心の風景「『覚悟の一撃』 ―― 人生論」より

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突入するにも覚悟がいるが、突入しない人生の覚悟というのもある。覚悟なき者は、何をやってもやらなくても、既に決定的なところで負けている。その精神が必要であると括った者が、それを必要とするに足る時間の分だけ、自らを鼓舞し続けるために、「逃避拒絶」のバリアを自分の内側に設定する。それを私は、「覚悟」と呼ぶ。できれば、その内側に「胆力」を付随(ふずい)させる必要がある。「恐怖支配力」こそ、「胆力」という概念の本質であるからだ。
 
覚悟こそが言葉を分娩し、そこに血流を吹き込んでいく。「自由の使い方」を喪失した時代の浮薄さが垂れ流す、ジャンクな言葉の氾濫 ―― もうそこには、「教育」という概念に命を吹き込むリアリティは復元しないのか。
 
「赦せない」という感情ラインと、「赦してはならない」という道徳ラインが結合すると、しばしば、最強の「憎悪の共同体」を作り出す。これを法の論理で突破するのが困難になるとき、そこに死体の山が重なっていく。人間の歴史は、この類(たぐ)いの厄介な現象を内包するから、私たちの精神の僅かの進化が目立たなくなるのだ。私たちの脳には、社会心理学のフィールドで言う、「感情予測」がネガティブなものに振れやすい、「インパクト・バイアス」という感情ラインが伏在しているので、どうしても、このラインをブレイクスルーし切れないのだ。然るに、そのような目立たいものでも守り続ける根気があるかどうか、それは知性のフィールドである。
 
「絶対の自由」への旅人には、相当の覚悟が求められる。第一に、路傍で死体になること。第二に、その死体が迷惑なる物体として処理されるであろうこと。そして第三に、一切がほぼ意志的に、一ヶ月もすれば忘れ去られてしまうこと。この三つである。即ち、一人の旅人から完全に人格性が剥(は)ぎ取られ、生物学的に処理されること。このことへの途轍もない覚悟である。それは、「絶対の自由」=「絶対孤独」に最近接した者が宿命的に負う十字架であるだろう。それでも貴方は、「絶対の自由」への旅に向かうのか。
 
「親愛」「信頼」・「礼節」・「援助」・「依存」・「共有」 ―― 以上の六つの要件こそが、「友情」を構成する因子であると、私は考えている。いずれも、重厚に脈絡し合って形成された心理的コンテクストであり、これら全ての要件が適度に均衡し合って形成された関係様態 ―― それを私は「友情」と呼んでいる。
 
「秘密の共有」と「仮想敵の創出とその共有」 ―― これが、「友情」を「同志」に変えさせていくときの中枢的な情感コードとなる。
 
「愛」・「思いやり」「優しさ」 ―― 勝手に読まれ、物語含みで増幅的にイメージされていく。無自覚なまま、これらの言葉の氾濫に馴致(じゅんち)していくと、それが本来的に具備していた「言語的価値」が独り歩きし、虚構性だけが宙を舞い、いつしか、「慣習的記号」の枠に押し込められていく。「慣習的記号」でしかない言葉が、互換性を有しないゲームとして変換され、良くも悪くも、メディアで存分に消費され、遊ばれていくのである。
 
「天才の法則」「天才もどきの法則」・「スモール・ステップ(SS)の法則」そして、「法則にもならない無原則な生き方」。人生のスタイルには、この四つがあると思われる。
その腕力と、本来的な「激情的習得欲求」(ある女性脳科学者の「天才」の定義)に任せて、イノベーションを達成した巨大企業が、破壊的技術を持つ後発の新興企業の発展に興味を示すことがなく、自らの改革を疎(おろそ)かにすると、フィルムカメラデジタルカメラに置き去りにされたように、あっさりと抜かれてしまう「イノベーションのジレンマ」の凄みは、一際(ひときわ)目立つ。「激情的習得欲求」を推進力にして「イノベーションのジレンマ」を克服し、大目標に向かって直進する天才と、その多くの追随者・「天才もどきの法則」の突破力と切れて、SS者の快楽は、日々の自己完結感の達成にある。一つ一つの達成感の累積に生きられる、SS者のもう一つの強みは、目標を自在に変更できることだ。目標の達成が苛酷だったら、「今、このとき」の可能な目標に切り換えて、とにかく、一つ抜け出すのである。実現可能な目標への地道な行程を継続し切ったその向うに、より開かれた未来が待っていて、振り返ったら、軌跡がラインとなって浮かんでいる。少なくとも、この生き方は、優先順位をミスリードしない堅実性において群を抜。「無原則な生き方」で手に入れる、短期集中型の一過的な悦楽も悪くはないが、本物のSS者が一番強く、しなやかで、クレバーな生き方の選択ではないだろうか。
 
「良心」とは、或いは、内に向かった攻撃性である。そ攻撃性を実感し、自己了解することで、人は「良心」という甘美な蜜の味に一時(いっとき)酔い痴れる。自虐することで得られる快楽に際限はない。イエス然り、聖フランチェスコ然り、トルストイ然り、ガンジー然り、「私小説の極北」・嘉村磯多(かむらいそた)然りである。際限のない自虐の展開は、大抵、周囲の人間を巻き込んでいく。「良心」の呵責に苦しむ自己を他者に認知してもらいたいのだ。人は自分を不断に告発し、断罪し、苛め抜くことによって、「ここまで責めたから赦しを与えよう」という浄化の観念に束の間、潜り込んでいく。それを私たちは「良心」と呼んでいるが、そこに、「自虐のナルシズム」という感情ラインが重厚に絡んでいる心理的文脈を誰が否定できようか。
 
他人から見えないところに出口を確保したあと、人は己を巧妙に責め立てていく。抑制的で、計算された攻撃性に快楽が随伴するとき、それを「良心」と呼ぶことに私は躊躇(ちゅうちょ)しない。何のことはない。「自己嫌悪」とは裏返された自己陶酔なのである。
 
「やってはならないこと」と「やって欲しくないこと」を峻別(しゅんべつ)できない者に、相応の権力を与えてしまうこと。そこから人間の悲劇の多くが生まれる。
 
自分のことを少しでも知る者から見透かされることの恐怖感 ―― それが虚栄心の本質である。
 
私たちは程ほどに愚かであるか、殆ど、丸ごと愚かであるか、そして稀に、その愚かさが僅かなために目立たない程度に愚かであるか、大抵、この三つのうちのいずれかに誰もが収まってしまうのではないか。
 
役割が人間を規定することを否定しないということは、人間は役割によって決定されるという命題を肯定することと同義ではない。そこに人間の、人間としての自由の幅がある。この自由の幅が人間をサイボーグにさせないのである。
 
人間は、役割によって全てが決定されてしまうに足る、完全無欠な能力性など全く持ち合わせていない。人間は、人間を支配し切る能力を持ってしまうほど完全な存在ではないということだ。いつもどこかで、人間は人間を支配し切れずに、怠惰を晒す。これは、人間の支配欲や征服感情の際限のなさとも矛盾しない。どれほど人間を支配しようとも、支配し切れぬもどかしさが生き残されて、余裕なき躁急(そうきゅう)の感情の起伏が露わになるばかりと化す。支配の戦線から離脱してしまう不徹底さを克服し得るほど、私たちの自我は堅固ではない。人間の自我の能力など、高々、そのレベルなのだ。私たちは相手の心までをも征服し切れないからである。ここに、人間の自由の幅が生まれる。この幅が人間を生かし、ばせるのだ。支配の戦線から離脱し得る相対性を生かし、自由の幅で遊ぶ余裕がある者が、重大な危機の頂点を極めた「人生の達人」かも知れない。
 
日常性の裂け目の中からぬくもり(安らぎ)が作られる。「ぬくもり継続感」を、私たちは「幸福」と呼ぶ。この継続感は、適量の心地良さで収めておかないと痛い目に遭う。少な過ぎるぬくもりより、過剰なぬくもりの方が、性質(たち)が悪いのだ。ぬくもりで保護され過ぎた人生には、ぬくもりの意識すら生まれない。「幸福」の実感も殆ど曖昧になってしまうに違いない。「想像の快楽」=「プロセスの快楽」で遊ぶ余地が少ない、幸福感度の希薄さ。人間的なものから遠ざかっていく怖さ、そこにある。
 
所得の上昇は、必ずしもウェルビーイング(良好な状態)の上昇もたらさない。「ぬくもりの継続感」が確保されていなければ、「幸福」実感を手に入れられないだろう。これを、「幸福」のパラドックスと言う。未知なるフラッシュクラッシュ(瞬時の急落)を怖れる人間にとって、偏(ひとえ)に、ウェルビーイングの変異の落差を繰り返すことなく「ぬくもりの継続感」安定的に自給できれば、それ以上の至福はない。
 
タブーを越えても、吐き出したいだけのモチーフが崩れれば、大抵、予定調和の世界に入っていく。情愛をベースに結ばれた関係とはそういうものだ。
 
母の甘えと子供の甘えが程好(ほどよ)く混淆(こんこう)されていて、何某(なにがし)かの衝突を収拾するであろう、和解向かう関係の経験的なスキルの存在が、適度に混淆された甘えを存分に生かしきっている。衝突は必ず、和解という予定調和に流れ込まねばならない。だから、衝突にも技術論が必要である。衝突の技術は、和解の不自然さを解消するのだ。母と子の、殆ど日常的な諍(いさか)いのゲームもまた、経験的な技術の勝利であった。
 
普通の教育を受けた大人の自我に、少なからず、「あの素晴らしかった子供の世界に戻りたい」という願望が伏在するのは、第一に、自我の一貫性を保持したいという志向性であり、第二に、大人社会のストレス処理のためだろう。その意味で私たちの「退行」は、大抵、「部分退行」であり、「方法的退行」である。いつでも、日常性に還ってくる確かな航路が確保されていることによって、私たちは非日常的な「退行」を許容するのだ。
 
「妬まず、恥じず、過剰に走らず」 ―― これを私は「分相応の人生命題」と命名し、肝に銘じているが、実際の所、「過剰の抑制」が一番難しい。大脳辺縁系扁桃核から前頭葉に走る「A10(エーテン)神経」=「快楽神経」は、多量のドーパミンを分泌しているが、肝心の前頭葉に「オートレセプター」という抑制系がないと言われるので、フィードバッグ機能が充分に作動せず、いつでも、ドーパミンが過剰に分泌されてしまうのか。それ故に、自己実現のプロセスの中で、どうしても「過剰の抑制」が成就しないのだろう
 
「分相応の人生命題」の日常的検証は、いつも少しずつ、チクセントミハイが言う「フロー体験」(最適経験)の中枢からずれていって、脆弱な自我だけが置き去りにされてしまうのだ。それでもなお、自前の哲学に継続性を持たせたいと括る意識だけは安楽死していないようだから、せいぜい、内側の中枢で「覚悟の一撃」を再生産していくことである。
 
プレッシャーとは、「絶対に失敗してはならない」という意識と、「もしかしたら失敗するかも知れない」という、二つの矛盾した意識が同居するような心理状態である。そのため、固有の身体が記憶した高度な技術が、ゲームの中で心地良き流れを作り出せない不自然さを露呈してしまうのだ。この二つの矛盾した意識が自我の統括能力を衰弱させ、均衡を失った命令系統の混乱が、恐らく、神経伝達を無秩序にさせることで、身体が習得したスキルを澱(よど)みなく表出させる機能を阻害してしまうのではないか。
 
「健康」・「老化」・「生活の質の低下」・「孤独」―― この四つのキーワードは、近代社会に呼吸を繋ぐ者の恐怖感と言っていい。この恐怖が老境期に集中的に襲ってくるのだ。貴方はそれに耐えられるか。老境期こそ、「防衛体力」と「行動体力」の相対的強化が切に求められる、人生最大の正念場である。老境期は「生きがい」よりも、「居がい」の方が決定的に重要であるとも言われる。老境期に人生の頂点をもっていけるかどうか、そこに全てがかかっている。エリック・エリクソンの妻・ジョウンが、8段階に分けた夫のライフサイクルの9段階目に、主観的満足感に浸ることが可能な「老年的超越」の獲得を設定したのは、よく知られている。「老年的超越」の獲得こそ、人生最大の正念場・「老境期」の最高到達点であると思いたい。
 
日常性は、ほんの少し更新されていくことで、自在に変形を遂げていく。それが日常性の基盤に組み込まれて、新しい秩序を紡ぎ出す。そこからまた新しい出口を見つけ出して、人々は漫(そぞ)ろ歩いて止まなくなるのである。
 
私たちの内側では、常にイメージだけが勝手に動き回っている。しかし、事態は全く変わっていない。事態に向うイメージの差異によって、不安の測定値が揺れ動くのだ。イメージを変えるのは、事態から受け取る選択的情報の重量感の落差にある。不安であればあるほど情報の信憑性が低下するから、情報もまた、イメージの束の中に収斂されてしまうのである。
 
「恥じらいながら偽善に酔う」 ―― このスタンスを崩さないことだ。束の間酔って、暫(しばら)く恥じらい、そしてまた、昨日もまたそうであったような日常を、自らの律動で動いていくことである。酩酊を一定の流れの中で遊ばせて、その流れの中で清算し、その一部を明日の熱量に繋いでいけば、殆ど自己完結的ではないか。人は酔うときも、その酔いに見合っただけの「自己管理」が必要なである。
 
河を渡ったことがない者に、河の向うの快楽は手に入らない。河を渡ったことのない者に、そこで得た快楽の代償の不幸にも捕捉されない。快楽を手に入れたいが、不幸には捕捉されたくない。そんな虫のいい者は永久に河を渡れない。せいぜい、河の向うの快楽を想像して愉悦するだけだ。河を渡れない者にとって、「想像の快楽」こそ、最強の快楽なのだから。その決断も、時として、誇り得る勇気であるに違いない。
 
覚悟なしに河を渡るものがあまりに多い。当然、報いを受ける。大抵、本人は、その報いを自分の内側の深い所で受け止めない。だから多くの場合、人のせいにする。人のせいにするから、いつだって、貧困なる人生のリピーターになるのだ。
 
見てしまわない限り、そこには何もない。大抵の不幸は、見てしまった後からやって来る。初めのうちは輝きの微笑を放っていたものが、やがて色褪せ、遂には煉獄(れんごく)の淵に立ち竦(すく)む。立ち竦んだとき、人生の何が見えたか、何が見えなかったか、あまりに多様である。それでも湿度の高い時間を濃縮したような、決定的な人生のゲートがそこから開かれるなら、貴方は決して高い買い物をしなかった。見てしまった限り、貴方はそこを突き抜けていくしかない。見てしまった限り、貴方はもう戻れない。見てしまうことに、如何に覚悟が必要だったか。大抵の人がそのことを知るのは、いつも見てしまった後なのだ。
 
仮想敵を持たない青春が最も憐れである。その暴走を喰い止めてくれる壁もない。微温ゾーンをゲームが駆けていく。骨格の脆弱な他愛ないゲームと化した青春が、其処彼処(そこかしこ)に舞い踊る。仮想敵にならねばならない何ものかが、ゲームを煽動するのだ。かくして、言語の切っ先が苛烈(かれつ)に先導した一切の青春論は息絶えた。人生論も息絶えた。そこに、過剰なまでに「察し」を乞う、ネオテニー幼形成熟/幼生の特徴を残したまま性的に成熟し、繁殖する)の如き、予定調和的な依存型のゲームだけが生き残された。
 
青春の尖(とが)りには二種類ある。一つは、「自己主張」であるが故の尖り(「自己顕示」)であり、もう一つは、「自己防衛」としての尖りである。前者の尖りは青春そのものの尖りであり、まだ固まっていない漂泊(ひょうはく)する青春が、その内側に蓄えてきた熱量が噴き上がっていくときの、「怒りのナルシズム」である。それは青春が初めて、その怒りを身体化させていくに足る適正サイズの敵と出会って、その前線で展開されるゲーム感覚の銃撃戦を消費する快楽である。従ってそれは、そこで分娩された快楽を存分に味わっていく過程で、自我を固有な形に彫像していく運動に収斂されていくので、その運動が極端に規範を逸脱しない限り、一種の通過儀礼としての一定の社会的認知を享受すると言っていい。青春を鍛えるには、それが鍛えられるに相応しい敵対物が求められるからである。多くの場合、敵対物の存在しない青春ほど、哀れを極めるものはないのだ。漂泊する青春を過剰に把握し、その浮薄なる「既得権」を必要以上に守る社会が一番劣悪なのである。
 
守るべき者がその身に負った過大な重量感が、そんな青春をしばしば苛酷にする。そこには、ゲームが支配するガス抜きのルールが存在せず、青春の尖りは険阻(けんそ)な表情を崩せないでいるに違いない。それ以上追い詰めてしまうと、青春という液状の自我が、社会のどのような隙間からも、一気に流れ去ってしまいかねないような充分な危うさを抱え込んでいる。従って、その自我が必死に防衛しようとするものに、許容値を越えた劇薬が含まれていない限り、社会はその尖りに、むしろ同情的であっていい。潮目の辺りで、我が身を乗せる流れにしがみつく青春にこそ、救命ボートの一艘(いっそう)くらいは差し向けられてもいいのだ。しかし、そんな青春に限って、我が身を守るはずの攻撃的な棘(とげ)によって、しばしば、痛々しいまでに自傷してしまうのである。青春の自己運動の難しさが、そこにある。
 
偏見とは、特定なものへの過剰なる価値付与である。価値の比重が増幅される分、公平な観念が自壊している。想像力の均衡が自壊している。その分、教養のレベルも自壊しているだろう。
 
自分が嫌う相手を自分と一緒に嫌い、自分と一緒に襲ってくれる者を人は「仲間」と呼び、「味方」とも呼び、しばしば、「同志」と呼びさえもする。この「仲間」たちと共有する一体感は、感情が上気している分だけ格別である。社会心理学で言う所の、構成員を引き付けるパワー=「集団凝集性」の異様な高揚の中で、リスキーシフト(集団の中では言動が極端になりやすいこと)が其処彼処(そこかしこ)で顕在化し、もうそれは、極上の快楽以外の何ものでもないのだ。
 
「確信は嘘より危険な真理の敵である」 ―― これは、「人間的なあまりに人間的な」の中のニーチェの言葉である。「確信は絶対的な真実を所有しているという信仰である」ともニーチェは書いているが、それが信仰であるが故に、確信という幻想が快楽になるのだ。例えば、人がその心の中で大きなストレスを抱えていたとする。そのストレスは自分にのみ内在すると確信できるものなら、基本的に自分の力でそれを処理していく必要が出てくる。ところが、そのストレスが自分にのみ内在するものではなく、自分を取り巻く環境に棲(す)む者たちに共通するものがあると感じ、且つ、そのストレスを惹起させる因子が外部環境に大いに求められると感じたとき、人はそこに、しばしば、他者との「負の共同体」と呼べる意識の幻想空間を作り出す。そのとき、自分の中の特定的イメージがその幻想空間に流れ込んで、それらのイメージが一見、整合性を持った文脈に組織化されることで、そこに集合した意識のうちに「確信幻想」が胚胎されてしまうのである。
 


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