峠 最後のサムライ('19)  己が〈生〉を、余すところなく生き切った男の物語 小泉堯史  

1  「武士の世は滅びる…この継之助も滅びざるを得ない。滅びた後、日本の歴史にかってなかった新しい世の中がやってくる」

  

 

 

「我らの見込みは、政権の奉還より外にない。この判断に、神君家康公の御偉業を継承する唯一の道である。幕府を倒そうと事を謀る一部の輩がおるとの噂がある。それを恐れてではない。彼らが何万あろうとも、討つに何の苦労もあるまい。現状を続けるとなれば、政権を投げ打つ以上の改革が必要である。例えば、今のような旗本、大名、全て廃さねば何もできぬ。しかしこれは、我と我が身で、骨や五臓六腑を摘出し切り刻むようなもので、到底できぬ今、天下の大名は戦国の頃のように割拠している。幕府の命令は無視され、このまま行けば、日本は三百の国に分裂し、戦乱に晒され、世は乱れ、国民は安んじ得ない。徳川家が政権を返上さえすれば、それが一つにまとまる。全ては、天下安泰の為である。このこと幸いに朝廷のお許しを頂き、王政、古(いにしえ)に服したと言えども、それにて責任を終えたるにはあらず。諸大名と共に、一大名として、朝廷の為、万民の為、この慶喜なお一層の心血を注ぐ所存。異存はあるか。あれば言え。なければよし。さらば徳川幕府の政権を朝廷に献上する」

 

諸藩重臣に対して、二条城・二の丸御殿において、「大政奉還」の意図を伝える徳川慶喜の言辞から物語は開かれていく。

 

徳川慶喜公の生まれ育った水戸徳川家には、『大日本史』の編纂(へんさん)に着手した徳川光圀水戸黄門様以来、云い伝えられた家訓があるそうです。“もし、江戸の幕府と、今日の朝廷のあいだに弓矢(戦争)のことがあらば、潔く弓矢を捨て、朝廷に奉ぜよ”。尊王の思い厚き慶喜公は、幕府の政権を放棄し、朝廷に恭順する道を選びました。1867年慶応三年、王政復古。しかし、薩摩の西郷隆盛大久保利通ら、徳川慶喜の首を見ねば、維新の大事を成し遂げることはできない、との態度を堅持し、日本中を破壊し、焦土にする覚悟で掛からねばならないと、戦乱の道へと舵を切ったのです。大政奉還は、徳川慶喜公との意思とは異なり、日本を二分し、東軍・佐幕派と西軍・勤皇派の熾烈な戦い、「戊辰戦争」の幕開けとなりました。越後、高田城下に続々と終結した西軍は、そこで二手に分かれ、長岡城下を目指しました」(河井継之助の妻・おすがのナレーション/以下、ナレーション)

 

以下、西軍との争いを危惧する川島億次郎(越後長岡藩士)に対する河井継之助の言葉。

 

「案ずることはない。戦(いくさ)はしてはならんでや。あくまで戦いは避ける。政治をもって片づけねばならん。そいは、東軍最大の佐幕派会津藩の滅亡を目標としている。わしら長岡藩は、いずれにも付かず、両者の調停役になり、会津藩を和平のうちに恭順させ、西軍に対しても、会津藩の申し分を聞き入れさせて、今日の混乱を正す」

「もし、双方が聞かなければ?」

「その時は、聞かぬ側、それが会津であれ、西軍であれ、討つ。この長岡藩は、それによって天下に何が正義であるかを知らしめる」

「ご家老、あなたはあなたのご信念を、この藩に押し付けられまするか」

「君臣一念。まずは主君と心を一つにする。武士とは身命を主君にとくと奉(たてまつ)り、この世に立つことが根源であろう」

 

継之助の信念が判然とする言辞である。

 

おすがに髭を剃ってもらう継之助。

 

夫婦の笑みが混濁した時代の空気を和ませている。

 

継之助は小山良運(りょううん)を訪ね、中立国スイスから来た貿易商の家に逗留(とうりゅう)していた際の、西洋人の語録を訳した書を見せる。

 

「民(たみ)は国の本(もと)、吏(り)は民の雇(やとい)。…役人は民の使用人か」

 

この語に含まれる継之助の理念を理解する良運は、継之助が中央に出て国の方向を示すように勧めるのである。

 

「わしはこの藩に閉じこもる。今、この河井継之助が天地に存在しているのは、兎にも角にも地球上から見れば、このちっぽけな越後長岡藩の家老としての立場だからね…わしは貿易商エドワルド・スネル(プロイセン出身の武器商人)から、西洋の列強でも持っていないガットリング機関砲(ガトリング砲)も買い入れた。アメリカ製のもので一度に360発。まるで水を撒くような勢いで弾が出る。こりゃ、驚きだぜ」

 

良運は、薩長を批判すると同時に、幕府の無力を慨嘆する。

 

「長岡藩は既に自主・独立の体制を整えた。藩自らが唱える発言権を保持し、風雲の中に独立、そう思っとる…万一の場合、お世継ぎにはフランスに亡命していただく。地球は広い。その渡航の手続きは全てスネルと良運さんでやってもらいたい」

「心得た」

 

【良運は長岡藩の藩医で、河井継之助の藩政改革のブレーンとして名を残す】

 

その足で、継之助は藩主の牧野忠恭(ただゆき)に拝謁する。

 

「策はあるか、継之助」

「策は、ございません。百の策を施し、百の論を論じても、時の勢いという魔物には勝てません」

「では、どうすればよいのだ?」

「恐れながら、大殿様。殿様が、こうとお思いあそばせ、その『こう』のために藩士に先駆けて、お死にあそばせ。その気迫だけが我が藩を一つに致しまする」

「わしの腹は決まっておる。時世や理屈はどうであれ、徳川家を疎(おろそ)かにすることはできない。もし、ここで徳川のお家を見捨てたなら、自分はこの家代々の祖霊に合わせる顔がないではないか、継之助。徳川慶喜公の大政奉還は、大いなる功績。賊名(ぞくめい)を被せるなど以ての外(もってのほか)。薩摩長州の振る舞いを見るに言語道断、腹に据えかねる。わしは徳川家の為に体制を挽回せんと欲す」

「御意にございまする…たとえ一藩たりとも、将軍家の無実の罪を晴らす藩がなければ、どうにもなりません。何の為に平安な300年があったのか。後世の者に笑われまする」

 

その帰路、良運の息子・正太郎(しょうたろう)が継之助にお礼を言いにやって来た。

 

正太郎の描く絵を褒め、医者である良運に絵を続けることを勧めたからだ。

 

「武士の世は滅びる…長岡藩の禄を食む者として、この継之助も滅びざるを得ない。滅びた後、日本の歴史にかってなかった新しい世の中がやってくる」

「それは、いつのことですか?」

「いつというものではない。正太郎の時代がそうだ。そなたには、絵の天分がある。己の好きなところを磨き、伸ばす。それが一番大切なこと。風景も美しいが、人物も描いてごらん…面でこそ、相手の心の機微が分かる」

 

小山正太郎は近代洋画家として大成する。また岡倉天心の洋画排斥論に反対し、私塾を作り、青木繁を育てた教育者として名高い】

 

その夜、芸者遊びが好きな継之助は、おすがを席に呼んで一緒に飲み、「長岡甚句踊り」を舞い、愉悦に浸る。

 

時の流れが速い。

 

継之助は城内に全ての藩士を集め、主君の前で言い渡す。

 

この時、既に鳥羽伏見の戦いが勃発し、慶喜は朝敵の汚名を受けていた。

 

一方、継之助は、「人の心を穏やかにする不思議な機具」というスイス製のオルゴールを、おすがに贈る。

 

時も時、東軍が小千谷(おぢや)にまで迫り、継之助は慈眼寺(じげんじ)での会談に向かった。

 

交渉相手は軍監・土佐藩岩村精一郎。

 

継之助は、意見が二分している藩の意見を統一し、会津、桑名、米沢の諸藩を説得して、朝廷に逆らわぬように申し聞かせ、越後奥羽に戦いが起こらぬよう努める旨を伝えた。

 

そして、藩主からの嘆願書を差し出し、大総督府への取次ぎを申し入れる。

 

岩村は継之助の顔を見ることもなく、端(はな)から聞く耳を持っていなかった。

 

「取次ぎはできぬ!嘆願書を差し出すことすら、無礼であろう。既にこれまでの間、長岡藩が一度でも朝廷の命令に応じたことがあるか!軍制を差し出せとの勅命に従わず、軍費三万両の献金に応じようともせぬ。長岡藩の誠意はどこにある!」

 

岩村は、日延べと嘆願書の取り次ぎという継之助の要請を面罵(めんば)する。

 

「戦いを避けるための嘆願書にござりますれば、是非ともお願い申し上げます…双方にとって、戦いは避けなければなりません」

「もはや、問答は無用である」

「その通りでござる」

「その通りならば、なぜ大人しく引き取らん。もはや、用はないはず」

「…ただ、せめて嘆願書だけは…」

 

権力を笠に着て、その態度は傲岸不遜(ごうがんふそん)な岩村は怒り心頭に達し、取りつく島はなかった。

 

「…一人長岡藩のために申し上げているのはなく、日本国中、相和し、協力し、和平のもと、世界に恥ざる強国になれば、天下の幸い。これに過ぎません。詳しくは書中に認(したた)めてござる。伏して嘆願書のお取次ぎを」

 

そう言うや、頭を下げる継之助。

 

「くどい…帰って戦(いくさ)の用意をしろ」

 

継之助は、一旦は引き取るが諦め切れず、岩村への面会を頼みに行かせ、門前で夜まで待ったが、戻って来た部下が「最早、万事休すでございます」と伝えることになった。

 

それでも継之助は帰ろうとせず、岩村に会おうと食い下がる。

 

その報告を聞く岩村

 

「耳なきが如く、帰れ、帰れと言っても聞こえぬ素振りで立ち尽くし、時々、じっと月を見つめたり、歩き回ったりしております」

「追い払え。不貞な奴と言う外ない。あの男の眼中には、朝廷も官軍もない。砲弾を浴びせて目を覚ましてやるしかない男だ。…銃剣で追え」

 

遂に継之助は、「己を尽くして、天命を待つ」と言葉を残し、去って行く。

 

藩に戻った継之助は、「談判は不調だった」と告げ、億次郎と語り合う。

 

「この上は、武力に訴える外、我が藩の面目、意志あるところを天下に示す方法はない」

「まだ交渉の方策はあるはずです。短気はまずい」

「残る手段が一つある。わしの首と三万両の軍資金を持って、お主がもう一度西軍の元へ行くのだ…それによって和平を買い、西軍に降伏をする。それ以外に道はない」

「待った。待ってください。西軍に降伏することの結果は、降伏するだけでなく、会津藩を攻める先兵を命じられるということですか」

「当然、そうなる。今このご時世の中、日本男子たる者が悉(ことごと)く、薩摩長州に阿(おもね)り、争って新時代の側に付き、侍の道を忘れ、行うべきことを行わなかったら後の世はどうなる。長岡藩、全ての藩士が死んでも、人の世というものは続いていく。後の世の人間に対し、侍とはどういうものか知らしめるためにも、この戦いは意義がある」

「分かりました。美しく砕け散ると。今は是非もない。私は、あなたと生死を共にします」 

 

継之助の覚悟がひしと伝わってくる会話だった。

 

【継之助の親友の億次郎は、長岡藩士・川島徳兵衛の養子となり、川島の姓を名乗るが、明治以後は三島億二郎と改名し、長岡藩知事として、疲弊した長岡の復興と近代化に尽力した】

 

その直後の映像は、全ての藩士に向かって、自らの覚悟を表明する藩主。

 

「我が命を庇うために、長岡藩の正義を曲げる必要はない。この忠恭は、既に死んだものと覚悟している。継之助の思うがごとくせよ」

 

忠恭に向かって頭を下げる継之助一同。

 

そして、継之助の父・代右衛門がおすがに告げる。

 

「戦だよ。可哀そうに、あいつの夢が破れた」

「夢が、ですか?」

「際どい夢を見ていたんだよ。日本中が京都か江戸に分かれて戦争をしようという時に、長岡藩だけはどっちにも属せず、武力を整え、独立しようと思っていたんだ」

「独立?」

「この小さな藩が独立し、自分勝手な国を作れるかどうか、その際どさに継之助は自分の夢をかけていた」

「継之助さんは常々、戦をしてはならないと」

「これも時世だ。時代の大波が猛(たけ)り狂って、国境に迫っている。時世の咆哮(ほうこう)だ」

「戦をすれば、どうなるのでしょう」

「分からん。継之助に任せるしかない」

 

かくて、自らの思惑と乖離した状況に囲繞され、本篇の主人公は未知のゾーンに踏み込んでいくのである。

 

  

人生論的映画評論・続: 峠 最後のサムライ('19)  己が〈生〉を、余すところなく生き切った男の物語 小泉堯史 より