鴛鴦歌合戦(‘39) マキノ正博 <オペレッタ時代劇のえも言われぬ「突き抜けた可笑しさ」>

イメージ 11  「浮かれ鴛鴦。おしゃれ鴛鴦。皆でやんやと踊ろうよ♪」
 
 
 
私のように、この映画の面白さを受け入れられる者には、殆ど病み付きになるコメディ。
 
とんでもなく可笑しく、生半可ではない笑いの連射は、邦画史上に名を残す紛れもない傑作として、今後も観られ続けるだろう。
 
特に、一気に畳み掛けていくラストシークエンスは、驚嘆を禁じ得ないこの映画の結晶点だった。
 
―― 以下、粗筋を紹介する。
 
日本橋の香川屋という大店の娘・おとみが出入り商人たちに言い寄られ、それを手代の三夫(さんた)によって守られ、その場を去っていく冒頭のシーンから、ミュージカルの軽快な歌と踊りで観る者を引きつける。
 
ところが、その直後のシーンは爆笑もの。
 
ディック・ミネ扮する「殿様」(峯澤丹波守/以下、「殿様」)が、多くの家臣を引き連れて登場し、もっと軽快なスウィングに乗って歌いまくるのだ。
 
「僕は若い殿様。家来ども喜べー。今日も得意にどっさり買った掘り出し物だよ。そう、僕の空。憧れの夢の宝。胸に抱けば、にやりと零れるこの笑顔。町を行けば、眩い青春の花園。凄いシャンだ見目好い鷹は掘り出し物だよ。そう、若い者は僕の夢。黒髪の甘い香り。可愛い乙女、一目でとろり。あの子にまいっちゃった♪」
 
歌の途中で一目ぼれした「可愛い乙女」とは、先の美女・おとみのこと。
 
ここで一転して、おとみの「別荘」の近くにある貧乏長屋で、父親とお春の生活風景を映し出す。
 
父親の名は、志村喬演じる志村狂斎(以下、狂斎)。
 
この長屋で、日傘作りをしながら、身過ぎ世過ぎ(みすぎよすぎ)を繋いでいる父娘であるが、「殿様」と同様、骨董にすこぶる目がない父の道楽に、呆れ返る娘のお春の嘆息が日常化していた。
 
「わしゃな、お前の嫁入りの費用を貯めておくつもりで買い込んでおるんだ」
「まあ、バカバカしい。誰があんな二束三文の骨董なんか買ってくれる人があるもんですか。せめて、毎日のお米代にこと欠かさないようにして欲しいわ」
 
ここで、父娘の歌が入る。
 
「米の飯なら誰も食う。たまにゃ、ふんわり麦焦がし。粋なもんだよ喰ってみな。腹が減るから腹が立つ♪」
「あれじゃ、全くやるせない。聞いただけでも麦焦がし。胸がむかつく嫌なもの♪」
 
「麦焦がし」ばかりの食事に辟易(へきえき)する娘と父との「歌合戦」には、「食の貧しさ」があっても、「心の貧しさ」を感じさせないシーンでもあった。
 
因みに、「麦焦がし」とは、大麦を炒(い)って粉に挽(ひ)いたもので、砂糖を混ぜて、水で練って食べたりするらしい。
 
物語を進める。
 
長屋の外に多くの日傘を並べて、「憎い人ほど愛しいわ♪」などと元気に歌うお春のもとにやって来たのは、同じ長屋で暮らす、片岡千恵蔵扮する浅井礼三郎(以下、礼三郎)。
 
「何、怒ってるんだよ」と礼三郎。
「あたしがいくら稼いだって、お父さんが怪しげな骨董品に皆つぎ込んじゃうんですもの」とお春。
「いいじゃないか。人間誰だって、一つくらい道楽があるもんだぜ」
「ちぇ!あたし、そんな夢みたいなこと大嫌い。こんな傘張りなんか、嫌になってしまったのよ」
 
「そのうち、掘り出し物があるかも知れない」と父を庇う礼三郎に反発しつつも、想いを寄せているお春の感情が読み取れる。
 
そこに、日傘をさして、同じく想いを寄せるおとみがやって来るが、「貧富の差」を皮肉る礼三郎の一言が決め台詞になる。
 
「とかく浮世はままならぬ。日傘さす人、作る人」。
 
その日傘を作るお春が、二人の遣り取りを嫉妬含みで眺めていた。
 
日傘を気に入ったおとみが、お春に何十両出してもいいから売ってくれと頼むが、「小売りはしない」と拒むお春との恋の鞘当(さやあ)てが、オペレッタの盛り上がりの中で展開されるのだ。
 
しかし、この二人の恋の鞘当(さやあ)ての中に、もう一人の女性が加わることで厄介な事態になっていく。
 
礼三郎の叔父・遠山満右衛門(以下、遠山)も許した許嫁(いいなずけ)・藤尾の出現である。
 
例の「殿様」の家臣の一人である遠山も現れ、「もっと寄れ、抱きつけ!」などとけしかけるのだ。
 
「それがどうも、はなはだ迷惑」
 
自分の父と遠山との間で交わされた、許嫁との結婚に逡巡する礼三郎。
 
「お前の強敵が現れたな」
 
その話を壁一枚隔てた隣の部屋で聞いていた狂斎が、お春に放った言葉である。
 
そこに礼三郎が現れ、「別に、女が嫌いってわけじゃないんですがね。裃(かみしも)を着けて昔の暮らしに帰るのが嫌なんですよ」と吐露し、傍にいたお春の気持ちを安堵させる。
 
その気持ちを厭味で返すお春の想いをも、了解済みの礼三郎。
 
仕官するより素浪人でいる方がいいと考える礼三郎は、根っからの自由人なのだろう。
 
ガツガツと欲得に走らないそんな性格が、女にもてる理由なのかも知れない。
 
一方、もう一人の本格的な骨董趣味の「殿様」は、家臣を相手に、茶碗の名器の価値を堂々と歌い上げていた。
 
「さーて、さって、さってこの茶碗。ちゃんちゃん茶碗と音(ね)も響く。道八茶碗はニッポンじゃ。見たか、聞いたか、聞いたか。塗った薬の色といい。色は艶良し値良し。腰の丸みのほどの良さ。さーて、さって、さってこの茶碗。さても天下の一品じゃ♪」
 
さすが、プロ歌手・ディック・ミネの本領発揮のシーンである。
 
因みに、ここで言う「道八茶碗」とは、清水焼陶工の代々の名・高橋道八由来の名茶碗のこと。
 
ある日のことだった。
 
狂斉は馴染みの骨董屋・道具屋六兵衛の店で、「日本にたった一つしかない道八の茶碗をただの三分」で買ったと喜んで長屋に戻って来た。
 
しかし、米代の全てを使ってしまった父に不満をぶつけるお春。
 
これが、この父娘のいつもの生活風景なのだろう。
 
一方、偶(たま)さか、同じ骨董屋で「殿様」と出会った狂斉は、50両の「狩野探幽の掛け軸」を「殿様」からプレゼントしてもらい、腰を抜かすほどの歓びを隠し切れない。
 
同じ趣味を持つ者の相性が良かったのかも知れない。
 
狂斉の人柄が気に入ったのか、「殿様」が貧乏長屋を訪れる。
 
静御前の初音の鼓」や「青葉の笛」などの「名品」を「殿様」に対して、自慢げに見せる狂斉。
 
しかし、「殿様」の目を引いたのは、傍らにいるお春だった。
 
骨董ばかりでなく女性にも目がない「殿様」は、家臣の一人である遠山に自分の妾になるように働きかける。
 
それを承知する遠山の思惑は、自分の娘の藤尾のライバルを一人蹴落とせると考えたのだ。
 
「あの子に参った。よしなに頼むぞ。これ、家来♪」と、「殿様」も上機嫌。
 
ところが、狂斉にも意地がある。
 
「絵日傘を描いていても武士は武士。鰹節ではござらん」
 
礼三郎を慕う娘の気持ちを何よりも理解しているから、妾にすることを拒む狂斉。
 
怒った「殿様」が五十両の返済を狂斉に求めるが、強気の狂斉は「狩野探幽の掛け軸」を金に換えれば、それで済むと考えていたからである。
 
ところが、骨董屋・道具屋六兵衛の店に赴いた狂斉は、「狩野探幽の掛け軸」が偽物と鑑定され、衝撃を隠せない。
 
思うに、自分で売ったにも拘らず、その掛け軸が「売った後に偽物と分りまして」と言ってのける、道具屋六兵衛の阿漕(あこぎ)な商売に文句を付けない、狂斉のお人好しぶりも極まっていた。
 
もっとも、自分の目利きの悪さが起因するとも言えるので、ある意味で自業自得であると言えなくもない。
 
結局、「狩野探幽の掛け軸」の偽物を三両で売り渡すに至る。
 
その三両に、残り四七両を工面するため、それまで道楽で蒐集したガラクタの如き骨董品を六兵衛に処分してもらうものの、八両二分にしかならず、とうてい「殿様」への返済額には届きようがなかった。
 
「あたし、お妾なんて、死んだって嫌よ」
 
娘・お春の言葉に、「すまん。すまんのう」としか反応できない狂斉の落胆ぶりは極点に達していた。
 
狂斉の落胆が「夜逃げ」という結論に達したのも当然だった。
 
「すっからかんの空財布。あるのはガラクタ、骨董品。夜逃げをするなら今のうち。娘よ手伝え、支度しな。別れておいでよ、あの人へ。お前の心を察しては、鼻水垂らしてわしも泣く♪」
 
「夜逃げ」の準備をしながら、どうしても「夜逃げ」に踏み切れないお春の気持ちを察しつつも、狂斉はこんなバカな歌を歌っている。
 
一方、金よりも女を求める「殿様」は、五十両を返済されたら困るので、家来を連れてお春の略奪という物騒な手段に打って出るのだ
 
「僕はお洒落な殿様。君は可愛い乙女。素敵な青春の花束を上げましょう。家来もついて来い。何て楽しい青空♪」
 
相変わらず、能天気な歌を歌いながら、「略奪行」に向かう「殿様」のシーンは、狂斉の落胆ぶりの描写と合わせて、この映画の「突き抜けた可笑しさ」の白眉でもある。
 
礼三郎がお春を救出したのは、家来を連れた「殿様」の略奪事件を目視したときだった。
 
刀を持たない礼三郎が、家来たちを次々と倒して、退散させていくこのシーンは、唯一の殺陣で最高の見せ場になっている。
 
山中貞雄監督の「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」(1935年製作)とそこだけは違って、一人の死者も出ないところが、この映画の基本ラインの一貫性が読み取れる。
 
その礼三郎がお春に愛を告白したことで、他の二人のライバル(藤尾とおとみ)は、この恋の鞘当てから手を引くに至る。
 
そして、「夜逃げ」していく狂斉は、道具屋六兵衛に渡した「麦焦がし」の入れ物が、一万両の価値がある伊達政宗の「文久の茶入れ」であることを知らされ、狂ったように驚嘆し、「別荘を建てる」と言って、お春と共に歓びを隠せない。
 
しかし、その歓びを礼三郎に話し、共有しようと近づくお春に、礼三郎は強い口調で言い切った。
 
「わしは金持ちは嫌いだ!ことに成り上がりの金持ちは、なお嫌いだ!お春さん、お前さんは金持ちを好きな人と一緒になりなさい。わしは引っ越しだ」
 
頓挫した二・二六事件青年将校が聞いたら喜びそうな言葉だが、本作のメッセージであることは自明だろう。
 
ともあれ、そのあとのお春の行動は、この映画を通して最高のパフォーマンスであると言っていい。
 
父から「文久の茶入れ」を取り上げ、それを地面に叩きつけ、壊してしまうのだ。
 
「あたしは、今ごろ知りました。お金なんぞが何でしょう。愛の珠玉の尊さは、永久(とわ)に曇らぬ光なの♪」
 
愛する男に言われて目が覚めた女の晴れやかな歌声が、天を劈(つんざ)いていく。
 
娘の思いを知った父もまた、目が覚めるのだ。
 
「娘でかした金よりも、胸の真珠を掘り出した♪」
 
引っ越しの支度をして出て来た礼三郎の前に、「文久の茶入れ」の破片を見せ、金に目が眩(くら)んだ自分を恥じ、礼三郎への想いを形にして表現するお春。
 
微笑む礼三郎。
 
「あっぱれ、でかしたぞ。親の欲目じゃないけれど、わしにお前はでき過ぎだ。たった一つの宝じゃよ♪」
 
狂斉の陽気な歌が、ラストシークエンスに向かって一気に畳み掛けていくシグナルになる。
 
礼三郎、おとみと三吉ら香川屋の奉公人、更に、藤尾の父・遠山や道具屋六兵衛らが円陣を組んで、一斉に歌い出すのだ。
 
「浮かれ鴛鴦。おしゃれ鴛鴦。皆でやんやと踊ろうよ♪」
 
そしてラストカットは、皆が一斉に日傘を開く構図。
 
陽気な連中の陽気な歌で閉じる映画の、誰も真似ができないような決定的な構図の勢いに引き込まれる、ラストシークエンスの凄みに圧倒された。
 
全く文句の付けようがないオペレッタ時代劇だった。
 
 

人生論的映画評論・続鴛鴦歌合戦(‘39) マキノ正博 オペレッタ時代劇のえも言われぬ「突き抜けた可笑しさ」>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2015/09/39.html