明日の記憶(‘05) 堤幸彦 <「夫婦」という記号だけが置き去りにされた、一人の男と一人の女の物語>

イメージ 11  屋上の縁に立って、不安の極点を身体表現する男を襲う悪魔の鼓動
 
 
 
いつも、それは唐突にやって来る。
 
唐突にやって来るから困惑し、動揺し、狼狽する。
 
狼狽してもなお、より深刻になる状況に翻弄され、内側で何かが煩く騒いで止まなくなる。
 
内側で確実に、しかも加速的に惹起する悪魔の鼓動を、それを乗せている脳の中枢が初めて捕捉するとき、殆どもう、手遅れの状態だった。
 
 悪魔の鼓動の正体は、若年性アルツハイマー病。
 
通常、65歳以上の高齢者の罹患が大半のアルツハイマー病(老年性アルツハイマー病)と違って、早くは20代、多くのケースの発症が40代から65歳とされ、現在、遺伝性の強い脳疾患仮説が主流になっているが、少なくとも生物学的には、脳内で分泌されているβ(ベータ)アミロイドと呼ばれる蛋白質が脳内で分解されず、それが蓄積される疾病であるという仮説が有力視されている。
 
その意味で、脳卒中によって神経細胞が決定的ダメージを被弾する脳血管性認知症と切れている。
 
しかし、何より深刻なのは全国に3万から10万人とも言われる患者が存在するにも拘らず、発症が働き盛りの時期に起こることであり、しかも、有効な治療法が存在しないという現実の圧倒的重量感・恐怖感である。
 
脳の神経細胞が委縮し、最終的に死滅してしまうという、由々しき生物学的現象によって惹起される知的能力の確実な、且つ、致命低下 ―― これは、本作の主人公が嗚咽の中で吐き出した、「俺が俺じゃなくなる」という事態が現実化する圧倒的恐怖以外の何ものでもないだろう。
 
その予兆はあった。
 
「打ち合わせの時間を忘れるなんて、長いサラリーマン生活で初めてのことだった。年のせいか?50を迎えるというのは、こういうことなのだろうか?」
 
本作の主人公・佐伯雅行自身のノローグである。
 
 49歳で、広告代理店の営業部長を務める、企業戦士の代名詞のような男。
 
 そんな男が、少しずつ、しかし確実に、且つ、加速的に崩れていく。
 
 著名なハリウッド俳優の名前を忘れたり、車のキーを置き忘れてしまったり、結婚予定の一人娘と会うための運転中に、高速道路の出口を見過ごしてしまったり、等々。
 
激しい頭痛を訴えたのも、その際の運転中だった。
 
その疲労感で、娘と婚約者の前で、居眠りしてしまう始末。
 
この辺りでは、会社での激務が原因であると、本人も家族も考えていたが、更に、得意先の宣伝課長との打ち合わせの時間を忘れる事態が起こるに至る。
 
「申し訳ありません」
 
深々と頭を下げる佐伯。
 
「老化現象じゃない?」
 
得意先の宣伝課長に厭味を言われる始末。
 
ここで、冒頭のモノローグに繋がるのだ。
 
その一件で、本人の中で、それまでの自己の完璧な仕事との落差を意識化するようになるが、それが看過し難い違和感にまで把握されるには、その直後に惹起した出来事まで待つしかなかった。
 
社食の場で、頭の中がグルグル回転し、自分が置かれた状況の混乱に捕捉されてしまうのだ。
 
「部長、どうしたんですか?」
 
部下に言われても、未だ状況を把握できない男がそこにいた。
 
佐伯が、自ら医学事典を調べたのは、その夜のことだった。
 
彼は「うつ病」や「不安神経症」の項目を調べるが、妻の枝実子から、毎日のように、シェービングクリームを買って来たことを指摘されるに及び、その妻に促され、重い腰を上げて、某大学病院神経内科を訪れる。
 
佐伯が、アルツハイマー病治療の専門の主治医から受けた診察は、長谷川式認知症スケールと呼ばれるもの。
 
「年齢」、「今日の年月日」、「曜日」などの質問を、佐伯本人に答えてもらうが、「ここはどこですか?」などと聞かれて、「子供騙し」の診察内容に、佐伯の忍耐も限界にきていた。
 
そんなとき、「単純な計算」、「数字を逆に言わせる」という発問をクリアしていった佐伯が先に記憶を求められた、「桜、電車、猫」の復唱に答えられず、ばつの悪そうな表情を見せる。
 
机の上に並べた品物を復唱させるが、ここでも躓(つまず)く佐伯。
 
診察が終了し、主治医からMRIの検査を求められ、佐伯は急ぐように部屋を出て行く。
 
「何なんだ、あの医者。人をバカにしているのか」
 
妻に不満を零す佐伯。
 
憤怒の表出によって、不安を押し込めているのだ。
 
しかし、佐伯が押し込めている不安は、会社の会議での場で露わにされていく。
 
部下のプレゼンに多用されるカタカナ言葉に、「もっと具体的に言え」と厳しく注意するが、それは、佐伯自身の集中力の劣化が苛立ちに変換されたもの。
 
頭痛、眩暈、目立った物忘れ、そして、このときの怒りっぽくなる行動など、全て典型的な若年性アルツハイマー病初期症状である。
 
 そして、遂にその日がやって来た。
 
主治医からMRIの検査の結果の説明を受ける日である。
 
磁場を利用して、脳などの生体を鮮明に画像化する高精度技術として、唯一の機械であるMRI検査の結果、佐伯は若年性アルツハイマー告知される。
 
健常者とアルツハイマー罹患者の、脳内部の萎縮の違い、即ち、短期記憶の中枢を司っている海馬(大脳辺縁系に属する)の神経細胞が破壊され、顕著な萎縮が見られる事実を画像診断で指摘されたことで、最も恐れていた結果に動顛し、屋上に駆け上がっていく佐伯。
 
屋上の縁に立って、自殺の衝動に駆られても、恐らく、不安の極点を身体表現するだけの佐伯は、もう、それ以上先に進めない。
 
慌てて屋上に駆け上がって来た、妻と主治医。
 
「先生、若年性アルツハイマーって進行早いんでよね
 
佐伯は学習済みだから、主治医に確認を求める。
 
 「早いケースもあります。ですが、それには個人差があります。ですから、一概には…
 
 ここまで言いかけた主治医の言葉を、佐伯は激しい言葉で遮った。
 
 「そんこと聞いてんじゃねぇんだよ!本、見りゃ分んだよ!そんなこと。な、先生。この病気ってさ、止める薬も治る薬もないんだよね」
 
 主治医の沈黙が、佐伯の言葉の正しさを能弁に語っていた。
 
 「だったらさ、あんた、ゆっくり死ぬんだって言ってくれよ」
 
 主治医は、自分の父が同じ病気であることを吐露した後、ゆっくりと冷静に語っていく。
 
 「佐伯さん、僕はこの仕事に就いて、まだ日が浅いですが、はっきりと分っていることがあります。人の死は、死ぬということは、人の宿命です。老いることも人の宿命です。人体というものは、最初の十数年を除いては、あとは滅んでいくだけなんです。でもだからと言って、何もできないわけじゃありません。もしかしたら、新薬だってできるかも知れない。とにかく今、僕にはできることがある。僕は自分ができることがしたい。それだけです。佐伯さんにも、自分にできることをして欲しい。あきらめないで欲しい」
 
 主治医のこの言葉は、とても良い。
 
「人体というものは、最初の十数年を除いては、あとは滅んでいくだけなんです
 
 些か芝居じみているが、この言葉は、とても良い。
 
 「でもだからと言って、何もできないわけじゃありませんという言葉に繋がるから、医の倫理に適っていて、的確な表現に結ばれている。
 
 最後まで「先生」としての「上から目線」ではなく、どこまでも一人の人間として、患者として煩悶する男の心情を理解し、「今、できること」に希望を託して生きていくことの大切さを「共有」したいと願う思いが、観る者に伝わってくるからである。
 
 しかし、人生は甘くない。
 
 この主治医の視線がピュアであっても、他者の煩悶まで「共有」できないのだ。
 
だから、男は絶望する。 
 
 「俺、俺が俺じゃなくなっても平気か?」
 
 屋上から降りていく階段にしゃがみ込んで、妻・枝実子に漏らした佐伯の言葉である。
 
  「俺、俺が俺じゃなくなっても平気か?」
「平気じゃないよ。私だって恐い」
「自信ねぇなあ、俺」
「だって家族だもの。私がいます。私がずうっとそばにいます」
 
寄り添いながら、嗚咽する二人。
 
ここまでの、前半の佳境を迎える物語には、映像総体の求心力の低下が見られず、観る者をして、「もし、自分が佐伯だったらどうするか?」という、とても他人事で済まされないような問題意識の共有を迫る訴求性が担保されていた。
 
 
 
2  「夫婦」という記号だけが置き去りにされた、一人の男と一人の女
 
 

「書いていた。気がつくと日記を書いていた。もし、今までの自分が消えてしまうのなら、何かを書き残しておかなければならないと思った」
 
佐伯のこのモノローグは、その直後に起こる、由々しき事態の伏線に繋がることを暗示していていることが分明だから、観る者は、テンポ良く流れていく物語に違和感を持つことなく入っていけるだろう。
 
ところが、モノローグの直後に起こる由々しき事態のエピソードに、私は違和感を持ってしまった。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/明日の記憶(‘05) 堤幸彦  <「夫婦」という記号だけが置き去りにされた、一人の男と一人の女の物語>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/04/05.html