小間使の日記(‘63)  ルイス・ブニュエル   <心の「真実」の姿を表現した決定的行為、或いは、「閉鎖系世界」の枠に閉じ込められていく「自在な観察者」>

イメージ 11  人の心の分りにくさ



人の心は定まらない。

その時々の状況の中で、どのようにでも振れていくし、動いていく。

特定の例外を除いて、そこで振れた行為の全ては、その人間の心の「真実」の姿の一端である。

その行為によって歓喜し、沸き立つような愉悦感を味わったり、或いは失望し、後悔し、被虐的傾向を増幅したりしても、それも、その時の人間の心の「真実」の姿である。

だから人間は、自らを駆動させていく、多種多様な相貌を見せる心の「真実」の集合体でもある。

当然ながら、人間の心の「真実」は、一つではないのだ。

人の心の分りにくさ。

私たちは、この厳然たる事実を認知せねばならない。

「女心と秋の空」という決めつけに、迂闊に同意してはならない。

江戸時代では、男の愛情の変わりやすさの喩えとして、「男心と秋の空」と言われていた事実を知る必要がある。

「分からぬは夏の日和と人心」

現実は、この諺の方が正解に近いのである。

人の心の分りにくさを感受する行程で表現されている言葉や、それを身体化させた感情は、その人の、その時の心の「真実」の様態であるが故に、それが選択的に特化され、「あいつは○○だ」などという傲慢なラベリングをされることで、実際には、個々の微妙な差異を多く具備しているにも拘らず、「特定の人格」の枠組みに嵌め込まれていく危うさを持つだろう。

こうした枠組みに嵌め込んでいく行為の本質は、それによって、自己を過剰に武装する防衛戦略であると言っていい。

そして、特定の行為に振れていくときの「欲望」に集合する感情が大きければ大きいほど、それが決定的な推進力になって、人間を動かしていくのだ。

さて、「小間使の日記」のこと。
 
何にも増して分りにくいのは、ブニュエル映画特有の「夢」の登場のない、至って分り易く、「生真面目」な構成によって成る、本作のヒロインの小間使いの内面風景である。

それを考えてみるのが、本稿のテーマである。

なぜなら、ヒロインの内面風景の分りにくさは、演出的な戦略であると思えるが、ルイス・ブニュエル監督にとって、決して「病理性」を有する人物造形の所産などではないことは、丁寧に本作を読み解いていけば判然とするだろう。

以下、この映画のDVDの特典映像の「ドキュメンタリー」や、ブニュエル監督のインタビュー本である、「INTERVIEWルイス・ブニュエル―公開禁止令」(トマス・ペレス トレント, ホセ デ・ラ・コリーナ , 岩崎 翻訳 フィルムアート社)などを参考にして、テーマに沿って言及していく。



2  「閉鎖系世界」の枠に閉じ込められていく「自在な観察者」


 
「昼顔」(1967年製作)、「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(1972年製作)、「自由の幻想」(1974年製作)を経て、遺作の「欲望のあいまいな対象」(1977年製作)などの脚本を手がける、ジャン=クロード・カリエールと初めて組んだ作品である、「小間使の日記」の舞台になったのは、有閑階級であるアッパーミドルのモンテイユ家の邸。

このモンテイユ家の邸の住人たちは、自らパンを確保するために働く努力をしない分だけ、その行動は自在な選択性を帯びているが、揶揄して言えば、殆ど「半径1m以内の世界」で生活するほどに閉鎖的である。

西欧文化圏」原産で、多くの婦人靴の蒐集と、それを履く女性の脚線美に愉悦するフェティストの老人、次々に、代わって働きに来る小間使いたちを妊娠させてきたと思しき、漁色に耽る養子の主人、その夫の性的欲望を封じ込め、神経が細かく、「虚栄の城」の邸の中の様々な物質的価値を守ることしか考えていないように見える、吝嗇(りんしょく)家のモンテイユ夫人。
 
 
「蝶を撃ち、サイコロ遊び。彼らは大したことをしない。働くこともしない。資本で利益を生むだけ。彼らは静的で、考えが凝り固まり、自分たちの家の四方の壁に閉じ込められ、外との接触がない。凝り固まった時間の中で過去の写真を眺め、フェティシズムの幻影の興に入る。邸に閉じ込められ、同じことを繰り返さねばならない」

これは、この映画のDVDの特典映像のドキュメンタリーで説明された、モンテイユ家の住人たちの、その閉鎖系の生活様態の醜悪さを活写したナレーションである。

その意味で、本作は、ルイス・ブニュエル監督の映像世界の中で最も陰鬱であり、救いがない。

心底から頬が緩むようなユーモアが拾えないのだ。

階級社会のフランスでは、日本のような「平等志向」の社会では想像し得ないほど、階級の仕切りが固定化されていて、「境界破り」は不可能であるように見えた

ところが、その「境界破り」を、呆気なく具現する人間がいた。
 
この映画のヒロインの小間使い・セレスティーヌである。

 「彼女の登場から逆転する。廊下の二つの窓の間。境界線。彼女は、見とれていた世界の傍観者ではもうない。二つの世界の間。まもなく、中産階級の世界へ。初めは、この二つ世界の間で決心がつかない。庶民には所属せず、まだ中産階級にも。大都市ではなく、まだ田舎でもない。捕まえどころのない表情。自由な精神。どこにも同化しない。いつも、こことよそに同時に居る。それでも、セレスティーヌは常に動く。邸の中を全て見て、全てを聞く。彼女は境界をもろともせず、この家の廊下へ密かに訪れる。また、彼女は外へ抜け出し、隣人と知り合い、彼らと交際する。やがて、二つの境界が曖昧になる」(前掲ドキュメンタリー)

 外へ抜け出し、知り合った隣人とは、長くモンテイユ家と不仲になっているが、同じアッパーミドルである退役軍人のモージェのこと。

 モージェは、「境界破り」のセレスティーヌに好意を持ち、例外的に、彼女との接触を受容していた。

そんな折に惹起した出来事。
 
主に、フェティストの老人の世話をし、自らも、老人の「性的倒錯」(精神医学の見解)の相手をする小間使いのセレスティーヌだったが、件の老人が、「自室」という名の「閉鎖系」の狭隘なスポットで、「約束」された「運命」であるかのように、呆気なく「孤独死」する出来事がそれである。

老人の「孤独死」によって、セレスティーヌは職を辞し、都会に戻ろうとした。

その行程で遭遇した陰惨な事件が、セレスティーヌを大きく変えていく。

少女殺人事件である。

 「文明と野蛮の分離。伝統的には、この家は文明の象徴である。反対に、森は無秩序で、野蛮な全ての恐怖の源である。ジョゼフはクレールを強姦し、殺害。その後、女中のマリアンヌが主人に強姦される。この中産階級の家庭の中で、セレスティーヌは、低俗な獣のような人間性を発見する」(前掲ドキュメンタリー)
 
「低俗な獣」は、下男のジョゼフである。
 
「無秩序」と「野蛮」の源である森の奥で、少女クレールを殺害した下男のジョゼフは、「低俗な獣」の典型的人物として造形されているが、このようなタイプの男に限って、「時代状況への巧みなる適応力」をも持ち合わせているから、蓋(けだ)し厄介なのである。

 映画では、多くの動物が登場するが、野蛮な出来事が起こる度に、その傍らに、「文明」と「野蛮」が同居する構図を見せていく。

その典型が、クレールの死体の脚の膝に乗せられていた一匹のカタツムリ。

メタファーとして映像提示されているこの構図に対して、ブニュエルの「変態」と揶揄するレビューが多いが、私には、昆虫学に熱中し、農業技師を目指したというブニュエルの知的好奇心の高さに驚きを禁じ得ないのだ。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/小間使の日記(‘63)  ルイス・ブニュエル     <心の「真実」の姿を表現した決定的行為、或いは、「閉鎖系世界」の枠に閉じ込められていく「自在な観察者」>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/08/63.html