マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙(‘11) フィリダ・ロイド<「正しいと信じ切る能力の強さ」を具現化していった代償としての、支払ったものの大きさ>

イメージ 11  「差別の前線」での「たった一人の闘争」を必至にする、「鉄の女」の誕生秘話



多様な経験の累加によって、自らの感情・行動傾向が継続力を持つ、構造化された安定的な認知に関わる確信幻想 ―― これを、私は「信念」と呼ぶ。

一切が幻想であると考える私にとって、「信念」を持つことは、主体の自我を安寧に導く格好の観念系であると同時に、情緒の堅固な砦でもある。

だから、この確信幻想は、人格主体の自我の安寧を揺るぎないものにする。

揺るぎない自我の安寧を安定的に確保した人間は、ローリスクで人格主体を武装できるから、ある意味で、最も強靭な人生を仮構できるだろう。

本作は、生まれ育った教育をコアとする多様な経験を経由してきて、稀に見る、揺るぎない「信念」を構築してきた一人の女性の晩年を通し、一貫して向上心を捨てない女性の、自らの情感系の中で濾過されてきた、ごく普通のサイズと信じる軌跡が、その女性を囲繞する、「特権意識の色濃い、男性中心の俯瞰的視線」からの「差別の前線」との「闘争」を必然化し、それを克服していく物語である。

常に、事態を直視する。

シニシズムには決して堕さない。

然るに、「正しいと信じ切る能力の強さ」は、多くの場合、周囲との摩擦を生んでいく。

摩擦の対象者は、彼女が属する党内の中で現出してしまうので、彼女は、より孤立を深めていく。

それでも、「正しいと信じ切る能力の強さ」は一貫して変わらない。

まして、彼女が女性であり、下層階級の出身者であることに対する、周囲からの卑俗な視線に囲まれる中で、彼女は、身内との「たった一人の闘争」から逃避することなく、「差別の前線」を突破する。

この突破力の凄みは、現実の戦争の中で顕在化された。

1982年に勃発したフォークランド紛争である。
 
当時、アルゼンチンの軍事政権が侵攻した英領フォークランド諸島を、国家の威信に賭けて、既に、首相にまで上り詰めていた彼女は言い放つ。

「アルゼンチンの軍事政権はファシストの集団です。私は犯罪者やゴロツキとの交渉に応じません」

更に、アメリカの国務長官が、外交交渉で解決すべきという提案を献上した際の会話は興味深い。

「信念を貫くがどうかが問われているのです」と女性首相。
「失礼ながら、私は戦争を経験しています」と国務長官
「失礼ながら、長官。これまでの私も、闘いの日々でした。男に見くびられながらね」

「正しいと信じ切る能力の強さ」が端的に窺える、凛とした物言いである。

そして極めつけは、「小田原評定」のように、軍事作戦の会議を長々と続ける高官たちの前で、女性首相が放った一言こそ、一貫して折れない女の強靭な精神を表現するものだった。

「沈めて」

敵艦を沈めよという、この一言で全てが動き、軍事紛争の解決を必至にしたというシークエンスだった。

イギリス艦船の撃沈という緒戦の不利な状況を、長距離爆撃機による空爆などで戦況を逆転させ、開戦3ヶ月後には地上部隊を上陸させ、アルゼンチン軍の降伏により、サウスジョージア侵攻(英領への侵攻)に端を発した、フォークランド紛争終結した。

この紛争の派手な展開と、その圧倒的勝利によって、英国民のナショナリズムは湧き立ち、就任3年目の英国初の女性首相の人気は、長期政権を約束するほどの影響力を持つに至った。

言うまでもなく、英国初の女性首相の名はマーガレット・サッチャー
 
強烈な「信念」に支えられた保守党の女性党首で、その意志堅固な性格から、ソ連国防省機関紙で、「鉄の女」という、殆ど的確とも言える嘲罵(ちょうば)を浴びせられた、良かれ悪しかれ、一代の剛腕政治家である。

「私は20代で、サッチャーに対して否定的な見方をしていました。彼女はとても厳しい政策をとり、労働者に対して無情でした。私は演劇界にいましたが、彼女はアートや芸術に対する理解がありませんでした。(略)私の政治的な見解は変わっていませんが、作品を撮るにあたり、彼女の様々な面を知り、とても感動し、多くの刺激を受けました。(略)マーガレット・サッチャーは、女性であり、かつ下級階層出身であることから非常に苦労しました。地方に敵がいたことは知っていましたが、党内にまでも敵がいて、孤立していたことは知りませんでした。そんな中、強い信念を持ち、自分の直感を信じて行動する姿にとても刺激を受けました。皮肉っぽさが彼女にはありませんが、その点も好感が持てました」(MODE PRESS 2012年3月15日)

このフィリダ・ロイド監督の言葉にあるように、本作は、「サッチャリズム」という言葉にシンボライズされた政治批判をテーマにした映画ではなく、「これまでの私も、闘いの日々でした」と、米国の国務長官に反論したように、党内にまでも敵がいる状況下で、持ち前の堅固な「信念」によって、幾多の困難を突破してきた女性政治家の人生の断片を、敢えて切り取って特化した限定的な人物伝と言っていい。

一貫して「正しいと信じ切る能力の強さ」によって生き抜いてきた、マーガレット・サッチャーの揺るぎない人生が、いつしか、「鉄の女」という、自らも気に入った本身の武装を解くことなく、ストレスフルな政治環境の中で、「たった一人の闘争」を必至にしていく。

「たった一人の闘争」を必至にする「鉄の女」の誕生は、既に、食糧雑貨商の家に生まれながら、奨学金を利用して、オックスフォード大学に入学した経緯を貫流した、「自助努力」の精神の発現の中で検証されていた。

そんな「信念居士」のような女性に惹かれた若者が、彼女にプロポーズするシーンがあった。
 
愛する男からプロポーズを受け、頬を紅潮させながらも、言うべき言葉だけは凛として結ぶのだ。

「大切なのは、自分の人生をどう生きるか。料理とか掃除、子育てなんかより、大切なのは生き方よ。お茶碗を洗うだけの人生なんて」
「そういう君と結婚したいんだ」

これが、愛する男・デニス・サッチャーとのプロポーズの遣り取りの全てだった。

のプロポーズの遣り取りと前後して、落選を経た後、任期5年の下院議員(庶民院)となったマーガレット・サッチャーは、国会議事堂への通路で列を成す男たちの臭気で蒸れる、男性天国と化した、騒々しいバックベンチャーの世界に踏み入れていくが、本作は、一人の女性政治家の波乱に充ちた軌跡をフォローする映画ではないので、「鉄の女」を彷彿とさせるエピソードの挿入は、どこまでも、「失見当識」(自らが置かれている状況が正確に認識できなくなること)が目立って顕在化していない認知症初期症状に捕捉された、高齢の元女性首相の回想の断片に留まっている。

物語の構成力の是非の問題において、本作への評価が明瞭に分れるだろうが、ここでは、フィリダ・ロイド監督の抱懐するテーマに即して、人生論的な視座で批評したいので、私としては受容するその辺りの難しい評価はスルーしていく。



2  「正しいと信じ切る能力の強さ」を具現化していった代償として、支払ったものの大きさ



大切なのは、生き方よ」と言い放つ彼女のルーツは、以下の言葉に集約されるだろう。

「“考え”が“言葉”になる。その“言葉”が“行動”になる。その“行動”が、やがて“習慣”になる。“習慣”が、その人の“人格”となり、その“人格”が、その人の“運命”となる。“考え”が、人間を作るのよ。私の父の言葉。言っとくけど、私は健康よ」

認知症の検査を受けているときの、マーガレット・サッチャー言葉である
 
「考え」⇒「言葉」⇒「行動」⇒「習慣」⇒「人格」⇒「運命」という、父の言葉を内化していく結晶こそ、「鉄の女」を作り出す「信念」の核心にあった

観念系であると同時に、情緒の堅固な砦でもある「信念」を持つことと、「正しいと信じ切る能力の強さ」が同義になって溶融したとき、「鉄の女」と呼称される「たった一人の闘争」を必至にしたのである。

しかし、「たった一人の闘争」の激甚さがそうさせたのか、今、認知症を患う高齢の元女性首相は、認知症の初期症状の深い懊悩の中で、「正しいと信じ切る能力の強さ」を具現化していった代償として支払ったものの大きさが、バックラッシュのように襲いかかってきて、疾病の中の揺動が生みだした葛藤と対峙するに至った。

「鉄の女」は、無論、完全無欠な「スーパーウーマン」などではない。

この世に完全無欠な人間が存在しない以上、「スーパーウーマン」など存在しようがないのだ。

「鉄の女」は、無論、感情を持たない人間などでない。

感情によって流される行為の非生産性を経験的に身につけている知性が、常に、「鉄の女」を内側から強力に武装しているのだ。

しかし、どれほど堅固に武装しようとも、洩れ出てきてしまう感情がある。

観念系であると同時に、情緒の堅固な砦でもある「信念」の裏側で、恐らくそこだけは意思の介在があって、それでもなお、突き抜けないと渡り切れない「老朽化した橋梁」を越えてきた行程を相対化したにも拘らず、「たった一人の闘争」の「前線」から解放された今、そこで封印していた感情が洩れ出てきてしまったのである。
 
家族を犠牲にしたという悔いの念が、「鉄の女」の人生を終焉させた辺りから噴き上がってきてしまったのだ。
 
 
(人生論的映画評論・続/マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙(‘11) フィリダ・ロイド<「正しいと信じ切る能力の強さ」を具現化していった代償としての、支払ったものの大きさ>)より抜粋 http://zilgz.blogspot.jp/2013/03/11_21.html