1 自らが背負った負荷を昇華する高梨沙羅の「恐怖超え」
かくて、鮮度の高い競技に観る者を釘付けにする。
交感神経が振戦(しんせん・震えのこと)を起こし、消化機能を停止させ、膀胱を弛緩(しかん)し、心臓の心拍数を高め、血圧を上げ、瞳孔を開かせ、筋肉を刺激し、血糖値を上げることで身体運動を活発にさせていくのだ。
高梨沙羅は、シーズンごとの大会・スキージャンプ・ワールドカップでは勝利を重ねている一方で、オリンピックや、オリンピック以上に選手から重要視されていて、隔年開催の「世界選手権」(実力者が優勝するビッグイベント)といった大舞台(おおぶたい)で結果を出せないのだ。
典型例を言えば、直前のワールドカップで圧倒的な強さを発揮し、金メダル候補の筆頭として臨んだソチ五輪(2014)女子ノーマルヒルで、首位のカリーナ・フォークト(ドイツ)に3位で肉薄しながら、2回目のジャンプで頓挫し、結局、金メダルとは縁遠い4位に終わってしまった。
このソチ五輪から、向かい風ならポイントを引き、追い風だと加算する「ウインドファクター」(距離が出にくい追い風の不利の解消を失くすため)が導入されていたが、高梨のジャンプは「ウインドファクター」の加算点を考慮しても、メダルに届かない失敗ジャンプだった。
ワールドカップ通算53勝・歴代最多タイ記録保持者という、目が眩(くら)むような「単独行」の輝きが、平昌五輪が待つ2018年のシーズンに入るや、自家薬籠中の物(じかやくろうちゅうのもの)であったはずのリレハンメルでのワールドカップでは3位に留まり、結局、国内での札幌大会での2位が最高成績だった。
共に、一気に力を付けてきた欧州勢である。
高梨沙羅はインタビューの中で、悔しさを吐露しながら、喜びを隠し切れなかった。
今回もまた、「ウインドファクター」に翻弄され、刻々と天候が変わる苛酷な〈状況〉下で、「五輪」という魔物が棲む「戦場」が醸し出す、一種異様な空気に搦(から)め捕られつつ、必死に踠(もが)きながら、どうしても手に入れなければならない「特別の価値」を奪い取ったからである。
色は何でも良かった。
そんな彼女に、私は最大級の賛辞を惜しまない。
2回目の安定的なジャンプの着地後、高梨は笑顔でガッツポーズし、チームメートの伊藤有希(ゆうき・女子スキージャンプ選手)と抱き合ったが、このパフォーマンスの中に、彼女の「平昌五輪」の本質が率直に表現されているように思える。
「目標にしていた金メダルには届かなかったんですが、最後の最後に渾身(こんしん)の、ここにきて一番いいジャンプが飛べた。なにより日本のチームのみんなが下で待っていてくれたのがすごく嬉しくて。結果的には、金メダルをとることはできなかったですけど、自分の中でも記憶に残る、そして競技人生の糧になる、すごく貴重の経験をさせていただいたと思います。(略)やはりまだ自分は金メダルをとる器ではないとわかりました」(「ハフポスト日本版ニュース 2018年2月13日」)
このインタビューの中で重要なのは、「自分は金メダルをとる器ではないとわかりました」という発言である。
だから、「平昌五輪」が「競技人生の糧」になる。
「今・ここ」から再出発する。
前述したように、恐怖を感知したとき、人間は「逃走」を回避し、「闘争」に立ち向かう。そこで、自らを囲繞する「脅威的状況」を突破していく。
「キレイにしていることで、自信になるというか(中略)化粧をすることで、こう、スイッチが入るというか」
私には、彼女の気持ちが透けて見えるようだ。
化粧行動が、自らを変えていくのだ。
「競争的偶発性」の純度を高めるまで構築されていく近代スポーツの宿命は、決して勝敗に拘泥(こうでい)しない、ジョギングのような「レクリエーションスポーツ」や、「自由自在」の「遊び」にまで下降せず、多くの場合、競技そのものが「恐怖超え」を必然化してしまっているのである。
スポーツの風景 「平昌五輪」 ―― 近代スポーツの宿命と結晶点 よりhttp://zilgs.blogspot.jp/2018/03/blog-post.html