何度でも「居場所」を替えて手に入れる「物語」への、小さくも捨てられない旅


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1   過分な夢などなくても、充分生きていけるのだ


 

 


かつて、私たちが村落共同体にその身を預けていた頃は、産まれたとき、既にもう、人生の先が見えていて、その一生のサイクルも見通せてしまったが、特に誰もそれに異議を唱える者はいなかった。


人は皆、それぞれの宿命を甘んじて受け入れていたのである。


周囲が皆そうであるように、自分が負うべき道を歩むことが自然な生き方であると信じた時代があったのだ。


人々の夢は、その循環的な人生の中で、せめてワクワクするような彩(いろど)りを、ほんの少しそこに添えることで、充分に価値ある何かが存在したのである。


だから、決して人々は、過大な幻想を抱くことなどなかったのだ。

 「人生の先が見える」


 そう言って、嘆く人々がいる。 


 就活に失敗して、嘆く若者にもいるだろう。


 大袈裟に言えば、髀肉之嘆(ひにくのたん)を託(かこ)つという心境で悶々とするかも知れない。


現代は、「人生の先が見える」現象を過剰に意識する時代であると言っていい。


誰が悪いのでもない。


無論、多くの場合、国民国家統治機構が悪いのでもない。


少しでも豊かになりたいと願う人々のごく普通の思いが、限りなく革命的なイノベーションの力学のうちに分娩された、新たな価値の創造が連射されていく時代の氾濫に収斂されていっただけである


「様々な『欲望』がせめぎ合う世界」


「今アメリカで、そしてフランスで、世界の景色が変わろうとしているのか?『決まらない、まとまらない』混迷を深める民主主義という制度。 様々な思いと思惑が錯綜する、『欲望の民主主義』の世界を考える思考の旅」


「『欲望の民主主義』~世界の景色が変わる時~」というテーマで放送された、BS1スペシャルでの番組内でのテーマ言及である。


思うに、現代社会において氾濫する情報が渦を巻き、それに攪乱されるで、「不安感」を弥増(いやま)していく。


情報革命が私たちの「分りにくさ」を生み出したという、このパラドックス


それでも、他人が入手している情報を、自分だけが所有できないという不安に耐えられず、何とかして、「確信」という名の幻想に縋り付くしかなくなっていく。


だから、様々なメディアがリードする情報の共通のコードに縋ることになる。


「分りにくさ」との共存を怖れる心理が、そこにある。


「知っていることと、理解することは別物だ」


ミヒャエル・ハネケ監督の言葉である。


このハネケ監督の言葉の重さを、私は大切にしたいと思っている。


現代社会で起こっている様々な厄介な問題に対して、私たちはもう、特定のイデオロギーや堅固な思想性によって説明し、解決し得る範疇を遥かに超えてしまっている。


「中国の文化大革命」の動乱期にあって、世界中の多くの知識人が諸手を挙げて礼賛し、太鼓を叩いていた現実を、私は今でも鮮明に覚えている。


世界の景色」のその先のイメージを持っていると自負する知識人は多いだろうが、正確に答えられる者が、果たしてどれほどいるだろうか。


「欲望の民主主義」・「欲望の資本主義」は、少しでも豊かになりたいと願う人々のごく普通の思いの、ごく普通の到達点の一つに過ぎないのだ。


人間の欲望の自己運動の凄みが、そこにある。


何もなかったら動く必要もなかったのに、新たな価値の創造を本当に具現してしまったら、人々は動き初めてしまうのだ。


人間とは、そういう性(さが)を有する存在体なのである。


そのスリリングな人間の欲望の自己運動の中で、あっという間に風景が変容する。


循環的な人生の中で、せめてワクワクするような彩(いろど)りを、ほんの少しそこに添えることで充足できた時代が壊れ、いつしか、多くの若者を、無茶な夢への具現に駆り立て、無理な努力に追い込んでしまう現象も出来するだろう


然るに、ここで勘考したい。


こんな時代の氾濫の渦中でも、いや、こんな時代の氾濫の渦中だからこそ、自分の身の丈に合った「物語のサイズ」を大事にしたいのである。


「人生の先が見える」


そう言って、嘆く必要などないではないか。


思うに、「人生の先が見える」とは、自分が負うべき環境の中で、せめて自分の能力を駆使して開く人生を通して、当然引き受けるしかない、自分の未来の確からしいイメージと出会ったということではないのか。

一体、そこに何の不都合があると言うのか。

無茶な理想への、無茶な努力を払拭し去ったリアリズムを引き受けることが、どうして味気ない、つまらない人生などと言えるのか。


そういう発想自体が、過剰な消費文化に搦(から)め捕られた人々の「幸福競争」の感覚であるという外にない。


この時代の氾濫の渦中にあって、人々は、周囲が皆そうであるように、自分もまた、時速500キロの「夢の列車」に乗り遅れたくないのである。


自分一人だけが、徒歩でテクテク動いていく惨めさだけは、まかり間違っても味わいたくないのだ。


他者の視線を必要以上に意識し、他者と比べながら生きていくしかない、「滑稽なる不合理」と切れないのである。


しかし、「夢の列車」への誘(いざな)いに呑み込まれず、其処彼処(そこかしこ)で自分の体温で呼吸を繋いでいる人々も存在するだろう。


人は、過分な夢などなくても、充分生きていけるのだ。


 

時代の風景 何度でも「居場所」を替えて手に入れる「物語」への、小さくも捨てられない旅  より抜粋http://zilgg.blogspot.jp/2017/05/blog-post_21.html