古くは「すめらき」・「すめらぎ」と呼ばれ、また、日常語に近い「大王」(おおきみ)か、儀礼的な意味を持つ「スメラミコト」とも呼ばれていた「天皇」という用語が、一般的に使われるようになったのは、容姿端麗の最初の女帝(女性天皇)・推古天皇(すいこてんのう)の時代か、或いは、天智天皇(てんじてんのう・第38代の天皇)の時代か不明だが、最も有力なのは、皇位継承を巡って惹起した、古代日本最大の内乱「壬申(じんしん)の乱」(672年)を平定し、本格的な中央集権国家の体制を構築した、7世紀後半の天武天皇(大海人皇子=おおあまのおうじ)が、「天皇」を自称したとされるのが一般的な解釈である。
ここで、歴史を少し戻す。
「藤原氏」のルーツになる中臣鎌足(なかとみのかまたり・藤原鎌足)と共に、「大化の改新」(645年)=「乙巳の変」(いっしのへん)と呼ばれるクーデターを断行し、飛鳥時代の「ヤマト王権」(大和朝廷)の大豪族で、厩戸皇子(うまやどのみこ=聖徳太子)の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)を妻子一族ともに自害させた、蘇我氏の専横の中枢にいた蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、入鹿の父・蘇我蝦夷(えみし)を自害に追い詰めたのが、歴史の教科書にその名が出てくる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)。
皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺し、「大化の改新」を成功させた天智天皇に待っていたのは、「白村江(はくすきのえ)の戦い」(663年)において、日本・百済(くだら)連合軍が、唐・新羅(しらぎ)連合軍との戦いに大敗を喫したことで、国防の強化を喫緊に遂行することだった。(因みに、百済が滅亡したことで、朝鮮半島からの文物の導入ルートを失うに至る)
九州防衛のために、逸(いち)早く、古代の城=「水城」(みずき)を建設したり、「防人」(さきもり)の設置を制度化したりして、諸国の兵士の中から3年交代で選ばれるという軍事制度を整備する。
だから、内治に専念するという選択肢しかなかったのだ。
古代日本の戸籍制度・「庚午年籍」(こうごのねんじゃく)を作成し、「公地公民制」(土地と人民は天皇に帰属するという制度)の導入の仕組みを築くなどという政策は、内治に力を注ぐ天智天皇の本領発揮であると言えるだろう。
そして、「大化の改新」の立役者・天智天皇は、大友皇子(天智天皇の第1皇子)に皇位を継がせたかったが、46歳で崩御し、その直後に起こった「壬申の乱」で、大友皇子と大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)が交戦して、内乱に発展し、大海人皇子が勝利する。
天武天皇は、中国の皇帝に朝貢(ちょうこう)することで、上下関係を仮構する外交関係・「冊封体制」(さくほうたいせい)からの自立を明確にしつつ、唐制に倣(なら)った体系的法典を編纂・施行し、律令国家を完成させていくのだ。
120歳まで生きたとされる、10代の崇神天皇(すじんてんのう)については、初めて建設された国の天皇という意味の、「はつくにしらすすめらみこと」という表現が使われていて、学術的に実在人物の可能性が否定できない。
だが、2世紀頃までは、神話の域を出ない現実を直視せねばならない。
「記紀」(古事記と日本書紀)に記された雄略天皇の実名で、その幼名が「ワカタケル」と呼称され、且つ、この名が彫られた、他の副葬品と共に国宝指定の「稲荷山古墳出土の鉄剣銘」(いなりやまこふんしゅつどてっけん・埼玉県行田市の埼玉古墳群)の「鉄剣」の出土によって、21代の雄略天皇の実在性は証明されている。
問題は、14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后・「神功皇后」(じんぐうこうごう)の実在性。
また、予知能力を持つ巫女的な女性のイメージがあるが、「ヤマト王権」に反逆した九州南部の部族・「熊襲(くまそ)征伐」と、高句麗を含まない新羅征討を中枢にする、「三韓征伐」の「物語性」を勘考すれば、神功皇后は、一代の女傑幻想が特化された伝承上の人物であると言えるだろう。
その一代の女傑もまた、他の天皇の例に漏れず、100歳で逝去したという。
神功皇后の夫で、14代の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は、日本古代史上の伝説的英雄として名高い日本武尊(やまとたけるのみこと)の子とされ、その父(日本武尊)と妻(神功皇后)の「物語性」の強度によって、実在性の低い天皇の一人に挙げられている。
以上、国立公文書館・宮内公文書館に所蔵されている歴代の「皇統譜」(こうとうふ・皇室の戸籍)が伝える限りで言えば、「記紀」の「物語性」・「文学性」のインテンシティ(強さ)という印象を拭えず、この視座で「ヤマト王権」の天皇像を俯瞰(ふかん)せざるを得ないのだ。
(注1)「ヤマト王権」(大和朝廷)は、7世紀後半に、中国の日本に対する呼称「倭国」(わこく)に代わって、「日本国」に、また、「大王」(おおきみ)に代わって、「天皇」という名称を設定し、中国から自立する姿勢を見せた。また、6世紀初めに、蘇我氏は「ヤマト王権」の中枢として出現するが、その蘇我氏のルーツが、朝鮮半島西南部からの渡来人とする説があったが、現在は否定されている。
「ヤマト王権」の天皇像 ―― 「記紀」の「物語性」・「文学性」のインテンシティ(強さ)が、今なお我が国の「歴史」の中枢を搖動し、覆っている。