「万世一系」という究極の「物語」

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1  「ヤマト王権」の天皇像 ―― 「記紀」の「物語性」・「文学性」のインテンシティ
 
 
古くは「すめらき」・「すめらぎ」と呼ばれ、また、日常語に近い「大王」(おおきみ)か、儀礼的な意味を持つ「スメラミコト」とも呼ばれていた「天皇」という用語が、一般的に使われるようになったのは、容姿端麗の最初の女帝(女性天皇)・推古天皇(すいこてんのう)の時代か、或いは、天智天皇(てんじてんのう・第38代の天皇)の時代か不明だが、最も有力なのは、皇位継承を巡って惹起した、古代日本最大の内乱「壬申(じんしん)の乱」(672年)を平定し、本格的な中央集権国家の体制を構築した、7世紀後半の天武天皇大海人皇子=おおあまのおうじ)が、「天皇」を自称したとされるのが一般的な解釈である。
 
ここで、歴史を少し戻す。
 
藤原氏」のルーツになる中臣鎌足(なかとみのかまたり・藤原鎌足)と共に、「大化の改新」(645年)=「乙巳の変」(いっしのへん)と呼ばれるクーデターを断行し、飛鳥時代「ヤマト王権」(大和朝廷)の大豪族で、厩戸皇子(うまやどのみこ=聖徳太子)の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)を妻子一族ともに自害させた、蘇我氏の専横の中枢にいた蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、入鹿の父・蘇我蝦夷(えみし)を自害に追い詰めたのが、歴史の教科書にその名が出てくる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)。
 
 
その天智天皇の母は皇極(こうぎょく)天皇だが、皇極天皇の同母弟の孝徳天皇の没後、一度退位した天子が、再び即位する「重祚」(ちょうそ)によって皇極天皇斉明天皇となる。
 
この皇極天皇は、弟に皇位を譲った最初の事例とされる。
 
かくて、推古天皇から一代おいて即位した女帝(女性天皇)・斉明天皇は、第35代・第37代天皇となる。
 
この斉明天皇を母とする、天智天皇天武天皇との関係は同母弟ということになる。
 
自ら「天皇」にならず、皇太子となり、有力な豪族を粛清した天智天皇の治世は、決して順風満帆(じゅんぷうまんぱん)ではなかった。
 
皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺し、「大化の改新」を成功させた天智天皇に待っていたのは、「白村江(はくすきのえ)の戦い」(663年)において、日本百済(くだら)連合軍が、唐・新羅(しらぎ)連合軍との戦いに大敗を喫たことで、国防の強化を喫緊に遂行することだった。(因みに、百済が滅亡したことで、朝鮮半島からの文物の導入ルートを失うに至る)
 
九州防衛のために、逸(いち)早く、古代の城=「水城」(みずき)を建設したり、「防人」(さきもり)の設置を制度化したりして、諸国の兵士の中から3年交代で選ばれるという軍事制度を整備する。
 
朝鮮統一に歩を進めた新羅と対照的に、日本(注1)朝鮮半島進出を断念したのは正解だった。
 
当時の日本の国力の脆弱性が露呈されたからである。
 
だから、内治に専念するという選択肢しかなかったのだ。
 
古代日本の戸籍制度・「庚午年籍」(こうごのねんじゃく)を作成し、「公地公民制」(土地と人民は天皇に帰属するという制度)の導入の仕組みを築くなどという政策は、内治に力を注ぐ天智天皇の本領発揮であると言えるだろう。
 
そして、「大化の改新」の立役者・天智天皇は、大友皇子天智天皇の第1皇子)に皇位を継がせたかったが、46歳で崩御し、その直後に起こった「壬申の乱」で、大友皇子大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)が交戦して、内乱に発展し、大海人皇子が勝利する。
 
大海人皇子は直ちに即位し、天武天皇となり、堅固な律令国家が形成されていく。
 
天武天皇は、中国の皇帝に朝貢(ちょうこう)することで、上下関係を仮構する外交関係・「冊封体制」(さくほうたいせい)からの自立を明確にしつつ、唐制に倣(なら)った体系法典を編纂・施行し、律令国家を完成させていくのだ。
 
何より重要なのは、「日本書紀」と共に「記紀」と総称され、神話的要素が強く、「文学性」に富む日本最古の歴史書・「古事記」を、奈良時代の文官・太安万侶(おおのやすまろ)に編纂させたこと。
 
その「記紀」において、初代と記載されるのが神武天皇
 
これは、神話的要素が強く、「文学性」に富む典型例で、およそ「歴史書」とは程遠い。

神武天皇は137歳まで生きたとされるが、古代天皇の長寿のオンパレードに言い添える言葉もない。
 
120歳まで生きたとされる、10代の崇神天皇(すじんてんのう)については、初めて建設された国の天皇という意味の、「はつくにしらすすめらみこと」という表現が使われていて、学術的に実在人物の可能性が否定できない。
 
この崇神天皇が初代の天皇という説が、今でも根強くあり、私もそう思っている。
 
だが、世紀頃までは、神話の域を出ない現実を直視せねばならない。
 
記紀」(古事記日本書紀)に記された雄略天皇の実名で、その幼名が「ワカタケル」と呼称され、且つ、この名が彫られた、他の副葬品と共に国宝指定の「稲荷山古墳出土の鉄剣銘」(いなりやまこふんしゅつどてっけん・埼玉県行田市の埼玉古墳群)の「鉄剣」の出土によって、21代の雄略天皇の実在性は証明されている。
 
また、中国の歴史書宋書」には、有名な「倭の五王」(わのごおう・讃、珍、済、興、武)が記されていて、その中の「武」が雄略天皇である事実を疑えない。
 
問題は、14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后・「神功皇后」(じんぐうこうごう)の実在性。

これは「記紀」によると、新羅(当時、新羅は「辰韓」と呼称)に出兵し、朝鮮半島を従属下においた戦争・「三韓征伐」の「物語」の中心人物の神功皇后、帰国後に応神天皇を産んだとされる。
 
且つ、神功皇后が皇太子の応神の摂政として、「ヤマト王権」を仕切ったという「物語」が付加され、卑弥呼に擬(ぎ)しているとも言われるのだ。
 
また、予知能力を持つ巫女的な女性のイメージがあるが、「ヤマト王権」に反逆した九州南部の部族・「熊襲(くまそ)征伐」と、高句麗を含まない新羅征討を中枢にする、「三韓征伐」の「物語性」を勘考すれば、神功皇后は、一代の女傑幻想が特化された伝承上の人物であると言えるだろう。
 
その一代の女傑もまた、他の天皇の例に漏れず、100歳で逝去したという。
 
神功皇后の夫で、14代の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は、日本古代史上の伝説的英雄として名高い日本武尊(やまとたけるのみこと)子とされ、その父(日本武尊)と妻(神功皇后)の「物語性」の強度によって、実在性の低い天皇の一人に挙げられている。
 
ついでに書けば、第5代の応神天皇の場合、学術的に確定しているわけではないが、実在した可能性が高いと見られる天皇である。
 
以上、国立公文書館・宮内公文書館に所蔵されている歴代の「皇統譜」(こうとうふ・皇室の戸籍)が伝える限りで言えば、「記紀」の「物語性」・「文学性」のインテンシティ(強さ)という印象を拭えず、この視座で「ヤマト王権」の天皇俯瞰(ふかん)せざるを得ないのだ。
 
(注1)「ヤマト王権」(大和朝廷)は、7世紀後半に、中国の日本に対する呼称「倭国」(わこく)に代わって、日本国」に、また、「大王」(おおきみ)に代わって、「天皇」という名称を設定し、中国から自立する姿勢を見せた。また、6世紀初めに、蘇我氏は「ヤマト王権」の中枢として出現するが、その蘇我氏のルーツが、朝鮮半島西南部からの渡来人とする説があったが、現在は否定されている。
「ヤマト王権」の天皇像 ―― 「記紀」の「物語性」・「文学性」のインテンシティ(強さ)が、今なお我が国の「歴史」の中枢を搖動し、覆っている。
 


時代の風景「『万世一系』という究極の『物語』」よりhttps://zilgg.blogspot.com/2019/06/blog-post.html