「夢を見る能力」の凄みが「夢を具現する能力」を引き寄せ、蓄電し、炸裂する

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1  「夢を見る能力」と「夢を具現する能力」
 
 
 
私がよく使う言い回しだが、夢には2種類ある。
 
「夢を見る能力」と「夢を具現する能力」である。
 
「夢を見る能力」が「夢を具現する能力」にシフトするには、それまでの自己基準的なリアリズムの枠内では収まり切れない、「夢」という名の心地良き物語を具現せんとする特定人格が放つ、シビアな客観的世界との対峙を回避し得ない冷厳なリアリズムが待機しているから、なかなか一筋縄では行かないのである。
 
この段階への跳躍に至って自壊してしまう「夢を見る能力」は、相応に「損・得の原理」を身につけてきた己がサイズに見合った、近未来に向かう確かな自己像を構築していくことで、特段に問題なく、「これが、自分が求めてきたものだ」などという軟着点に収斂されるに足る職業を選択し、そこに生涯を賭ける「仕事」を手に入れるかも知れない。
 
しかし、それでもなお、自分なりに成長させ、継続させてきた「夢を見る能力」に集合する情感が安楽死することなく、いよいよリアリティを帯びてくるとき、「夢を具現する能力」を引っ張っていく堅固な自我が健在であると見るべきだろう。
 
そのとき、「夢を見る能力」の凄みが「夢を具現する能力」を引き寄せたのである。
 
引き寄せた「夢を具現する能力」を蓄電し、炸裂する。
 
それが、どれほどのサイズの夢であろうとも、シビアな客観的世界との対峙の中で、篩(ふるい)に掛けられて成長してきた「夢を見る能力」が、「夢を具現する能力」に繋がったのである。
 
自らの夢を育て、いつしか、より筋肉質の武装性を纏(まと)うことで、その者は、どこまでも冷厳な世界のリアリズムに篩(ふる)い落とされることなく、「夢を具現する能力」の達成感を得て、鮮度の高い未知のゾーンを射程に入れながら、なお呼吸を繋いでいくのだ。
 
思うに、能力の裏付けのない児童期段階で見る他愛のない夢の多くが、大抵、思春期彷徨の渦中で雲散霧消(うんさんむしょう)していくというのが、普通の夢の流れ方だろう。
 
「快・不快の原理」に搦(から)め捕られた未熟な自我が、少しずつ、しかし確実に、「損・得の原理」に捕捉されることで、まさに、夢という名の心地良き物語とのゲームが自己完結していくのである。
 
中には、思春期過程に踏み込んでも、なお壊れ切れない夢が、自我に張り付いている場合がある。
 
夢が自壊しないことによって、「夢」を自分なりに成長させてきた思春期自我の懐(ふところ)深くに、世界とのリアルなリンクへの自己運動が、騒いで止まない情感系の内的行程が加速的に延長されているのだ。
 
これこそが、「夢を見る能力」の凄みであり、「夢を具現する能力」を引き寄せ、蓄電し、炸裂するリアリズムの具象性そのものである。
 
それは、「夢を具現する能力」を引っ張っていく強い思いが雲散霧消し、「損・得の原理」に捕捉されず、易々と安楽死しなかった証左でもあるのだ。
 
 
 
2  「夢を見る能力」の凄みが「夢を具現する能力」を引き寄せ、蓄電し、炸裂する
 
 
 
ここで私は、ジョー・ジョンストン監督の映画・「遠い空の向こうに」を思い起こす。
 
物語の主人公・ホーマー・ヒッカム(以下、ホーマー)が、自分の遠大な夢を具現するには、本人の人一倍の努力だけでなく、それを共有する仲間との友情、周囲の理解ある大人の存在が如何に重要であるかということを、あざとさを全く感じさせない落ち着いた筆致で、情緒過多に流れることなく、中三・高一の英語の教科書にも紹介されているほどに、丁寧に描き切った実話ベースの感動作である。
 
ホーマー少年もまた、「夢を見る能力」の凄みが「夢を具現する能力」を引き寄せ、蓄電し、それを炸裂するに足る途轍(とてつ)もない馬力を持っていた。
 
「ロケットを作る。スプートニクだよ。とにかく作る」
 
家族の団欒(だんらん)の中で発せられた、ホーマーの行動宣言である。
 
笑って済ます炭鉱夫の父・母・兄。
 
しかし、ホーマーは本気だった。
 
その原因は、ソ連が人類初の人工衛星スプートニクの打ち上げに成功したニュースを知ったこと。
 
1957年10月4日のことである。
 
以降、炭鉱町にある高校で、アメフトに興じるホーマーは決定的に変わっていく。
 
「ロケット・ボーイズ」 ―― これが、ホーマーが集めた仲間の愛称。
 
以降、この「ロケット・ボーイズ」は、目的遂行のためのトライアンドエラーを繰り返していく。
 
失敗続きの「ロケット・ボーイズ」はロケットの改良を繋いでいくが、途中で頓挫(とんざ)を来たす事態が起こっても、ホーマーの「夢を見る能力」だけは破綻しなかった。
 
しかし、ロケットの発射実験は甘くない。
 
改良を加えたロケットに点火しても、天に向かって飛ばずに爆発してしまう。
 
それでも諦めない、ホーマーを中心とする「ロケット・ボーイズ」の面々。
 
そして、繰り返される失敗の連続の果てに、遂に成功するに至る。
 
彼らのロケットは、天に向かって、どこまでも飛んでいくのだ。
 
この成功によって、彼らを囲繞(いにょう)する空気は一変する。
 
「ロケット・ボーイズ」の存在は、今や、地元の新聞にまで掲載されるほどの認知度を獲得していくのである。
 
―― ここで、私は勘考する。
 
ホーマーの夢を支え切ったのは、何だったのか。
 
「炭鉱は僕の人生じゃない。坑内には戻らない。僕は宇宙へ飛びたい」
 
次男の夢を認知しながらも、炭鉱夫の仕事を最後まで続けることを求める父に対して、明瞭に言い切ったホーマーの言葉である。
 
それを無言で受け入れる父。
 
炭鉱争議で揺れる渦中で開かれる科学コンテスト。
 
このコンテストで金メダルを獲得し、優勝した高校の代表として、ホーマーが栄誉を授与するのである。
 
では、ロケット 打ち上げに成功したホーマーの「夢を見る能力」とは何なのか。
 
「未知の世界」との出会いに率直に感動し、それが情動を噴き上げ、且つ、継続力を持つことで、「夢見」の情感系を保持し得る能力の凄み。
 
これであると思う。
 
因みに、ここで私が想起するのは、ウディ・アレン監督の名作・「カイロの紫のバラ」(1985年製作)。
 
ヒロインのセシリアは、辛い現実から、束の間、解放されたいという思いが心理的推進力になって映画を観る。
 
それも繰り返し観る。
 
それは、現実逃避であると言っていい。
 
セシリアの現実逃避の映画鑑賞の凄みは、「夢を見る能力」の凄みである。
 
これは間違いない。
 
「夢を見る能力」の凄みが「夢を具現する能力」を引き寄せ、遂には、「第四の壁」を突き抜けて、スクリーンを介在する「虚構空間」を現出させてしまったのである。
 
しかし、それが「虚構空間」の世界であることを認識できたセシリアは、映像空間から出て来た本物のハリウッドスターに、「あなたは夢の世界の人なの。夢には惹かれても、現実を選ぶしかないの。お陰で楽しかったわ。一生、忘れないわ」と言って、現実の辛い世界に戻っていくに至る。
 
思うに、彼女の「夢を見る能力」の凄みは、「夢見効果」と化して、明日もまた、辛い現実を引き受けていく相応の残酷を、相当程度、希釈化させ、浄化させてくれる能力の凄みである。
 
その思いは、充分過ぎるほど理解できる。
 
しかし、その心理の本質は、辛い現実に自我が適応するための「防衛機制」である。
 
その一点において、ホーマーはセシリアと分れるだろう。
 
ホーマーの「夢を見る能力」の凄みは「防衛機制」ではなく、遥かに前向きでアクティブな感情傾向の発現である。
 
然るに、彼の心理の根柢には、科学コンテストで優勝すれば奨学金を手に入れ、それによって大学に進学できるという強い思いがあった。
 
「時には幸運な生徒が、アメフトの奨学生として町を出る。残りの連中は炭鉱で働く」(校長の言葉)という厳しい現実の中で、父の期待通りに、炭鉱夫の仕事を受け継がざるを得ない「暗黙のルール」への強い拒絶の意思。
 
この意思が、ホーマーの自我の根柢にあった。
 
ロケット作りに向かうホーマーのモチベーションは、このように、複雑に絡み合った感情傾向によって支えられていたのである。
 
だが、生憎(あいにく)、ホーマーには「夢を具現する能力」に欠けていた。
 
数学的・化学的知識の不足が、ロケット作りに向かうホーマーの夢を、単に、多くの少年少女がそうであるような「夢を見る能力」のフラットな次元に留めていたのである。
 
そんなホーマーの欠点を補ったのは、クラスで「変人」扱いされていた、数学・化学を得意にするクエンティンだった。
 
そのクエンティンから基礎的なレクチャーを受けるや、苦手な数学を主体的に学習していく行動を見せる辺りがホーマーの本領である。
 
「夢見」の快楽の枠内に収斂されないのである。
 
だから、彼は強いのだ。
 
「ロケット・ボーイズ」が犯した森林火災の原因を、三角関数を用いて導き出し、それを具体的な行動で数学的に立証して見せるエピソードに現れているように、苦手を克服するために、人一倍の努力を怠らないから、彼は強いのである。
 
最小の努力で最大の利益を得ようとする「最小努力の原則」は人間の本性だが、青年期初期に踏み込んでいたホーマーは、厳しい現実に直面して一時的に挫けても、「ロケットを飛ばすためには何でもやる」という強固な精神が内部で自壊することがなかった。
 
このような努力の集積が、ホーマーをして、炭鉱夫としての誇りを捨てない父との確執を解き放つや、一歩ずつ、確実に近接し、蓄電を加速させていった「夢を具現する能力」を決定的に炸裂させる。
 
「夢を具現する能力」に昇華させた「夢を見る能力」の凄み。
 
これもまた、是非・良否の問題を問わず、様々な人間の様々な「生き方」の推進力の一つである。
 

心の風景  「夢を見る能力」の凄みが「夢を具現する能力」を引き寄せ、蓄電し、炸裂する よりhttp://www.freezilx2g.com/2017/08/blog-post_22.html