腑抜けども、悲しみの愛を見せろ(‘07) 吉田大八 <男たちの「腑抜けさ」を均等に分け合って喰っていく、誰も勝者のいない女たちの腕力の決定版>

イメージ 11  「癒しの空間としての家族」という物語と、家族外人間関係における道徳観念が内包する欺瞞性



私たちが殆ど疑うことがない「癒しの空間としての家族」という物語と、とりわけ、この国において、家族外人間関係における道徳観念が内包する欺瞞性を、ブラックコメディ仕立てで抉り出した逸品であり、相応のテーマ性を持った娯楽映画としても充分に楽しめる作品である。

ここでは、ブラックコメディ仕立ての相応のテーマ性について言及したい。

まず、「癒しの空間としての家族」という物語。

いつの時代でも、どの国でも、この物語の求心力は絶対である。

そんな絶大な求心力を誇る現代家族には、3つの幻想が内包されていると私は考えている。

その1 「役割共同体」。

「役割共同体」とは、かつて愛し、恐らく、今でも愛しているに違いない特定の女性を、「お母さん」とか、「ママ」とか呼び、更に、かつて愛する男性もまた、固有名詞の人格呼称から、「お父さん」という役割呼称に変えられて、瑞々(みずみず)しかった若きカップルは、家族という「役割集合体」に関係ベクトルを転位させていくことになる。

この関係ベクトルの転位の延長上に、「長男」、「長女」、「次男」、「二女」、更に、我が子同士の関係が「兄」、「妹」等々、といった役割呼称で呼び慣らす「役割共同体」を固めていく。

 夫婦の関係は、子供との関係に力点を移すことで相対化され、一つの「役割集合体」としての家族が、その固有の律動を刻んでいくのである。

その2  「中性共同体」。

これは、物理的共存を深めるほど関係は中性化するという、関係の仮説命題の流れによって自然に作られやすい形態で、一言で要約すれば、「家族」という物語が、「性の脱色化」を本質にする「中性共同体」への変容を深めていくという持論に収斂されるもの。

 夫婦と子供二人という核家族の中で、この中性化=「性の脱色化」という現象が多元的に、部分的には緩慢に、しかし確実に進んでいく。

それは、物理的共存を選択した家族の宿命であると言っていい。

 この集合体では、性は極めて制限的であり、抑制的である。
 
物理的共存を深めることで、この「役割共同体」が「中性共同体」として純粋培養させていくのである。

 ゲップが飛び交い、放屁と鼾が宙を舞い、裸の肉塊が空間を過(よ)ぎっても、誰もそれを不思議に思わないような空気が、そこにある。

中性化の達成度の微妙な落差を認めてもなお、この集合体の内側を貫く脱セックス化の規範ラインは健在である。

 このことは、近代家族の使命が、子孫の継続的伝承という中枢のテーマを除けば、愛情と援助の自給という二本柱に拠っていることと関係するが、ここでは言及しない。

その3 「情緒的共同体」。 

中性化の亢進は、家族の宿命だった。

多くの場合、夫婦に関わらず、性はどこの社会でも開放されたものになっていない。

隠れて営むという性のスタイルが、人類創世と同時にあったものかは定かではないが、「家族」という名の限定的な小宇宙で、父と母が同時に、「夫婦」という名の男女でもあったという事実を、物心が付き始めた二世たちに見せる必然性がないという規範意識を、人々は自然に継承してきているのである。
 
 早晩、夫婦の中から「ときめき感覚」が稀薄化していく。

 それに反比例するかのように定着化が進むのは、「安らぎの感覚」である。

これが、関係の中性化の推進力になる。
 
 家族の中性化の基底のモチーフは、中性化を果たすことで得られる
「安らぎの感覚」の共同内化にこそある。

一言で要約すれば、家族の成員は自らを包含するその集合体のうちに、それぞれの自我を裸にしたいのである。

言い換えれば、家族とは、その成員の自我を裸にする何ものかなのだ。

 そこで眠っていても、誰も襲って来ることがなく、裸になっても、誰も特別の視線を投げかけたりはしない。

当然、会話には敬語はいらない。

要するに、人が社会とクロスするときに生じる緊張感が、ここには僅かしかないのである。
 
生命の安全と精神の緊張の弛緩を確保するための装置 ―― それが「家族」という集合体なのだ。

この装置の中で、各成員がそれぞれの成長と老化のプロセスに見合った、様々なる情緒的結合を果たしていくこと。

この情緒的結合こそ、現代家族の基幹を成す生命線であると言っていい。
 
 要するに、「家族」という物語は、「情緒的共同体」のうちに収斂されていくのである。

―― 次に、家族外人間関係における道徳観念について。

家族外人間関係における道徳観念とは、社会的に支持された、成文化されざる規範の集合的観念のことである。

とりわけ、この国の道徳観念を支配しているのは、「空気」という厄介な代物である。

この「空気」の本質は、「そんなことは言わなくても分っているだろう」と人々に思わせるに足る、「察しの文化」であると言っていい。

これが「互酬性の原理」=「世間体の原理」として、長く、この国の地域社会の見えざるルールとして機能してきたことは否定しようがないだろう。

然るに、急速な都市社会の発展によって、隣に誰が住んでいても一切関知しないという、集合住宅の生活ゾーンでは、相当程度形骸化されているが、それでもまだ、地域社会の中で安楽死していないという、強(したた)かな現実がある。
 
と言うより、「助け合いの文化」として、家族外人間関係の由々しき補完的な機能の存在を、私たちは決して捨てないだろうから、それ故にこそ、都市社会の中でも、「隣人祭り」(近隣住民が料理を持ち寄って、食事会などを楽しむイベント)が活況を呈していると考えるべきである。

まさに、本作の舞台である北陸の田舎町で、この国の「察しの文化」が強力に根を張っていて、それが、本作の物語の起爆点となって自己運動していったのである。

この「察しの文化」の中で、私たちは、「自己基準を押し付けるな」という、見えない抑制系の世界で呼吸を繋いでいるということ ―― この把握が重要なのだ。
 
同時に、前述した物語の求心力が衰弱していない北陸の田舎町にあって、既に血縁性の濃度が希薄で、劣化した「家族」という小宇宙で生きる本作の4人の登場人物は、本稿で言及してきたようなテーマ、即ち、「癒しの空間としての家族」という物語と、「空気」という厄介な代物に搦(から)め捕られ、家族外人間関係における、「察しの文化」を強いてくる心理圧に揺さぶられながら、葛藤し、それを突き抜けていく女たちの図太さを、「腑抜けな男たち」との「対比効果」の中で、特化して描き切った本作の訴求力は絶大だった。

「癒しの空間としての家族」という物語と、「空気」という厄介な代物が内包する、幻想体系を相対化するという一点によって本作を読み解けば、少なくとも、私の中では腑に落ちるものがあった。

それが、本作に対する私の好評価に繋がっている。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/腑抜けども、悲しみの愛を見せろ(‘07) 吉田大八 <男たちの「腑抜けさ」を均等に分け合って喰っていく、誰も勝者のいない女たちの腕力の決定版>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/04/07.html