コード・アンノウン(‘00)  ミヒャエル・ハネケ <パリの街の見えにくい排他的な陰翳感を吹き払う、見事に調和された太鼓の律動感>

イメージ 11  「知っていることと、理解することは別物だ」 ―― 困難な「知的過程」を開く作業の大切さ



全てが完成形のハネケ監督の秀作群の中で、「タイム・オブ・ザ・ウルフ」(2003年製作)、「愛、アムール」(2012年製作)と並んで、私に深い余情を残すに至ったこの映画の感動は、間違いなく、外国映画生涯ベストテン級の名画である。
 
これほどの名画が、主にDVDでしか鑑賞できない現実に、正直、驚きを隠せない。
 
いつも書いていることだが、私にとって考えさせる映画は、押し並べて「良い映画」である。
 
考えさせる映画は心に残る。
 
心に残るから、もう一度観たいと思う。
 
そのような映画が最も好ましい。
 
最近、観た映画で言えば、何と言っても、ポール・トーマス・アンダーソン監督の「ザ・マスター」(2012年製作)に尽きる。
 
観ていて、これほど考えさせてくれる映画もなかった。
 
その構築的な映像の凄みに身震いするほどだった。
 
殆どアンチ・ハリウッドのような、このような映画を作ってしまうところに、正直、アメリカ映画の底力を認知せざるを得ない。
 
そのアメリカ映画を最も嫌う、ミヒャエル・ハネケ監督の一連の作品には、観る者を挑発することで、考えることを例外なく迫ってくる。
 
だからいつも、へとへとになる。
 
「3部作のテーマはお望みなら、コミュニケーションの不可能性と言ってもいい。そのことは私自身、心の最も深い部分に抱いている想念で、私の映画は常に、その問題に迫ろうとしている。人は会話する。だが伝わらない。(笑)関係が近いと、更に悪い。近くなるほど話さない」(『71フラグメンツ』ミヒャエル・ハネケ セルジュ・トゥビアナ対談)
 
これは、「71フラグメンツ」ついてのインタビューでの、ハネケ監督の言葉。
 
「コミュニケーションの不可能性」
 
ハネケ監督は、そう明瞭に言い切った。
 
「関係が近いと、更に悪い」という物言いには、必ずしも同調しないが、「肉親関係」には大いにあり得ること。
 
少なくとも、本作では、「近くなるほど話さない」という関係における、「コミュニケーションの不可能性」について、存分なまでに描かれていた。
 
「71フラグメンツ」から、その11年後に製作された、「隠された記憶」(2005年製作)の両方の要素が含まれていると思える、この映画が観る者に突き付けたのは、3部作の延長としての「コミュニケーションの不在」(「不可能性」というよりも)であり、「人間が分り合うことの困難さ」であると言えるだろうか。
 
「“現実は断片だ”という考えが、映画の構造にある。断片でなければ、現実は理解できない。断片からでなければ、現実は理解できない。(略)誠実に物語れるのは、断片においてだけだ。小さな断片を示し、その断片の総和が、観客に向かっていささかの可能性を開く。個人の体験に基づいて考える可能性を。つまり、観客を挑発するのだ。感情や思考の機械を回転させる。始動させるのだ。(略)映画を作るときは、常に観客の反応を意識すべきだ。私は誰もがよく知っている断片を描きたい。知っていることと、理解することは別物だ」(同上)
 
これもハネケ監督の言葉。
 
「知っていることと、理解することは別物だ」という含意を正確に読み取ることができる者は、困難な「知的過程」を開くであろう。
 
ハネケ監督は、自らが構築した映像の提示を通して、「知的過程」を開くことで、観る者との「問題意識」の共有を求めているように思われるが、そこには、「啓蒙意識」のような俯瞰的な視線がなく、まして主張を押しつけることがないから、決して「分った者」の如き説教の欠片すら拾えない。
 
ともあれ、本作でもまた、「小さな断片を示し、その断片の総和が、観客に向かっていささかの可能性を開く」という、ハネケ監督の拠って立つ強靭な問題意識のもとに、現代の欧州社会が抱えている、移民や人種差別などの深刻な問題も射程に入れているが、そればかりではない。
 
「近くなるほど話さない」と言うように、心が最も最近接しているはずの関係の、「人間が分り合うことの困難さ」をも重要な射程に入れていて、それが、ラストシークエンスの炸裂となって噴き上げていくのだ。
 
圧巻だった。
 
この作品においても、BGM効果によって観客にカタルシスを与え、浄化させてしまうことで自己完結させる手法を取らなかったが、いつものように、音楽を物語内に効果的に挿入させていく手法は、充分に冴えわたっていた。
 
恐らく、日本の観客には見向きもされないテーマを敢えて取り上げ、完璧なフォーマットを構築していくハネケ映画の凄みが、この作品にも溢れていた。
 
「自分を完全な職人だと思う。“自分の仕事をする者”だ」(同上)
 
このハネケ監督の言葉に深々と共鳴し、尊敬の念すら抱いて止まないほどである。
 
 
 
 2  特段に交叉することなくパラレルに開かれていく群像劇
 
 
 
 
冒頭のシーンは、多くの仲間の前で、ジェスチャーをしている一人の聾唖の子供の構図だった。
 
「一人ぼっち」、「隠れ家」、「ギャング」、「心のやましさ」、「悲しみ」、「刑務所?」。
 
手話で答える子供たち。
 
しかし、どれも正解を言い当てることはできなかった。
 
手話は身振り(ジェスチャー)と似ているが、基本的に違うものである。
 
手話に馴致した聾唖の子供にとって、その手話で、ジェスチャーの答えを言い当てることは困難であるに違いない。
 
重要なのは、このファーストシーンが、ラストカットとの明瞭な相違のうちに判然とされるというコンテキストである。
 
しかし、ファーストシーンの構図が、明らかに、本作のテーマ性に即した映像提示であることだけは疑う余地がない。
 
その直後に、「いくつかの旅の未完の物語」と題されたサブタイトルが提示される。
 
一人の女性の日常性を中枢に据えた基本・群像劇が、ここから開かれていくのである。
 
その一人の女性の名はアンヌ。
 
多忙を極める女優である。
 
パリに住むアンヌの元に、報道写真家で、コソボに取材中の恋人・ジョルジュの弟ジャンが泊めて欲しいとやって来た。
 
畜産農家を継げ」と言う父との確執で、家出して来たと言うのだ。
 
「私じゃ解決できないわね」
 
そう言って、アパートの暗証番号を教え、部屋の鍵を渡して、体良く始末をつけるアンヌ。
 
一貫して長回しの映像は、アンヌと別れた後の、ジャンの苛立つ歩行を追い駆けていく。
 
不満たらたらのジャンがアンヌからもらったパンの包み紙を、路傍に座っている物乞いの女に投げつけたことから、些細な事件が起こった。
 
ジャンの行為を視認した一人の黒人青年が、ジャンに駆け寄って注意を促す。
 
相手の指摘を無視したジャンに、黒人青年が詰め寄った。
 
イカれてる」とジャン。
「あそこにいた女の人に謝るんだ」
 
なお詰め寄って、そのまま無視して歩いていくジャンの前に立ちはだかり、執拗に謝罪を求める黒人青年。
 
「うるせいな」
 
口汚く言い放って、通り過ぎようとするジャンの体を掴んで、女性のもとに、黒人青年は力づくで連れて行く。
 
「何様のつもりだ、放せ!」
 
取っ組み合いの喧嘩をする二人。
 
そこに、アンヌが戻って来て制止するが、黒人青年も感情的になっている。
 
「口を出すな。関係ないだろ。奴のしたことを?」
 
そこに、二人の警官がやって来た。
 
「物乞いの女性を侮辱したんだ」
 
そう説明する黒人青年だが、偏見視されながら、身分証明書の提出を一方的に求められるばかりで、反撥した挙句、警官と揉み合いになって、署に連れて行かれるに至った。
 
ここで場面は暗転するが、物乞いの女性が、ルーマニアからの不法移民であったことが分明になり、国に強制送還されるという顛末だった。
 
黒人青年の名はアマドゥ。
 
マリからの移民二世である。
 
ルーマニアからの不法移民である、物乞いの女性の名はマリア。
 
アンヌを中枢に据え、ここに関与した複数の登場人物たちの群像劇が、特段に交叉することなくパラレルに開かれていく。
 
まもなく、ジョルジュがコソボの取材から帰宅して来て、レストランで仲間との懇談会を設けるが、友人の女性に批判される憂き目に遭う。
 
「戦争の悲惨さを訴えるため、廃墟や死体を撮り、飢餓のために植えた子供も?思い上がりよ。体験が感じられない写真よ」
 
ここまで言われたジョルジュは、「確かに」と答えるばかり。
 
ジョルジュは、まもなく、隠し撮りの挙に及ぶ。
 
地下鉄で向い合った乗客のポートレートを撮り捲るのだ。
 
モノクロのポートレートによって写し出された画像のリアリティもまた、不特定他者との内的交叉のない「作品」でしかなかった。
 
不特定他者との内的交叉を極力、回避するかのようなジョルジュの距離感こそが、彼の個人主義の拠り所なのだろうと思わせる。
 
不特定他者との内的交叉ばかりではない。
 
物理的に最も最近接してきたはずの関係においても、大して変わりなかった。
 
そのことが端的に表れたのが、彼の肉親との関係。
 
畜産農家を営む父の苦労に対して、まるで他人事なのだ。
 
結局、ジョルジュの父は、端(はな)から長男に期待することなく、次男のジャンに跡継ぎの負荷をかけていく。
 
その負荷を軽減しようと購入したバイクも、ジャンの再度の家出によって、懐柔策としての効力をも持ち得ず、遂にジョルジュの父は、手塩にかけて育てた牛を屠殺してしまうのだ。
 
「もう、5時に起きなくて済む」
 
ジョルジュの父の、この言葉の重さをも、他人事のように聞くだけの「戦場カメラマン」が、故郷の家で漫然と過ごしていた。
 
前述したように、「関係が近いと、更に悪い」と言うハネケ監督の指摘は、まさに、「肉親関係」において露呈されるに至ったのである。
 
では、そんなジョルジュと同棲するアンナの関係風景はどうだったのか。
 
以下、稿を変えて言及していきたい。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/コード・アンノウン(‘00)  ミヒャエル・ハネケ <パリの街の見えにくい排他的な陰翳感を吹き払う、見事に調和された太鼓の律動感>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/04/00.html