武装解除できない青春の壊れやすさ 映画「きみの鳥はうたえる」('18)  ―― その「予定不調和」の秀逸な収斂点  三宅唱

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1  「僕にはこの夏がいつまでも続くような気がした」

 

 

 

函館郊外の書店で働く“僕”は、失業中の静雄とアパートで共同生活をしていた。

 

そんな“僕”は同じ書店で働く佐知子と、男女の関係になる。

 

彼女は店長の島田とも関係があるようだったが、そんなことを気にもせず、“僕”と静雄が住むアパートにやって来ては一緒に過ごす。

 

夏の間、3人はともに酒を飲み、クラブへ行き、ビリヤードに興じる。

 

そんなひと夏が終わるころ、静雄が佐知子とキャンプに出掛け、3人の関係は微妙に変わる。

 

―― 以上の文面は、WOWOWオンラインの簡単な梗概。

 

「僕にはこの夏がいつまでも続くような気がした。9月になっても、10月になっても、次の季節はやって来ないように思える」

 

この文学的な表現は、映画の序盤における一人称のモノローグ。

 

今回は、詳細な粗筋を省略して、本来の人生論的映画評論の視座で本作を批評していきたい。

 

 

 

2  「青春時代」とは何か

 

 

 

フィリップ・アリエスの「子供の誕生」などの著作に詳しいが、18世紀のブルジョア家庭から子供を可愛いがる風習が生れ、余剰農産物を獲得した余裕から、親にとって子供は情緒的満足の対象となっていく。

 

【因みに、「エミール」の著作で名高いルソーは、自分の5人の子供を全て施設に捨てたという公然たる事実があり、「告白」に詳しい。これがフランス革命前のヨーロッパ社会の一般的風景だった】

 

歴史上初めて、「子供」が普遍的に「発見」されたのである。

 

「子供」の発見は、同時に、「青年」や「女性」の発見でもあり、「少年期」や「青春時代」の誕生でもあった。

 

西洋史学者・木村尚三郎(「家族の時代」)によると、「女性」が発見されたのも、この近代社会の過程を通してである。

 

それまで女性は、「少々力の弱い大人」であり、中世では、夫の代わりに相手貴族と「法廷決闘」する権利を持っていたのである。

 

近代社会が一切を変容させていく。

 

近代になって、女性と子供は男により保護されねばならない存在とされ、むしろ、社会から除外されていった。

 

【1804年に公布されたフランスの民法典・「ナポレオン法典」では女は無能力とされ、夫の家長権が確立する。女性の無能力制度の確立である】

 

「青年」や「女性」の発見は、同時に、「恋愛」の誕生を告げたとされる。

 

青春期に愛を育み、遂に結婚に至るという、西欧型の「恋愛物語」が近代の産物ということなのである。

 

―― 以上は、「心の風景 覚悟の一撃 2 ―― 人生論・状況論」という拙稿の一文である。

 

近代社会において生まれた「青春時代」という概念の中枢に、心理的・社会的文脈において、「モラトリアム」の意味が内包しているのは、既に自明である。

 

では、「青春時代」とは何か。

 

私は、思春期初期から青春期後期に及ぶこの特殊な時期を、「自我の確立運動」の最前線であると考えている。

 

自我とは、簡単に言えば、「快・不快の原理」・「損得の原理」・「善悪の原理」という人間の基本的な行動原理を、如何にコントロールしていくかという〈生〉の根源的テーマを、意識的・且つ、無意識的に引き受け、自らを囲繞する環境に対する、最も有効な「適応・防衛戦略」を強化し、駆動させていく「基本・大脳(前頭葉)」の総合的な司令塔である。

 

ところが、この「基本・大脳(前頭葉)」の総合的な司令塔は、人間の生来的な所産でないから厄介な代物なのだ。

 

最も有効な「適応・防衛戦略」を完成形に拵(こしら)えていく「仕事」の艱難(かんなん)さが、この時期に重くのしかかるからである。

 

新しい情報の獲得・処理・操作にしていく知能=「流動性知能」が長けても、人生経験で培った判断力・洞察力・知恵=「結晶性知能」が不足しているが故に、「適応・防衛戦略」の完成形を得て、「自我の確立運動」が成功裏に導くことが叶わない。

 

これがあるから、「自我の確立運動」の最前線の渦中にあって、「青春時代」の景色が、「思うようにならない現実」を視界に収め、大抵の青春期が「澱み・歪み・濁り」の心理に捕捉され、立ち行かなくなってしまうのだ。

 

青春期は美しくもないし、清廉でもない。

 

定点が確保し得ず、浮游する自我を、とりあえず納得させるために、そう思いたいだけである。

 

「青春の美学」などない。

 

あるのは、空疎なナルシズムか、リアルなペシミズム。

 

「澱み・歪み・濁り」の心理を隠し込み、心の奥に潜む感情を表現できず、「多弁・寡黙・陽気」を仮構し、アドホックの世界に潜り込む。

 

「この時の、この時間」の只中を漂動するのだ。

 

だから、決定的に動かない。

 

動いて見せるだけで、動かない。

 

動けないのだ。

 

それでも、動かねばならない。

 

どこかで、いつも、そう思っている。

 

「我が青春の輝き」 ―― 人はそう言いたがる。

 

そんな大仰で、被写界深度の深さを誇示するかのような表現が苦手な私には、余りにもむず痒い。

 

その感触が、こそばゆいのだ。

 

眩(まばゆ)い煌(きらめ)きを放つ、分陰(ふんいん)を惜しむ青春があってもいい。

 

映画のクラブのシーンがそうであったように、ドーパミンの分泌が活性化され、飲み、踊り、叫び捲る。

 

一時(いっとき)の青春が弾けるのである。

 

しかし、「我が青春の輝き」の眩い煌きは、多くの場合、それ以外の選択肢を失った成人後の「記憶の再構成的想起」(過去を組み立て直す自伝的記憶)であると言っていい。

 

それで、人は満足する。

 

多分、それでいいのだろう。

 

紛雑な時代に、自らに関わる人たちに迷惑をかけ続けた私の愚かな青春と異なり、映画の3人は、ごく普通で、ごく普通の青春を、ひと夏に特化した時間の中で、ごく普通に遊び、ごく普通に恋をし、失ったり、成就したりする。

 

酷薄なラストシーンも、特段に騒ぎ立てるものではない。

 

これが青春の、ごく普通の風景なのだ。

 

大袈裟で、情緒満載の娯楽映画と切れ、そんな青春の、ごく普通の景色の断片をリアルに切り取り、決め台詞を捨てた映画の訴求力は抜きん出ていた。

 

以下、「人生論的映画評論・続: 武装解除できない青春の壊れやすさ 映画「きみの鳥はうたえる」('18)  ―― その「予定不調和」の秀逸な収斂点  三宅唱」より