1 ひしと伝わってくる繊細な人間の感情を描く描写の繋がり
「古き良き日本」の純愛譚を貫く者の眩さ。
この時代に、このような人物もいて、そうでない人物もいた。
この映画は、前者を特化して描いた作品である。
そこに、私は特段の違和感を覚えない。
ベタなシーンも目立つが、心の底から感動した。
ー- 以下、梗概。
川で洗濯中、ヤマカガシに咬まれた少女・ふくの指を吸って、手当をする海坂(うなさか)藩・下級武士の息子である15歳の文四郎。
頭を下げ、そのまま去っていくふく。
冒頭のシーンから開かれる物語は、複雑に交叉するこの二人の秘めたる愛を描いていくことを提示する。
翌日、そのふくから直接お礼を言われたことも手伝って、二人は庄内の夏祭りに出かけていく。
夜空に舞う花火を見て嬉々とする、ふくの笑顔が弾けていた。
正月早々、隣に住む文四郎の家から、少量の米を借用するほどに貧しいふくにとって、こんな花火見物しか楽しみを見出せないのだろう。
このとき、年頃で利(き)かん気の少年によくある、小さな「事件」が出来する。
苦手な剣の道を諦め、江戸に留学する意志を持つ与之助が、道場の仲間の嫉妬で虐められていることを知らされた時のこと。
親友の仇をとった文四郎が、ふくのもとに戻って来たのは、花火が終わって、祭りのピークが過ぎてしまった時だった 。
心を寄せ合っていても、自らの感情を表現することが不得意な二人の純愛譚が繋がっている頃、牧家の様子に変化が見られるようになっていく。
「急な用事ができた。帰りは遅くなる」
普請組に勤める文四郎の父・牧助左衛門が、息子に残したこの言葉が、その後の家族の大きな転機になることを、この時点で、当然、母・登世(とよ)も文四郎も予想できようもなかった。
そんな折り、藩内の川が氾濫し、水害の危機に見舞われる事態が出来した。
下級武士の助左衛門が、水害によって取り入れ前の稲田が水没する怖れを説き、堤防の切開の場所の上流への変更を普請奉行助役に提言し、この提言を受け入れた助役の指示で即座に実行に移されたことで、水害の危機を免れるに至った。
外出中の父が戻って来るまで、文四郎もこの工事に参加していたが、堤防切開工事を見事に対応する父の仕事を目の当たりにして、父に対する尊敬の念が増すエピソードだった。
しかし、好事魔多し(こうじまおおし)。
人生は、時として残酷である。
義に厚く、意志堅固な助左衛門が、あろうことか、世継ぎ問題という、往々に起こる政争に巻き込まれたことで、藩の監察の者に捕捉されるや、反逆の汚名を着せられ、早々に、切腹の沙汰が下されるという由々しき事件が惹起する。
以下、その助左衛門との面会が許された文四郎に残す、思いのこもった父の言葉。
「わしは、恥ずべきことをしたわけではない。私の欲ではなく、義のためにやったことだ。恐らく後には、反逆の汚名が残り、お前たちが苦労するのは眼に見えている。だが、文四郎は父を恥じてはならん。そのことは、胸にしまっておけ。登世を頼むぞ」
今生の別れの場で、「父上、何事が起きたのか、お聞かせ下さい」と問う文四郎への答えには、凛とした父の態度が貫き通されていた。
「登世を頼むぞ」と父の言葉の重量感に、文四郎は「はい」としか答えられなかった。
父の言葉が、あまりに重過ぎたのである。
以下、そのことを後悔する文四郎が、親友の逸平に語った言葉。
「もっと、他に言うことがあったんだ。だが、父上に会っている間は、思いつかなかった。父上を尊敬していると言えば良かった。母のことは心配いらぬと、俺から言うべきだった。何より、ここまで育ててくれて、ありがとうございましたと言うべきだった」
文四郎の心情が分り過ぎるが故に、この言葉もまた相当に重かった。
「父上を尊敬していると言えば良かった」
私にとって、文四郎のこの言葉は、本作で最も痛切な台詞として脳裏に焼き付いて離れない。
このシーンは、父との関係を描く前半の白眉と言っていい。
涙を堪えるのに必死だった。
父の死と、その遺体を運ぶ文四郎のシーンは、観る者の心を揺さぶる本作前半の結晶点である。(後述する)
家禄を減らされ、「罪人の息子」となった文四郎は、悲しみが癒えない母と共に、「ボロ長屋」(逸平の言葉)に住むに至る。
「藩内に二つの勢力があって、貴様の親父殿は、それに負けた側にたまたまついていた」
この逸平の説明で、文四郎の父・助左衛門がついていた「負けた側」とは、首席家老・横山又助で、「反対派を指揮していた勝者」とは、首席家老・里村左内であることが判然とする。
この里村こそ、父の命を奪った敵対者となる人物である。
衝撃を受ける文四郎に、更に悲しみが広がる。
幼馴染で、心を寄せ合っていたふくが、藩主の正室・寧姫に仕えるため江戸に向かったことを、母から聞かされるのだ。
母親から牧家への訪問を固く禁じられているふくが、思い詰めた表情で必死に走って来る。
文四郎に別れを告げに来たのである。
しかし、文四郎は留守だった。
道場から帰って、そのことを母に聞いた文四郎もまた、必死にふくを追いかける。
このすれ違いのシーンを特化して描く映画は、極めてベタながらも、既に、そこに至る伏線描写が効果を持ち、観る者の心の中枢に這い入ってくる感動があった。
日本の四季の美しきと、繊細な人間の感情を描く描写の繋がり。
これが、ひしと伝わってくる。
2 無用な「狂気の剣」を望まない文四郎の、それ以外にない復讐劇の自己完結点
一転して、映像は変わる。
ここから、成人となった文四郎とふくの物語が開かれていく。
ところが、子役と成人役の顔が極端に異なる邦画の安直さが出てきてしまう。
「描写のリアリズム」を簡単に壊す作り方だけは、もう、いい加減に止めて欲しいと思う。
残念だが、成人役の男女の表現力が、映画を壊すに至らなかったのが救いであった。
物語を追っていく。
「心の目で見よ」
これは、剣術に熟達した文四郎が「狂気の剣」・犬飼兵馬に敗れたとき、扇子一本で文四郎の木刀を受ける剣術道場の主・石栗弥左衛門から教示された言葉。
そんな折、父の命を奪った張本人である里村から呼び出しを受ける。
「牧文四郎を旧禄に復し、郡奉行(こおりぶぎょう)支配を命ぜられること」
里村から、旧禄の復帰が直接伝えられ、かしこまって、それを受け入れる文四郎。
一方、その文四郎は、藩校で助教となって帰国した与之助から、藩主のお手付きになっていたふくが流産したことを知らされ衝撃を受ける。
ふくの流産も、例の世継ぎの問題の影で動いていたと言われる、藩主の側室・おふねの陰謀だという噂をも知ることになる。
文四郎が受けた衝撃の深さは、与之助と共に女郎屋で陰鬱な気持ちを紛らわす行為に振れていく。
彼の純愛は、単に、情動に飢えた一人の男の相手をしているに過ぎない、商売女の〈性〉で満足しようがなかった。
加えて、陰謀の犠牲になったおふくが今、国元に戻り、金井村の 欅御殿(ひのきごてん)に住んでいて、藩主の子を再び身ごもった事実を与之助から聞かされるに至り、文四郎が負った精神的ダメージは膨らみ切っていく。