江戸幕府・8代将軍吉宗が導入した足高(たしだか)制が、それである。
1723 年(享保8年)のことである。
諸藩も、この足高制を採用し、能力主義・業績主義の人事評価による人材登用が実践されていく。
加賀藩の歴史に名を残すこの大槻伝蔵もまた、元々の身分が足軽の三男に過ぎなかったにも拘わらず、能力主義による人材登用の結果、6代藩主・前田吉徳に重用され、厳しい倹約令や新税の制定などの尽力によって、財政再建に一定程度の実績を残したと言われている。
有能な下級武士を抜擢する能力主義が機能していたからである。
広く知れ渡っていることだが、江戸幕藩体制以前から、無能で手に負えない藩主を、家老らの合議によって監禁してしまう、「主君押込」(しゅくんおしこめ)というクーデターが強行される慣行が存在していた国なのだ。
そこだけは決して譲れない、特段の技能を身に付けて昇進するというシステム。
能力主義に基づく競争的な昇進システムが保証されていたのである。
保証されているから、心置きなく大好きな「仕事」に邁進し、益々、持ち前の才能を発揮していく。
その典型が、映画「武士の献立」で重要な役割を果たす男・西田敏行演じる、当代きっての「料理アーティスト」・舟木伝内である。
その舟木伝内について詳細に書いた陶智子(すえともこ/歴史家)の著書をもとに、以下、伝内の誠実な人となりを紹介したい。
加賀藩の料理人の組織である台所奉行の管轄で、「御料理頭」が置かれたのが1697年(元禄10年)。
「御料理頭」とは、料理方の最高地位のこと。
映画のラストナレーションで語られていたように、舟木安信が昇り詰めた地位である。
御膳奉行から料理頭・大工頭までを網羅する歴史である「諸頭系譜」によると、「御料理頭」に任じられた者は33名。
そして、その下位の「御料理頭並」に3名。
その3名の「御料理頭並」の中に、舟木伝内がいた。
初代の「御料理頭」を務めた「長谷川家」以外に常連と言える家はなく、この昇進システムが世襲的な役職ではなかったことが窺える。
この事実は、様々な外的要素の有無と無縁に、詰まるところ、「料理アーティスト」としての本人の実力なくして任命されることはなかったことを示している。
一切は能力主義次第なのだ。
また、この舟木伝内包草(かねはや/正式名)が、常々、安信に対して、「人に聞くこと」の大切を説いていたエピソードがある。
とても大切な人生訓である。
「謙虚」な態度を示す人生訓だが、そこには、自分の「情報量の多寡」だけに拘泥する「愚」を戒め、「情報の質」を重んじ、なお、真摯に精進しようとする努力家精神が垣間見えるのである。
現に映画でも、舟木伝内が、市で手に入れた菜(「明日葉(あしたば)」)の名称と、その作り方を春に聞きに行くシーンがあり、真剣に聞く伝内の表情が印象に残っている。
「恥ずかしながら、春どのに教えを乞いたいんだが…」
伝内は、そう言ったのだ。
それが「安信の嫁」と見込んだ行為であったとしても、それを含めて、相手が女中であるか否かなど、全く関心の埒外にあるということ。
伝内とは、そういう男なのである。
ひたすら、「料理アーティスト」としての本人の精進の風景が、そこに眩く照射されるのだ。
「書物を見た人に尋ねるべき事である。われ知り顔に途中をくくって済ましてしまうと、思ってもいない間違いが多く、恥をかくことが多い。人にものを問うことを恥と思う人がいる。それは間違いである。問うて一度の恥である。問わないのは末代までの恥という通りである」(「舟木伝内随筆」)
まさに、「聞くは一時の恥 聞かぬは一生の恥(損)」なのだ。
この伝内の言葉には、経験に裏打ちされたスキーマ(心理の枠組み)が読み取れるから、彼の人生訓の重量感がひしと伝わってくるものがある。
「料理役は、こころが卑しくては、やっていけない役職である。心が卑しいとき、人はすべてが卑しくなる」
これも伝内の言葉だが、説教臭さを感じることが全くない。
心の風景 「包丁侍」 ―― その真骨頂の凄み よりhttp://www.freezilx2g.com/2017/08/blog-post_17.html