1 「秘密と嘘」を作り出す、防衛的自我の稜線を伸ばす行為の危うさ
家族とは、分娩と育児による世代間継承という役割を除けば、「パンと心の共同体」である、と私は考えている。
然るに、現代家族の多くは今、「パンの共同体」という役割が絶対的な価値を持たなくなっているように思われる。
近代化され、一定の生活水準の高さを確保した社会の中で、家族の役割の中枢は「心=情緒の共同体」にシフトしてきているのである。
「格差社会」と言われながらも、ごく一部の特別な例外を除けば、飢えの問題が克服されてきたことを否定できないからだ。
従って、家族の成員にとって、「家族」を実感的に感じるものは、家族間の情緒的交叉のうちに形成される見えない親和力の継続的な確認であり、そこで手に入れる安寧の感情と言ったものだろう。
そこで安寧に達する家族成員のそれぞれの自我こそが、まさにそれが解き放たれた実感となって、家庭という空間に、しばしば過剰なまでに身を預けるのである。
解放された自我は、そこで裸形の自我を曝け出し、外部環境で溜め込んだ膨大なストレスを存分に吐き出すのである。
そこでは放屁やゲップが飛び交い、不必要な仮面が悉(ことごと)く剥ぎ取られていく。
言うまでもなく、そこには暗黙のタブーやルールがあるが、ルールをほんの少し突き抜けても、それを修復するだけの情緒的復元力が、いつでもそこに担保されているのである。
「情緒の共同体」の本質は、自我の武装解除にあるということ ―― この把握に尽きるのだ。
それ故にこそ、「情緒の共同体」は、現代家族の生命線なのである。
しかし、この辺りの崩れが顕在化したとき、家族は忽ちのうちにその幻想=物語を剥ぎ取られ、そこに家族成員の確信的で、継続的な努力が傾注されていかない限り、その崩壊を防ぐのは難しいと言えるだろう。
自我の武装解除を保証する「情緒の共同体」の中で、防衛的自我の稜線を伸ばす行為が基本的に不必要であるのは、家族成員間の情緒的交叉を空洞化するリスクを高めてしまいやすいからである。
防衛的自我の稜線を伸ばす行為の典型は、家族成員間のうちに「秘密と嘘」を作り出してしまうことだ。
無論、家族成員である前に一個の人格であるが故に、「秘密と嘘」を隠し込む私的行為は、ごく普通のレベルにおいて常態化されているだろう。
それは一向に構わないのだが、問題は、「秘密と嘘」を隠し込む私的行為が、他の家族成員の「知る権利」を決定的に奪うことによって、家族成員間の情緒的復元力を無化する空気を分娩させてしまう増幅的な危うさのうちにある。
防衛的自我の稜線を伸ばす行為のうちに「秘密と嘘」を作り出すことは、家族成員間の黙契である「秘密の共有」の継続性に背馳(はいち)しかねないのだ。
因みに、私が思うに、嘘には三種類しかない。
「防衛的な嘘」、「効果的な嘘」、それに「配慮的な嘘」である。
己を守るか、何か目的的な効果を狙ったものか。
それとも、相手に対する気配り故のものか、という風に分けられよう。
当然の如く、嘘をつかなくては生きていけない私たちの日常性を否定するには及ばない。
私たちの日常を貫流する嘘々しさは、関係に澱みを残さない限りにおいて認知され、世俗を潤滑する格好の油滴としての役割を担っているかも知れないからだ。
(人生論的映画評論/秘密と嘘('96) マイク・リー <「恐怖突入」の「前線」を突き抜けて来た者たちだけが到達した、決定的な「アファーメーション」>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/11/96_28.html
家族とは、分娩と育児による世代間継承という役割を除けば、「パンと心の共同体」である、と私は考えている。
然るに、現代家族の多くは今、「パンの共同体」という役割が絶対的な価値を持たなくなっているように思われる。
近代化され、一定の生活水準の高さを確保した社会の中で、家族の役割の中枢は「心=情緒の共同体」にシフトしてきているのである。
「格差社会」と言われながらも、ごく一部の特別な例外を除けば、飢えの問題が克服されてきたことを否定できないからだ。
従って、家族の成員にとって、「家族」を実感的に感じるものは、家族間の情緒的交叉のうちに形成される見えない親和力の継続的な確認であり、そこで手に入れる安寧の感情と言ったものだろう。
そこで安寧に達する家族成員のそれぞれの自我こそが、まさにそれが解き放たれた実感となって、家庭という空間に、しばしば過剰なまでに身を預けるのである。
解放された自我は、そこで裸形の自我を曝け出し、外部環境で溜め込んだ膨大なストレスを存分に吐き出すのである。
そこでは放屁やゲップが飛び交い、不必要な仮面が悉(ことごと)く剥ぎ取られていく。
言うまでもなく、そこには暗黙のタブーやルールがあるが、ルールをほんの少し突き抜けても、それを修復するだけの情緒的復元力が、いつでもそこに担保されているのである。
「情緒の共同体」の本質は、自我の武装解除にあるということ ―― この把握に尽きるのだ。
それ故にこそ、「情緒の共同体」は、現代家族の生命線なのである。
しかし、この辺りの崩れが顕在化したとき、家族は忽ちのうちにその幻想=物語を剥ぎ取られ、そこに家族成員の確信的で、継続的な努力が傾注されていかない限り、その崩壊を防ぐのは難しいと言えるだろう。
自我の武装解除を保証する「情緒の共同体」の中で、防衛的自我の稜線を伸ばす行為が基本的に不必要であるのは、家族成員間の情緒的交叉を空洞化するリスクを高めてしまいやすいからである。
防衛的自我の稜線を伸ばす行為の典型は、家族成員間のうちに「秘密と嘘」を作り出してしまうことだ。
無論、家族成員である前に一個の人格であるが故に、「秘密と嘘」を隠し込む私的行為は、ごく普通のレベルにおいて常態化されているだろう。
それは一向に構わないのだが、問題は、「秘密と嘘」を隠し込む私的行為が、他の家族成員の「知る権利」を決定的に奪うことによって、家族成員間の情緒的復元力を無化する空気を分娩させてしまう増幅的な危うさのうちにある。
防衛的自我の稜線を伸ばす行為のうちに「秘密と嘘」を作り出すことは、家族成員間の黙契である「秘密の共有」の継続性に背馳(はいち)しかねないのだ。
因みに、私が思うに、嘘には三種類しかない。
「防衛的な嘘」、「効果的な嘘」、それに「配慮的な嘘」である。
己を守るか、何か目的的な効果を狙ったものか。
それとも、相手に対する気配り故のものか、という風に分けられよう。
当然の如く、嘘をつかなくては生きていけない私たちの日常性を否定するには及ばない。
私たちの日常を貫流する嘘々しさは、関係に澱みを残さない限りにおいて認知され、世俗を潤滑する格好の油滴としての役割を担っているかも知れないからだ。
(人生論的映画評論/秘密と嘘('96) マイク・リー <「恐怖突入」の「前線」を突き抜けて来た者たちだけが到達した、決定的な「アファーメーション」>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/11/96_28.html