最強のふたり(‘11)  エリック・トレダノ 、オリヴィエ・ナカシュ <階級を突き抜ける友情、その化学反応の突破力>

イメージ 11  脊損の四肢麻痺に罹患する主人公の内面世界をフォローすることの意味



この映画は、「児戯性」を強調するためのエピソードのくどさに些か辟易したが、映像総体としては、「良い映画」(心に残る映画)であると評価している。

しかし、危さに満ちた映画である。

下手に読み間違えると、「格差社会を美化する」、「障害者差別に繋がる」などという指弾を受けるかも知れないからだ。

私はそうは思わない。

私の場合、目を皿のようにして、脊髄損傷の四肢麻痺に罹患する主人公の内面世界をフォローすることで、相当程度、腑に落ちるものがあった。

なぜ、本作の被介護者である大富豪は、スラム出身の黒人を介護者として選択したのか。

この極端な人物造形の設定が、初めからコメディの筆致で映像提示されているので、案外、スルーしやすいテーマであると思うが、物語は、大富豪がスラム出身の黒人を介護者として選択せざるを得ない心理的根拠を、その内面風景の浮遊感のうちに精緻に描き出していた。

以下、このテーマに沿って、梗概の重要な部分を追いながら、本作の批評に結んでいきたい。



 2  「障害者に対する同情心」という「邪気のない善意の押し売り」の遣り切れなさ



 「実話ベース」のこの作品は、殆ど幻想でしかない、被介護者が特定の介護者を自在に選択できるという、極めて特殊な設定なしに成立しない映画である。
 
介護者が空白になれば、豪邸の広い廊下に、応募する介護者のラインが形成される。

「私は70歳まで生きるそうだ。マッサージと薬とでね。費用はかかるが、私は金持ちだ」

本人のこの言葉のように、アッパークラスであるが故に、重度な脊髄損傷者という不治の疾病を持つ者のハンディを、金銭によって変換することが形式的、且つ、部分的に可能であった。


部分的に可能であったのは、以下の事象である。


WHO(世界保健機構)によると、「障害」の概念は,「インペアメント」(器質障害)を一次障害として、そこに起因する「ディスアビリティ」(機能障害)、更に、ディスアビリティによって蒙(こうむ)る「社会的ハンディ」という、障害の3つのレベルに峻別されている。
 
本作の被介護者である大富豪の場合、四肢完全麻痺の脊髄損傷によって、修復・再生されることが不可能な中枢神経系(脳と脊髄)の疾病それ自身が、一次障害としての「インペアメント」(器質障害)であり、これによって、運動、知覚機能、自立神経が致命的な障害を負うことで、「ディスアビリティ」(機能障害)が固定化されてしまう。

私自身も嫌というほど経験しているが、自立神経の障害は、排尿、排便、呼吸、血圧調節機能の機能障害を惹起する。

だから、「ディスアビリティ」(機能障害)を劣化させないために、リハビリテーションを必至にする。

幸いにも、被介護者が大富豪であったが故に、「朝7時に看護士が来て、3時間のケア」(大富豪の助手・イヴォンヌの言葉)が、自宅で充分に受けられたこと ―― これは、被介護者が特定の介護者を自在に選択できるという「富豪利得」であった。


更に、3時間のケアを、自腹で支払える経済的環境が保証されているから、「社会的ハンディ」を決定的に被弾する事態から回避されていたこと。
 
これが、四肢完全麻痺の脊髄損傷の被介護者のハンディを、金銭によって変換することが形式的、且つ、部分的に可能であったという限定的現実である。

そんな環境下で、パリに住むアッパークラスの被介護者が最終的に選択した介護者 ―― それが、スラム出身の黒人であったこと。

この特殊な設定は、物語としての膨らみを持たせていて、充分に映画的だった。

なぜ、友人の反対をも押し切ってまで、相手が「介護無知」であると認知しつつも、この大富豪がスラム出身の黒人を特定的に選択したのだろうか。

それは、応募してきた複数の介護者志望の理由を想起すれば、自ずと答えが出てくるものだった。   

「人を助けること」
障害者が好きです
障害者の自立と、社会参加を助けい」
「生きる喜びとか与えます。何もできない人に」

これらが、真面目な応答をする介護者志望の人たちの、一見、真っ当な志望理由であるが、そこに貫流される含意は、次の一言によって収斂されるだろう。

「障害者に対する同情心」という、心理的な俯瞰視線の「邪気のない善意の押し売り」である。

思うに、その「邪気のない善意の押し売り」が過剰に暴れることがない限り、特定他者の不幸に近接したとき、同情する言辞を相応に塗(まぶ)していく行為は、それによって付け込まれて失うコストよりも、「外見」、「態度」、「話し方」(メラビアンの法則)を柔和に結ぶ、人格像の良好なイメージをセールスすることで手に入れる、社会的適応戦略上のベネフィットの方が明らかに上回るだろう。

だから、人は大抵、「善き人」になろうとする。

しかし、その「善き人」が、重篤なる不治の疾病に煩悶する者の奥深い辺りにまで届き得る、最良の「身体表現力」を具現し得るとは限らないのである。
 
重篤なる障害者の自我の奥深いところで沈澱し、他者を寄せ付けず、死に隣接する孤独の瞑闇(めいあん)で浮遊する危うい情感系を解放すること ―― これが叶わなかったら、もう、被介護者にとって介護者の存在は、「邪気のない善意の押し売り」に満ちたパーソナルな存在以外の何者でもなくなっていくであろう。

大富豪にとって、「邪気のない善意の押し売り」をセールスする介護の味気ない風景を、散々見慣れてきているが故に、相互の心理的交流の濃度の希薄さに飽きてしまっていたと思われる。

「障害者は不幸で可哀想な存在」だから、「お世話」をしてあげるという発想の根柢には、「憐れみ」を言語化する自己に対する無自覚な、一定程度のナルシズムが隠し込まれている場合が多いのだ。

自分は憐れな障害者に、これほどまでに同情してるのだから、 その思いは通じているはずだ。

こんな自己基準の幻想に漬かっている現実に無頓着なので、「邪気のない善意の押し売り」を相対化できないのだが、それを咎めるほど、私たちは、「完全無欠」の人格像を立ち上げることなどできる訳がないのもまた真実である。

要は、「障害者は不幸で可哀想な存在」という、一面的で狭隘な把握から自由になること。

「心のバリアフリー」(「障害理解」)を確保することである。



3  介護者の「児戯性」を強調する、ジョークを越えたシーンの違和感



大富豪が選んだ黒人男性だけは、以上の文脈から完全に逸脱していた。

クール&ザ・ギャングとか、お薦めだ」
 
面接を担当する女性秘書・マガリーに、「推薦は?」と聞かれたときの答えが、アメリカのソウルバンド。

 「それなら、ショパンベルリオーズは?」
 
 今度は、傍らにいる大富豪の発問。

 「そっちこそ、どうなの?」と黒人男性。
 「造詣が深い」と大富豪。
 「誰を知ってる?何号棟の?」
 「何号棟?団地の名前じゃない。19世紀の作曲家、評論家だ」
 「知ってて冗談言った。音楽もユーモアも、両方疎いね」
 「書類は?」
 「俺が就職活動をした証明を。何でもいいから適当な理由を並べて。不採用を。3件で失業手当が出る」
 「なるほどね。他に人生の目的はないのか?」
 「あるさ。そこにいる。素敵な人生の目的が」

美しい女性秘書マガリーを見ながら、こんなジョークを放つ黒人男性。
 
彼は、失業保険の給付に必要な証明書だけが目当てなのだ。

「明日、9時に来たまえ」

 大富豪の意外な反応だった。

黒人男性の採用が、ほぼ決まった瞬間である。

 「人に頼って暮らすのは、気が引けないか?」
 「そっちこそ」
 「自分は働ける人間だと思うか?責任を持って働く能力があると?」
  「ユーモアあるね」  
  「君に1か月の試用期間を与えたい。どうだ?2週間持つまい」 

大富豪と黒人男性の翌日の会話である。

明らかに、黒人男性の知識不足と経験不足が露呈されていたが、「障害者に対する同情心」という、心理的な俯瞰視線の「邪気のない善意の押し売り」とは無縁であった。

偏見の欠片すら垣間見えなかったこと。

これが、黒人男性の暫定的な採用を決めた表面的理由である事実は、その後、明瞭になっていく。

ただ、黒人男性のその逸脱的な振舞いに、自分が今まで出会ったことがない異文化の新鮮な空気を感じ取ったのか、或いは、これまでの「被介護のフラットな生活」に少しでも風穴を開け、刺激を求める気持ちが働いたのか、この時点では不分明である。

しかし、「君に1か月の試用期間を与えたい」という、大富豪らしい合理主義的な説明には得心が行く。 

かくて、被介護者が特定の介護者を自在に選択できるという、極めて特殊な設定なしに成立しない、充分に映画的な物語が開かれるに至る。

四肢完全麻痺の大富豪の名はフィリップ。

クール&ザ・ギャングとかお薦めだ」と答えた、黒人男性の名はドリス。

 偏見の欠片すら垣間見えないとは言え、早速、「介護無知」のドリスの存分に不適応な仕事が始まるが、失敗続きでタメ口会話の連射に、被介護サイドの者たちが馴致していくしかなかった。

「朝7時に看護士が来て、約3時間のケア。これまでの人たちは1週間で逃げ出した」

ドリスと最も親しくなる、フィリップの助手・イヴォンヌの説明である。

 ここからドリスの「介護」が始まるが、とうてい彼には、フィリップの手足となるような獅子奮迅の働きなど望めそうもない。

ただ、ドリスの「介護」に関して気になった点があるので、ここでは、その点だけに言及したい。

脚用クリームと洗髪用のシャンプーを間違えて、使用人の介護士・マルセルに注意されるのは、ドリスにとって予約済みの介護の失敗譚として片付けられるが、しかし、以下の事例については些か看過し難かった。

その筆頭は、フィリップの感覚器官の麻痺を試すために、ポットを脚の上に乗せても、フィリップが反応しないのを見て、今度は熱湯を注ぐのだ。

フィリップの脚が赤く変色しても、痛みを訴えないことに驚くドリス。

「満足したか」

フィリップに、そう言われても、「感じないの?」と言って、ドリスが更に熱湯をかける始末。

たまたま入室して来たマルセルに、「何をやってるの!」と制止されて、「実験」と答えながら、「すげえな」と言って、再び愚劣な行為に及び、「やめなさい!」と厳しく叱咤されるというエピソードだった。

これは、麻痺の恐ろしさを映像提示するにしても、本人は痛くなくとも、皮膚が火傷する非常に危険な行為。

私自身も、右脚が感覚麻痺しているからなのか(ブラウン=セガール症候群)、このエピソードは、単にドリスの「児戯性」を強調するためのシーンであったとしても、明らかにジョークを越えてしまう印象を受けて、全く笑えないシーンだった。
 
このシーンを挿入した作り手の狙いが、麻痺の怖さを表現することではなく、後半のシリアスなシークエンスの「感動譚」にシフトする対比効果の大きさのための、フランス流のジョークの連射の一つのエピソードだったのではないか。

そうも思われるのだ。

ついでに言えば、この熱湯シーンで被害を受けるフィリップの脚が、運動機能を奪われた完全麻痺脊髄損傷者の、顕著な劣化による脚のか細さになっていなかったこと。

ここは、リアリズムで見せて欲しかった。

もう一つ。

私たちの日常行為である排便、排泄のシーンを簡単にスル―してしまったこと。

「男のクソ出しなんて。友達でもやらない。誰のクソでも断る。俺の主義だ。ストッキングだって嫌だったが、譲歩した。クソ出しは、そっちが譲歩してくれ」
「分った」

マルセルとの会話だけで、四肢麻痺脊髄損傷者の永遠の抵抗虚弱点である、排便、排泄という行為を、その後、ドリスが引き受ける簡単なカットの挿入があったが、その絵柄を全く見せることがなかった。
 
 
観る者が思わず目を背けたくなるような、四肢麻痺脊髄損傷者の肝心の日常性の描写を簡単にスル―してしまうのは、「ヒューマンコメディ」という枠組みによって無化されるものではないはずである。

この映画には、「豪邸」の中で呼吸を繋ぐ富豪の排便、排泄という、最も肝心な日常性の描写をスルーし、「汚物」のイメージの挿入を回避する構成上の意図が隠し込まれているのか。

排便、排泄こそ、「他者への絶対依存」なしに生きていけない彼らのストレスの、一つの典型的な事例であるからこそ、そこだけはコメディの筆致で逃げないで欲しかった。

その辺りが、私の最大の不満だった。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/最強のふたり(‘11)  エリック・トレダノオリヴィエ・ナカシュ     <階級を突き抜ける友情、その化学反応の突破力>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/03/11.html