空中庭園(‘05) 豊田利晃   <「逆オートロック」の「理想家族」という絶対規範の本質的矛盾>

イメージ 1 1  「逆オートロック」の「理想家族」という絶対規範本質的矛盾



「人類の家族は、人類特有の孤独と死の恐怖を解消できないまでも、いくらかは軽減するために発明された文化装置であると思われる。・・・依然として、孤独と死は個人の最大の恐怖であり、この恐怖をいくらかでも鎮めるのに役立つ幻想は、広く世界を見渡しても家族の他にはほとんどないし、家族は自我の起源であるとともに延長でもあるから、家族と言う文化装置は、現在、混乱と破綻の危機に曝されているが、今後とも消滅することはあるまいと思われる」(「古希の雑考」文春文庫)

これは、「孤独と死への恐怖」から家族を作ったという岸田秀の家族論の仮説である。

この岸田秀の仮説の一つの範型が本作にあると思えるので、引用た次第である。

本作のヒロインである絵里子は、不必要なまでに長いモノローグの中で、「自己史」の中枢に潜む情感文脈を吐露している。

それは、「何事もつつみ隠さず、タブーを作らず、できるだけ、すべてのことを分かち合う。それが、私たち家族の決まり」という冒頭のノローグと、唯一、乖離する「秘密」であった。

以下、不必要なまでに長いモノローグを、洩らさず再現していく。
 
「京橋家は、私の完全なる計画のもとに作られたということだ。マナは予想外にできちゃったわけではない。基礎体温は15の時からつけていた。家庭を作ることができる男子を探し、男子の目に留まるよう、オシャレと美容に命を賭け、同時に出産育児、家事一般だけを学んで、高校の3年間を過ごした。輪に加わらない私は、クラスメイトから変な仇名で呼ばれ、ほぼ、集団無視された。不毛な、絶望的に無意味な高校時代だった。帰るところは家しかなく、家に帰れば、母といるしかなかった。高校を卒業後、勤めていた会社にバイトに来た貴史と出会い、一ヶ月観察して確信した。貴史のバイトが最後の日、飲みに誘ったら簡単についてきて、そのままホテル『野猿』に私を連れて行った。そういう男なんだろうと思ったけれど、そんなことは私の計算にあまり関係がなかった。肝心なのは、子供ができたと告げた時、渋々でも受け入れるか、逃げるか・・・」

結局、渋々でも受け入れた男と結婚する。

男の名は貴史。

当然ながら、それは、貴史が放つ「性的な臭気」に惹かれて結婚した訳ではない。

「子供ができたと告げた時、渋々でも受け入れる」ある種の人の良さを感じさせ、最終的に結婚を受託してくれればいいのだ。

そんな貴史と結婚した絵里子は、少なくとも、自己の計画的な「理想家族」のイメージを抱懐して、「家族作り」を実践躬行(じっせんきゅうこう)していく。

「この団地に引っ越して来た時、私は光り輝く新しい未来にやって来たと思った。あの大嫌いな家を反面教師にして、私は新しい家族を作った」

まさに絵里子は、「あんな子、産むんじゃなかった」と勝手に思い込んでいた、母・さと子との、暗欝な幼児・児童・少女期で被弾した「心の傷」を完全に浄化し、払拭するために、確信的に「理想家族」を仮構したのである。

この「家族作り」が成功裡に結ばれたと確信し得たからこそ、元々、性的欲求の希薄な絵里子が、夫との間5年間もセックスレスの関係を延長させてしまったのだろう。

このような「理想家族」を仮構した絵里子の、その心理に深々と横臥(おうが)しているのは、岸田秀の言う「孤独と死への恐怖」であると言っていい。
 
「ERIKO GARDEN」という標札によって特化された、ルーフバルコニーというスポットで、「理想家族」を占有する愉悦感。

一人の王妃の心を慰撫するために造園された「バビロンの空中庭園」のように、この特化されたスポットこそ、絵里子「理想家族」のイメージを凝縮させたものである。

「理想家族」を仮構した絵里子にとって、まさに、「家族ごっこ」を愉悦することだけが「幸福」であるが故には、息子・コウの家庭教師のミーナの指摘に微動だにしなかった。

不動産屋に勤めるミーナの存在は、ここでは単に、夫貴史の愛人である以上に、「理想家族」を破綻の危機に追いやる記号的人物として、物語の中にインサートされたと考えた方が分り易い。

「そうか、学芸会や。これは学芸会なんや。だって、幼稚園の学芸会にそっくりやもん。皆、分っているのに、幸せな家族の役を演じている」

これは、ミーナが、母・さと子との抱き合わせで開かれた誕生パーティーに招待された際、ワインに泥酔した只中でのモノローグ。
 
その直後、ミーナは、「分った!これ学芸会だ」と放言する台詞のくどさが気になるが、ここでは、絵里子の反駁を引き出させるものとして理解しておこう

「学芸会で何が悪いのよ。これだけは、18の時から止められないの」

これが、絵里子の反駁。

当然ながら、絵里子は、外部の人間の「不法侵入」によって、「理想家族」が破綻の危機に陥る事態を恐れている。

と言うより、絵里子の自我は、自らが仮構した「理想家族」のパワーの脆弱性を認知しているから、余計、「笑みで包んだ反駁」を必至にするのだろう。

なぜなら、絵里子「理想家族」の内実は、「何事もつつみ隠さず、タブーを作らず、できるだけ、すべてのことを分かち合う」というルールで糊塗しているが、「無菌室」のイメージの時空を繋いできただけで、その本質的矛盾を、「完全解放系」のルールのうちに飛び交う「タブーの言辞」の放出によって拡散させているだけのこと。

「学芸会」という表現は、まさに言い得て妙だった。

「ウチ、逆オートロックだからな」

このコウの表現は、「理想家族」の本質的矛盾を衝いていた。

外部の人間の「不法侵入」への警戒感以上に、母が作ったこの「理想家族」には、寧ろ、家族内部に潜む「見えないオートロック」が存在している現実こそ、厄介な何ものかである。
 
要するに、外部に対して閉ざされている普通のオートロックではなく、本来、裸形の自我を晒すことで、往来自由の「特権」を手に入れているはずの家族内部で、成員の「秘密」を隠し込むための「見えないオートロック」が作り出されているということ。

これが、家族の心を散り散りにさせる危うさを内包していると、コウは感受したのだろう

一見、「完全解放系」の「理想家族」のルールを遵守せねばならないという縛りこそ、「窓のないラブホテルの部屋」のように、内側からの往来自在の「出入り口」を持たない、「家族ごっこ」の「閉塞性」をシンボライズするものだったということか。

従って、「隠しごと禁止」という、「京橋家限定」のルールを作ってしまったが故に、肝心の絵里子の特殊なケースを含めて、皮肉にも、京橋家の他の3人の家族成員が、京橋家を離れるや、「窓のあるラブホテルの部屋」を求めるように、個々相応の「隠しごと」の「完全解放系」の世界で、存分に呼吸を繋ぐ事態を必然化することを意味するだろう

それは、「学芸会」という拙劣な「お芝居」の時空から、見え透いた「役割」の欺瞞の垢を落とす洗浄のイメージに近い。

こんなルールを完璧に守り切れるほど、人間の自我はメカニカルに構造化されていないからだ。

「孤独と死への恐怖」から家族を作ったという岸田秀の家族論に倣えば、完璧な「単独者」として生きていけないからこそ、「安らぎ」だけが要請される、「パンと心の共同体」である現代家族の基本命題には、裸形の自我を晒せるスポットの安寧感の保証が求められるのである。

それ故、無理難題なルールで縛られた、「逆オートロック」の「理想家族」を延長するのは、メカニカルに構造化されていない人間の自我の能力の範疇では十全に処理し得ず、早晩、限界ラインの際(きわ)での突沸(とっぷつ)を約束させてしまうのだ

 
(人生論的映画評論・続/空中庭園(‘05) 豊田利晃    <「逆オートロック」の「理想家族」という絶対規範の本質的矛盾>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/07/05.html