識的に引き受け、自らを囲繞する環境に対する、最も有効な「適応・防衛戦略」を強化し、駆動させていく「基本・大脳(前頭葉)」の総合的な司令塔である。

 

ところが、この「基本・大脳(前頭葉)」の総合的な司令塔は、人間の生来的な所産でないから厄介な代物なのだ。

 

最も有効な「適応・防衛戦略」を完成形に拵(こしら)えていく「仕事」の艱難(かんなん)さが、この時期に重くのしかかるからである。

 

新しい情報の獲得・処理・操作にしていく知能=「流動性知能」が長けても、人生経験で培った判断力・洞察力・知恵=「結晶性知能」が不足しているが故に、「適応・防衛戦略」の完成形を得て、「自我の確立運動」が成功裏に導くことが叶わない。

 

これがあるから、「自我の確立運動」の最前線の渦中にあって、「青春時代」の景色が、「思うようにならない現実」を視界に収め、大抵の青春期が「澱み・歪み・濁り」の心理に捕捉され、立ち行かなくなってしまうのだ。

 

青春期は美しくもないし、清廉でもない。

 

定点が確保し得ず、浮游する自我を、とりあえず納得させるために、そう思いたいだけである。

 

「青春の美学」などない。

 

あるのは、空疎なナルシズムか、リアルなペシミズム。

 

「澱み・歪み・濁り」の心理を隠し込み、心の奥に潜む感情を表現できず、「多弁・寡黙・陽気」を仮構し、アドホックの世界に潜り込む。

 

「この時の、この時間」の只中を漂動するのだ。

 

だから、決定的に動かない。

 

動いて見せるだけで、動かない。

 

動けないのだ。

 

それでも、動かねばならない。

 

どこかで、いつも、そう思っている。

 

「我が青春の輝き」 ―― 人はそう言いたがる。

 

そんな大仰で、被写界深度の深さを誇示するかのような表現が苦手な私には、余りにもむず痒い。

 

その感触が、こそばゆいのだ。

 

眩(まばゆ)い煌(きらめ)きを放つ、分陰(ふんいん)を惜しむ青春があってもいい。

 

映画のクラブのシーンがそうであったように、ドーパミンの分泌が活性化され、飲み、踊り、叫び捲る。

 

一時(いっとき)の青春が弾けるのである。

 

しかし、「我が青春の輝き」の眩い煌きは、多くの場合、それ以外の選択肢を失った成人後の「記憶の再構成的想起」(過去を組み立て直す自伝的記憶)であると言っていい。

 

それで、人は満足する。

 

多分、それでいいのだろう。

 

紛雑な時代に、自らに関わる人たちに迷惑をかけ続けた私の愚かな青春と異なり、映画の3人は、ごく普通で、ごく普通の青春を、ひと夏に特化した時間の中で、ごく普通に遊び、ごく普通に恋をし、失ったり、成就したりする。

 

酷薄なラストシーンも、特段に騒ぎ立てるものではない。

 

これが青春の、ごく普通の風景なのだ。

 

大袈裟で、情緒満載の娯楽映画と切れ、そんな青春の、ごく普通の景色の断片をリアルに切り取り、決め台詞を捨てた映画の訴求力は抜きん出ていた。

 

以下、「人生論的映画評論・続: 武装解除できない青春の壊れやすさ 映画「きみの鳥はうたえる」('18)  ―― その「予定不調和」の秀逸な収斂点  三宅唱」より

「俗悪なリアリズム」という、イラン映画の絶対的禁忌 ―― 映画「人生タクシー」の根源的問題提起 ジャファル・パナヒ

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1  「乗合いタクシー」に乗り込む人々の多様な人生模様

 

 

 

イランの首都テヘラン

 

黄色いタクシーを運転するのは、映画監督ジャハル・パナヒ。

 

そのタクシーのダッシュボードにはカメラが設置されていて、それがイランの街や通行人を映し出していく。

 

一人の男の乗客を乗せ、少し走ると、スカーフを巻いた女性客が乗り込んで来た。

 

大都市テヘランの渋滞のひどさが、このような「乗合い」を必至にしている。

 

「防犯装置?」と男。

「そんなところです」と運転手。

 

カメラに気づいたのである。

 

その男は、従弟が車のタイヤを盗まれた話をして、自分が大統領なら、その泥棒を見せしめに絞首刑にすると言うのだ。

 

すると、後部座席の女性が反応する。

 

「絞首刑?人の命を奪うことを、簡単に考え過ぎよ。貧しい人が思い余って盗んだのかも知れない…お金に困ってとか」

「それなら、運転手さんの方が切実だ。もちろん俺だって。そんなもの、何の言い訳にもならない」

「すぐ死刑というのが問題なの。問題の原因を探るのが先決なのに…泥棒は作られるのよ…追い詰められた状況で犯罪が起きるの。なのに、タイヤのために死刑?歪んだ理屈だわ」

「この間、もっと軽い罪で2人死刑になったばかりだ。タイヤ泥棒もそうすればいい」

「イランの死刑執行数は、中国に次いで多いの」

 

平行線の議論の挙句(あげく)、女が男の職業を尋ね、まず、女性が教師であることを明かす。

 

そして男は、タクシーを降りる際に自分の職業を明かすのだ。

 

「俺は路上強盗だ」

「信じられない」

 

既に、乗車していた3人目の男性客が、貸し切りを求めた後、運転手のパナヒに唐突に尋ねた。

 

「パナヒさんですよね?」

 

映画通らしい男はパナヒの許可を得て、助手席に座り直す。

 

「映画を撮ってるんですね。さっき乗っていた3人は役者でしょう?彼の最後のセリフが、カフェのシーンと似てましたよね」

 

オミドと名乗るその男は、レンタルビデオの店員。

 

「息子さんの注文を受け、よくお宅に配達を」

 

そんな会話中に、突然、車を止た。

 

バイク事故で血だらけになった夫と共に妻が乗車し、病院への緊急搬送を求める。

 

遺言を書くための紙を要求する夫。

 

「遺言を書かないと、妻は何も相続できない」

 

妻がホームレスになることを案じ、オミドが撮影するパナヒの携帯のカメラを前に、遺言を語り出す。

 

「兄弟たちは妻の相続に口を出さぬこと。訴えてはならない。妻にすべてを相続する」

 

容体が悪化し、泣き喚く妻。

 

病院に到着し、夫は担架で運ばれて行った。

 

「運転手さん、さっきの遺言の映像をください」

 

この妻の要請に、今は無理だから後で送ると言って、名刺を渡すパナヒ。

 

再び車を走らせると、その妻から確認の電話がかかってきた。

 

「全部、映画なんでしょう。僕には分かってますよ」

 

オミドはにやけながら、パナヒに言い切るのだ。

 

まもなく、オミドの客の家に着き、海賊版のDVDを売るために、タクシーの後部座席で、客の大学生に映画を選ばせる。

 

パナヒをオミドの仲間だと勘違いするその大学生は、商業映画が好きではなく、パナヒにどれがいいかを選んでもらうのだ。

 

「大学の課題で短編を撮るんですが…本を読み、映画を観て題材を探してますが、これというのが見つからなくて」

 

この大学生は、芸術大学で監督を専攻していると言う。

 

「いいかい。映画はすでに撮られ、本は書かれてる。他を探すんだ。題材はどこかに存在してる…自分で見つけるんだ」

 

本作のメッセージの一つである。

 

まもなく、オミドを乗せてタクシーを出そうとすると、金魚鉢を持った二人の老女が乗り込んで来た。

 

「アリの泉」まで連れて行ってくれと懇談され、慌だしく同乗する。

 

反対方向のオミドは、途中下車するが、その際、「パナヒを自分の仲間」だと大学生に言ったことを謝罪する。

 

その方が海賊版のDVDが高く売れるからだ。

 

一方、正午まで絶対に金魚を届けなければならないと命に関わると、老女らは声高に訴えるが、渋滞のために約束できないと答えるパナヒ。

 

そんな折、急停止して、金魚鉢が割れてしまい、パナヒはビニール袋に金魚を移し替える。

 

「2匹を泉から連れてきた日は、私たちの5年違いの誕生日。2人とも正午に生まれた。だから、正午までに2匹を泉に戻して、新しい金魚と交換しないと、私たちは死ぬの」

 

これが、謝罪するパナヒに対する、イスラム教の熱心な信奉者の老女らの言い分だった。

 

このエピソードにも、メッセージが内包されていると考えるのは、別段、誤っていないだろう。

 

しかし、パナヒは姪を迎えに行かなければならず、老女らを他のタクシーに乗り換えさせるに至った。

 

かくて、急いで姪のハナを迎えに行くと、待たされたことの不満をパナヒにぶつけるのだ。

 

「賢くて教養のあるレディーに会う時は、まずお店に入って、フラッペとかアイスとかを頼むの」

 

そんな小賢(こざか)しい口をきくハナは、映画の授業で短編を一本撮ることになり、題材を探していると言う。

 

「この間、おばあちゃんが来た日に、近所で叫び声がしたの。娘に求婚しに来た人を追い返したんだって。娘さんの恋人は、アフガニスタン人で、お父さんは求婚に来るまで知らなかったの。お父さんは娘さんを家に閉じ込めたけど、その恋人は家の近くで娘さんを待ち続けてた。息子たちが、何度追い払っても、その度に戻って来た。私、全部撮影したの」

「もう撮ったのに、なぜ題材が必要なんだ」

「そこなの。監督なら分かるでしょ。上映許可が出ない」

 

学校の文化祭で、映画を上映すると言うハナ。

 

「最優秀作品には賞金が出て、より上映に適した、より良い作品が撮れる」

 

これが、小学生のカメラ好きのハナの言葉だった。

 

ここから、映画は根源的な問題提起をする展開に踏み込んでいく。

 

 以下、「人生論的映画評論・続: 「俗悪なリアリズム」という、イラン映画の絶対的禁忌 ―― 映画「人生タクシー」の根源的問題提起 ジャファル・パナヒ」より

 

 

ひとよ('19)   白石和彌

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<「自由の使い方」に困惑し、自尊感情の形成・強化の時間を奪われた、三兄妹の再生の可能性>

 

 

1  家族4人が久々に揃った朝餉の風景は、団欒と呼ぶには程遠かった

 

 

 

「皆聞いて。お母さん、話があるから…お母さん、さっき、お父さんを殺しました。車で刎ねてね、殺した。本当は、やっちゃいけない。だからね。お父さんのおじいちゃんとおばあちゃん、死んで誰も悲しまないとこまで、ずっと待った。あんたたちを傷つけるお父さんだから、お母さん、殺ってやった!だから、これから、お母さん、警察へ行きます。学校や生活のこと、会社のこと、丸井のおじちゃんが引き受けてくれるから、大丈夫。どれくらい、刑務所に入るのか分からない。刑期が終わっても、すぐには帰れないと思う。ほとぼり冷めるの考えると、10年、ううん、15年、15年経ったら、必ず戻って来ますから…母さん、そろそろ、行きますね」

 

弾丸の雨の夜の、母親こはるの衝撃的な告白から、家族の紐帯(ちゅうたい)をテーマにする峻烈(しゅんれつ)な物語が開かれていく。

 

置き去りにされた3人の子供たち。

 

長男は、後天的な、吃音という発達障害をハンディにする高校生の大樹(だいき)。

 

次男は、小説家を志す、思春期スパートの渦中にある中学生の雄二。

 

そして妹は、美容師を夢見る小学生の園子。

 

家を出ようとする母の腕を掴む園子に対して、母は思いを込めて最後の言葉を残す。

 

「だあれも、あんたたちを殴ったりしない。これからは、好きなように暮らせる。自由に生きていける。何にだって、なれる。だから、お母さん、今すごっく、誇らしいんだ!」

 

予想だにできない事態に遭遇して、呆気に取られるだけの三兄妹。

 

言葉が出てこないのだ。

 

かくて、こはるの甥である丸井進の軽トラックに乗って、母は「15年の旅」に発っていく。

 

降りしきる雨の中、雄二の運転で、三兄妹は父親を轢き殺した車に乗って軽トラックを追いかけるが、徒労に終わった。

 

15年後。

 

長男の大樹は、電気屋で働く一家の主になっており、美容師を夢見ていた園子は、スナックで働いていた。

 

一方、次男の雄二は、風俗雑誌のフリーランスのライターになっているが、兄妹との関係は疎遠になっていた。

 

だから、父親の墓参りに行くのは大樹と園子のみ。

 

その父のタクシー会社を継いだのは丸井進。

 

その名も稲丸タクシー。

 

墓参りの夜、いつものように酔いつぶれた園子を迎えに行ったのは、新人運転手の堂下(どうした)だった。

 

自宅に戻り、大樹と園子は、母こはるの最後に残した言葉について語り合っていた。

 

こはるが家に帰って来たのは、そんな折だった。

 

「約束したから、母さん、戻って来た」

 

大樹は弟の雄二に、母が帰って来たことを携帯で知らせるが、その態度は素っ気ない。

 

翌日、タクシー会社のスタッフに、温かく出所と帰還のお祝いを受けるこはる。

 

出所後、沖縄から北海道まで、各地を転々と仕事をして、ほとぼりが冷める15年を期して帰還を果たした思いを話す、母こはるの晴れ晴れとした様子を視認する大樹と園子は戸惑いを隠せなかった。

 

次男の雄二が実家に戻って来たのは、その只中であった。

 

一貫して、素っ気ない態度を崩さない。

 

かつて暮らしていた家の中に入るや、父親の激しい暴力に晒されていた負の情景がフラッシュバックされる。

 

翌朝、家族4人が久々に揃った朝餉(あさげ)の風景は、団欒と呼ぶには程遠かった。

 

「ちょっと、皆いい?お母さんね、時間かけてゆっくり帰って来た。帰っちゃダメだと思ったこともある。このまま、会わずにって。でも、お母さんね…」

 

その言葉を遮断するように、雄二が口を挟む。

 

「皆がいいって、思ってんだったら、いいんじゃない」

 

黙って頷くこはる。

 

「進ちゃん、私が帰って来るまで、ちゃんと会社守ってくれて。稲村の稲に、丸井の丸で稲丸タクシー。ここは、一つの家族だって。それ聞いて、お母さん、痺れたな」

 

その母の話を、上の空で聞き流す大樹と雄二。

 

「雄ちゃんの書いた記事、雑誌に載ってるって、昨日、歌ちゃん(稲丸タクシー所属の運転手)に聞いた。立派な記者になったんだね」

 

嬉しそうに語る母に、園子は笑みを返すが、雄二は完全に白け切った表情で反応する。

 

「あの事件で居づらくしてくれたからね。お陰様で、東京に出て頑張れたよ」

「そうか」

 

一言、返すと、居づらくなった母は、その場を外した。

 

ぎこちない態度を取り続ける大樹と、反感が強い雄二。

 

その間に立って、気遣いする園子。

 

母こはるは、31歳の大樹が結婚し、娘がいる家庭を築いていた事実を知らなった。

 

しかし、妻・二三子(ふみこ)とは別居状態で、離婚問題の真っ只中にあり、離婚するつもりがない大樹の日常性はダッチロールしている。

 

また、こはるの帰還は、事件以降、頻発していたタクシー会社への悪質な誹謗中傷ビラや落書きの横行を引き起こすに至る。

 

母に知られないように、そのビラを剥がしていく大樹と園子。

 

大樹と園子の行動と切れ、誹謗中傷ビラを携帯で写真を撮る雄二。

 

「あの人に見せてやろうと思って。あなたのせいで、ずっとこんなこと、されてますよって」

 

雄二の物言いである。

 

一方、新人運転手の堂下は、17歳の息子と再会し、食事やバッティングセンターで親子の触れ合いを愉悦していた。

 

大樹の妻・二三子が会社を訪れたのは、そんな折だった。

 

初めて、長男の嫁と会うこはる。

 

しかし、大樹から母親の存在を知らされていなかった二三子は、夫への不信感を募らせ、離婚への固い決意を表出する。

 

大樹に離婚届を突きつけ、追ってくる大樹を振り払い、逃げるようにタクシーに乗り込む二三子。

 

こはるはタクシー無線を通して、二人で会話させる段取りをするが、話は全く噛み合わない。

 

折しも、園子は、雄二のパソコンファイルに信じ難い記事を見つける。

 

『空白の15年 聖母が狂わせた家族』。

 

これが記事のタイトル。

 

大樹と園子は雄二をスナックに呼び出し、その件を問い詰め、言い争いになるのは必至だった。

 

雄二は、母の事件をネタに週刊誌に記事を提供し、それを踏み台にして、小説家になると言うのだ。

 

「聖母は殺人者だった」という雑誌記事が二三子に知られ、その憤りを勤務中の夫に炸裂させる。

 

しかし、二三子の炸裂は反転してしまう。

 

穏やかな大樹が、奥深くに隠し込んでいた暴力性を惹起させてしまうのだ。

 

「話したら、結婚なんか、しなかったのにってか。子供なんか、産まなかったか!そういうことなら、別れてやるよ」

 

そこまで怒号する大樹は、別人のようだった。

 

そんな渦中で惹起した、悪意の集中的な攻勢の被弾。

 

稲丸タクシーの全てのタイヤがパンクさせられるという、悪意の集合的連鎖が暴れ捲っていくのだ。

 

いよいよ、こはるには、隠していた雑誌のコピーを見せざるを得なくなった。

 

「私のせいか」とこはる。

「全部、雄ちゃんのせいだよ。この記事書いたの、雄ちゃんだから」と園子。

 

その場にいた雄二は、黙って立ち去っていく。

 

急いで自宅に戻った大樹が、二三子が置いていった離婚届にサインしたのは、その時だった。

 

追って来た二三子は、それを制止し、「殺人者の孫」と言われるであろう、娘の将来について話すべきと大樹に訴える。

 

その二三子に、思わず手を上げてしまう大樹。

 

顔を伏せ、震えながら、大樹はテーブルを強打した。

 

「二度と来るな!これは稲村家の問題なんだ!」

 

「あなたに悩みがあるんだったら、それはあたしとミヨの問題でもあるでしょ。あたしだって、あなたの家族なのよ。だから、あたしたちのことも、ちゃんと見てよ」

 

一部始終を見ていたこはるが、ここで口を開く。

 

「あんた、今何やったのか、分かるの?こんなことして、こんな、あんた、まるで…」

「父さんみたい」

「そうだよ!」

「だったら、何だよ。父さんみたいだったら、母さん俺を、殺すか。母さんは、立派だから、ダメな俺を、殺すか?いつも、立派だから!」

 

母は、それ以上応えられず、嗚咽し、外へ出ていく。

 

「お母さん、ねえ、母さん」

 

園子だけは、こういう時、母に近接し、思いを寄せていく。

 

「ほっとけよ。兄ちゃんの家族に口出せる立場かよ」と雄二。

「何でよ。何で、お母さんを責めんの。お母さんは、あの人から、私たちを助けてくれたんじゃん!」

「その結果、俺たち、どうなった」と大樹。

「結局、兄ちゃんも、憎んでんじゃん」

「違うだろ…」

「もう、やめろ!」

 

風景の色彩が退色し、くすんでしまっていた。

 

以下、「人生論的映画評論・続: ひとよ('19)   白石和彌」より