エグザイル/絆('06) ジョニー ・トー<極道の生きざま漂う「哀感」を表現し切れない脆弱さ>

  1  「即興演出」的なアナーキー性の臭気を撒き散らす、「黒社会」での暗闘



 「女」と「暴力」の絡みを濃密に描くアメリカン・フィルムノワールと違って、「男の観念」・「力の論理」という「極道の情感体系」に加えて、「友情と背反」を基本テーゼにする香港ノワールには、「友情」というファクターが欠かせないが故に、その映像に張り付く「即興演出」的なアナーキー性によって、リアリティを増幅させる効果を持ち得ていた。
 そのリアリティも、今や、「マカオのカジノ王」スタンレー・ホーが独占してきたカジノ産業にアメリカ資本が流れ込むことで、少しは風通しが良くなってきた、中国返還間近のマカオを舞台にした本作では、そこもアメリカン・フィルムノワールと違って、美形の俳優を起用することなく、強面だが、どこか人の良い5人の極道が、「男の美学」を身体表現して見せることで倍加するだろう。

 極道たちの「友情と背反」という香港ノワールの基本テーゼは、「敵味方」に分れた冒頭の銃撃戦と、その銃撃戦の呆気ない収束によって、些か強引な「友情」の復元を立ち上げるのだ。殆ど「予定調和」的な「友情」の復元は、暗殺指令を出した「黒社会」(「三合会」に象徴される、香港ノワールの題材とされる裏社会のこと)への「背反」と化すが故に、食卓を囲むことで、反転させた〈状況〉の只中で、「友情」を復元させた、この5人の極道の前途に待ち受ける、極めてハイリスクな〈状況〉の恐怖突破の様態が物語の核となって、「即興演出」的なアナーキー性の臭気を撒き散らす、緊迫感溢れる「黒社会」での暗闘を執拗に描き出す。

 然るに本作は、残念ながら、銃撃戦を雑然と繋ぐ平板な物語以上の完成度を持ち得なかったし、それ以下の愚作の類に含まれるほどの瑕疵は免れたと言えようか。
 
 
(人生論的映画評論/エグザイル/絆('06) ジョニー ・トー<極道の生きざま漂う「哀感」を表現し切れない脆弱さ>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/06/06.html