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世界恐慌直前の、1920年代のロサンゼルス。
ローリング・トゥエンティーズ(狂騒の20年代)とも称され、ヘミングウェイやフィッツジェラルドに代表されるロストジェネレーション(失われた世代)や、幾何学的様式の美術で有名なアール・デコというような個性的な文化を作り出した特有の時代は、人類史上未曾有の犠牲者を出した第一次世界大戦によるペシミズムからの復元力を身体表現するエネルギーを噴き上げた、文字通り、世俗の次元で澎湃(ほうはい)した狂騒の時代であった。
そんな時代の終末期に出来した、禍々(まがまが)しい事件があった。
今なお謎に包まれているが、一説では20人もの少年が犠牲になったとされ、世に、「ゴードン・ノースコット事件」(ワインヴィル養鶏場連続殺人事件)と呼ばれる連続少年誘拐殺人事件がそれである。
一人の女性がいる。
その名は、クリスティン・コリンズ。LAの電話会社で、電話交換のオペレーター管理に従事する闊達(かったつ)な女性。
その彼女が、一人息子のウォルターを、学校に迎えに行った帰りの会話。
「ビリーと喧嘩した」
「なぜ?」
「ぶたれたの」
「ぶち返した?」
頷(うなず)く息子に、母は「偉いわ。“喧嘩を売るな。最後にケリをつけろ”なぜ、ぶったの?」と聞いた。
「僕がぶったから」
「あなたが先に?なぜ?」
「パパは僕が嫌いで、出て行ったって」
「パパに会っていないのよ。嫌われる訳ないわ」
「じゃ、なぜ出て行ったの?」
「なぜなら、あなたが生まれた日、“ある物”が届いたの。小さな箱よ。中身は何だと思う?“責任”というものよ。世の中には、何よりも“責任”を恐れる人たちがいるの」
「じゃ、パパは箱の中身が怖くて逃げ出したの?バカみたい」
「私もそう思うわ」
ここに、この映画のエッセンスがある。
この会話は、単に140分もの長尺の映像の伏線になっているだけではなく、映像の根柢を貫流する極めて重要な導入になっているのである。
即ちそれは、“責任”を恐れて逃げ出した父親に代わって、“責任”という名の「父性」を内化した一人の女の堅固な自我が、その本来の包容力に溢れた「母性」を起動力にして、自分に襲いかかる困難な事態に毅然と対峙し、それを引き受け、状況突破を図る物語を支え切る基幹ラインの導入として、何気ないが、しかし決定的に重要な描写であったということだ。
困難な事態にインボルブされた人間が、その事態に様々に対峙し、それを「私の状況」に変えていく曲折的な航跡のさまを、深々と印象的に映像化してきた感のあるイーストウッドは、ここでも、「父性」を内化した一人の女の「無限抱擁」的な「母性」の振れ方を丁寧に、且つ、過不足なく描き出してしまったように見えるが、その分析は後述していく。但し、些か辛辣な批評をも加えている。
ともあれ、本作は冒頭で言及した事件の犠牲者になった息子のウォルター少年を、“責任” という名において、その母が救出に向かう艱難(かんなん)な継続力を結ぶ映像として描出され、そこに心理サスペンスの要素を多分に包含しながら、最後まで観る者を飽きさせない物語を構築した一篇になっていたのは事実である。
「ビリーと喧嘩した」
「なぜ?」
「ぶたれたの」
「ぶち返した?」
頷(うなず)く息子に、母は「偉いわ。“喧嘩を売るな。最後にケリをつけろ”なぜ、ぶったの?」と聞いた。
「僕がぶったから」
「あなたが先に?なぜ?」
「パパは僕が嫌いで、出て行ったって」
「パパに会っていないのよ。嫌われる訳ないわ」
「じゃ、なぜ出て行ったの?」
「なぜなら、あなたが生まれた日、“ある物”が届いたの。小さな箱よ。中身は何だと思う?“責任”というものよ。世の中には、何よりも“責任”を恐れる人たちがいるの」
「じゃ、パパは箱の中身が怖くて逃げ出したの?バカみたい」
「私もそう思うわ」
ここに、この映画のエッセンスがある。
この会話は、単に140分もの長尺の映像の伏線になっているだけではなく、映像の根柢を貫流する極めて重要な導入になっているのである。
即ちそれは、“責任”を恐れて逃げ出した父親に代わって、“責任”という名の「父性」を内化した一人の女の堅固な自我が、その本来の包容力に溢れた「母性」を起動力にして、自分に襲いかかる困難な事態に毅然と対峙し、それを引き受け、状況突破を図る物語を支え切る基幹ラインの導入として、何気ないが、しかし決定的に重要な描写であったということだ。
困難な事態にインボルブされた人間が、その事態に様々に対峙し、それを「私の状況」に変えていく曲折的な航跡のさまを、深々と印象的に映像化してきた感のあるイーストウッドは、ここでも、「父性」を内化した一人の女の「無限抱擁」的な「母性」の振れ方を丁寧に、且つ、過不足なく描き出してしまったように見えるが、その分析は後述していく。但し、些か辛辣な批評をも加えている。
ともあれ、本作は冒頭で言及した事件の犠牲者になった息子のウォルター少年を、“責任” という名において、その母が救出に向かう艱難(かんなん)な継続力を結ぶ映像として描出され、そこに心理サスペンスの要素を多分に包含しながら、最後まで観る者を飽きさせない物語を構築した一篇になっていたのは事実である。
(人生論的映画評論/チェンジリング('08) クリント・イーストウッド <母性を補完する“責任”という名の突破力>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/09/08.html