愛、アムール(‘12) ミヒャエル・ハネケ <「身体表現」と「視線」との化学反応の極点が、「安寧の境地への観念的跳躍」に変換していく究極の物語>

イメージ 11  数多の映画監督を周回遅れにさせる現代最高峰の映像作家 



犬童一心監督の「ジョゼと虎と魚たち」(2003年製作)のように、完治なき障害を負っている者の、その日常性の現実の様態を全く描くことなく、まるで、「障害者の雄々しき自立」に振れていくような脳天気な映画(注1)と完全に切れて、ミヒャエル・ハネケ監督の本作には、重篤な疾病を患う者の日常性の様態を冷厳なリアリティのうち精緻に切り取ることで、それまで散々描かれていた「障害者映画」、「闘病映画」(例外的に、野村芳太郎監督の「震える舌」を最高傑作として評価)の欺瞞に満ちた物語を根柢から破壊してしまったこと ―― 何より、個人的には、これが最も評価すべき点であった。

私の場合もまた、洗髪する際に洗面台の下にタオルを挟むが、そんな目立たぬシーンを含めて、この映画のリアリティには、観る者の感傷を呆気なく砕いていく相当の凄みがある。

恐らく、このような状況に捕捉された者の煩悶を描き切ったカテゴリーの映画に限定すれば、本作を超える作品の現出は不可能に近いだろう。

全てが完成形のハネケ映像の件の最新作には、一貫して、解決の困難な問題を綺麗事で片づけてしまう痼疾(こしつ)に罹患し、厚顔にも分ったようなことを垂れ流す、数多の批評家連中の欺瞞的言辞の中枢を射抜き、置き去りにしてしまう腕力が漲(みなぎ)っているから実に爽快である。

「ハネケの作品は嫌いだが、この映画は別」といった類いのレビューや批評をよく眼にするが、私から言わせれば、それらの御仁は、ハネケ監督の作品を観てきたつもりでも、表層的に擦過してきたに均しいという思いを抱かざるを得ない。

「語りたいものに一番ふさわしい最適なフォーマットを見つける、ということが大切ではないでしょうか。今、世に出ている作品の中には、その点を考慮していないものもありますが、このストーリーを語るには、どういう語り方がよいかを見つけることが非常に大切だと思います」(映画.com 2013年3月7日更新)

これは、ハネケ監督の言葉。
 
他の多くの映画作家がそうである以上に、ハネケ監督はテーマを決めたら、そのテーマを最も的確に表現する物語を作っていくが、肝要なのは、その物語が効果的に表現し得るイメージを脳裡に焼き付け、それを観る者と「共有」(受け取る人とコミュニケートしたいという思い)するモチーフを包含しつつ、完璧な構成力(「最適なフォーマット」)のうちに表現世界を切り拓いてきた稀有な映像作家である。

テーマが違えば、当然、描き方も違ってくる。

時には、デビュー作の「セブンス・コンチネント」(1989年製作)のように、心理描写を削り取ることで「テーマ性の最適化」を狙った作品もあるが、私が知っている限り、人間の心理の機微を軽視するハネケ映像と出会った試しがない。

あろうことか、自らが映画監督であるにも拘らず、映像と真摯に向き合う態度を擯斥(ひんせき)して、最後まで作品を観ることなく、審査員席から席を立ったと言われる、思い切りナイーブなヴィム・ヴェンダース監督の非礼な態度で話題になった「ファニーゲーム」(1997年製作)ですら、クローズドサークル(出口なしの状況性)の時間の中で、反撃能力を失うほどの一激を受けた夫婦が寄り添い、必死に助け合っていく切迫した心情を、10分間に及ぶ長回しのうちに的確に描き出していて、それが深い感動を呼ぶ作品に仕上がっていた。(注2

要するに、ハネケ監督は、そのテーマの本質に最も肉薄する出色の能力を駆使して、常に完成形の映像構成(「最適なフォーマット」)を構築し得る監督なのである。

たまたま本作が、「自分が本当に愛している人の苦しみを、どういう風に周りの人が見守るか」というテーマであるが故に、彼の作品を忌避していた観客を引き寄せる効果を生んだだけであって、一貫して、「テーマ性の最適化」を具現していく能力の高さにおいて、本作もまた、ハネケ映像群のカテゴリーに含まれる一篇でしかないということなのである。

いつも書いていることだが、それでも敢えて書く。

内包するテーマごとに、例外なくベストの映像を構築するミヒャエル・ハネケ監督は、他の映画監督を常に周回遅れにさせるほどに、現代最高峰の映像作家である。
 
 
2  縹渺たる風景を視界に収納するイメージの循環の向うに霞む冷厳なリアリティ



恐らく、このような性格の人が、このような状況に捕捉されたら、このような思いを吐露し、このような振る舞いに及ぶということを真に理解するには、自らが身体介護の経験をした人でも困難だろう。

ましてや、このような状況と無縁なゾーンで、心地良き幻想を繋いでいる人には、そこで描かれた物語の壮絶さに表層的なイメージを抱き、観念の世界で怯えても、自らの総体を預け入れる安寧の生活圏への移動を果たしてしまったら、そこで不必要な情報を綺麗に浄化する者の如く、映像という名の虚構の世界と切れていくに違いない。

それが普通であり、特段に茶々を入れる何ものもない。

自らがそこを通過することによってしか、その縹渺(ひょうびょう)たる風景を視界に収納するイメージの循環が、内的に交叉する知覚の目立たぬ現象として惹起し得ても、とどのつまり、その仕切りの向うに霞む冷厳なリアリティが、この世に鋭角的に存在する事態を認知することは、心念々に動きて、時として安からずの心境だろうが、それもまた、人間社会の実相であると言っていい。

それでも、これだけは言える。

他者に対する絶対依存なしに生きていけないような人が、その現実を永久に受容することに対して耐え難い精神的苦痛を感じ、その苦痛がクリティカルポイントの際(きわ)で継続的に騒いでいて、もう、その歪んだ風景を変容し切れないと括ってしまったら、物語のアンヌのように、切迫した心境に辿り着くしかないという辺りにまで持って行かれるはずである。
アンヌは言った。

「長生きしても無意味ね。症状は悪化する一方よ。先の苦労が眼に見えてる。あなたも私も」

知人の葬儀から帰って来た夫ジョルジュに、葬儀の話を求めた妻が、渋々ながら、葬儀のエピソードをユーモア含みで語る夫の話の渦中で、突然、アンヌは本音を吐露するのだ。

一瞬、「間」ができる。

「苦労とは思わん」とジョルジュ。
「嘘をつかないで、ジョルジュ」とアンヌ。

再び、長い「間」の中から、ジョルジュは言葉を繋ぐ。

「もし、逆の立場なら?私にも同じことが起こり得る」
「・・・そうだけど、想像と現実とはかなり違うものよ」
「日々、回復している」
「もう、いいの。あなたには感謝してるけど、もう終わりにしたい。自分自身のためよ」
「嘘だ。君の考えることは分る。自分が私の重荷だと。でも、逆の立場ならどうする?」
「さあ、そんなこと考えたくもない」

そんな会話の後にも、体の話をされるから、娘婿のジョフに来られたくないと、ジョルジュに語るアンヌ。

彼女の心は、もう、他者の訪問を受容し切れないほどに、自らが堅固に拠っていたプライドラインを、苦衷の相貌のうちに後退させていく以外に自己防衛の方略がなかったのである。

それでも、ベッドで仰向けに寝ながら、脚の上下運動をするアンヌ。

劣化した腕力で、PT(理学療法士)に代わって、必死にリハビリをサポートするジョルジュ。

洗面台に顔を乗せて、顎の下にタオルを敷いて、ジョルジュに洗髪してもらうアンヌ。

そんな努力の甲斐もなく、尿を洩らした屈辱で涙を見せたアンヌは、電動車椅子を操作し、思わずその場から離れていく。

「落ち着いて」

労わるジョルジュ。

それが、夫のジョルジュから、不自由な右半身を庇って、右手を駆使して読書する姿形を恥じるアンヌの、ぎりぎりのプライドラインの巡らせ方だった。

元はと言えば、頸動脈が動脈硬化で細くなる重篤な疾病である、頸動脈狭窄を患ったことに起因する。
 
成功率の高い手術が失敗に終わり、右半身麻痺になって退院したアンヌのために、電動ベッドが窓の近くに運ばれるや、年老いた彼女の未知なるゾーンでの生活が開かれるに至ったのである

「もう、入院だけはさせないで」

これが、アンヌの堅固な意志に結ばれ、ジョルジュとの「約束」になっていく。

入院の拒絶が意味する事象が、自宅を「終の棲家」にすることと同義であるのは、言うまでもなかった。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/ 愛、アムール(‘12) ミヒャエル・ハネケ <「身体表現」と「視線」との化学反応の極点が、「安寧の境地への観念的跳躍」に変換していく究極の物語>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/10/12.html