「平昌五輪」 ―― 近代スポーツの宿命と結晶点

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1  自らが背負った負荷を昇華する高梨沙羅の「恐怖超え」
 
 
近代スポーツは、好奇心に睦み合うように作られていく
 
そこで作られた新種のスポーツは、時代の鮮度が削(そ)がれることがないように、万全のルール作り、「より面白く」・「より緊張感保証」、観る者と一体化する競技を構築していく。
 
 
かくて、鮮度の高い競技に観る者を釘付けにする。
 
大脳辺縁系が感受した刺激的情報が、瞬時に、間脳に位置する視床下部に伝達されるや、副腎髄質ホルモンが分泌される
 
視床下部が交感神経系に命じ、この副腎髄質ホルモンからアドレナリン(不安の除去)とノルアドレナリン(恐怖の除去)が分泌される。
 
また、副腎皮質刺激ホルモンも分泌され、コルチゾール(脳の海馬を萎縮させる)という「脳内ホルモン」=神経伝達物質に伝達され、血糖値を上げることで身体運動を活発にさせていく。
 
交感神経振戦(しんせん・震えのこと)を起こし、消化機能を停止させ、膀胱を弛緩(しかん)し、心臓の心拍数を高め、血圧を上げ、瞳孔を開かせ、筋肉を刺激し、血糖値を上げることで身体運動を活発にさせていくのだ
 
感情の生理過程に収斂され、自律神経系(特に交感神経系)の活動よって生み出される現象は、人間の体内の本能構造の所産である
 
この生理過程において、恐怖を感知したき、人間「逃走」を回避し、「闘争」に立ち向かうことで、自らを囲繞する「脅威的状況」を突破ていくある。
 
考えてみると、数多(あまた)のアスリートにとって、競技そのものが恐怖「脅威的状況」
 
 
競技そのものが、恐怖=「脅威的状況」に囲繞されアスリートことを。
 
女子スキージャンプ選手・高梨沙羅(株式会社・クラレ/以下、敬称略)である。
 
高梨沙羅は、シーズンごとの大会・スキージャンプワールドカップでは勝利を重ねている一方で、オリンピックや、オリンピック以上に選手から重要視されていて、隔年開催の「世界選手権」(実力者が優勝するビッグイベント)といった大舞台(おおぶたい)で結果を出せないのだ
 
典型例を言えば、直前のワールドカップで圧倒的な強さを発揮し、金メダル候補の筆頭として臨んだソチ五輪(2014)女子ノーマルヒルで、首位のカリーナ・フォークト(ドイツ)に3位で肉薄しながら2回目のジャンプで頓挫し、結局、金メダルとは縁遠い4位終わってしまった。
 
ソチ五輪から、向かい風ならポイントを引き、追い風だと加算する「ウインドファクター」距離が出にくい追い風不利の解消を失くすため)導入されていたが、高梨のジャンプは「ウインドファクター」の加算点を考慮しても、メダルに届かない失敗ジャンプった。
 
明らかに、高梨「メンタル面の脆弱さ」露わになった失敗ジャンプの現実推して知るべしという印象を拭(ぬぐ)えなかった。
 
そのことソチ五輪、打って変わったような高梨ワールドカップでの連覇記録の破竹(はちく)の勢いが、雄弁に物語っていると言える。
 
ワールドカップ通算53勝・歴代最多タイ記録保持者という、目眩(くら)むような「単独行」の輝きが、平昌五輪が待つ2018年のシーズンに入るや、自家薬籠中の物(じかやくろうちゅうのもの)であったはずのリレハンメルでのワールドカップで3位に留まり、結局、国内での札幌大会での2位が最高成績った。
 
因みに、平昌五輪で、女子個人ノーマルヒルを優勝したのは、マーレン・ルンビ(ノルウェー)、銀メダルはカタリナ・アルトハウス(ドイツ)。
 
共に、一気に力を付けてきた欧州勢ある。
 
そんな強敵揃いの中で平昌五輪の銅メダル。
 
高梨沙羅はインタビューの中で、悔しさを吐露しながら、喜びを隠し切れなかった。
 
今回もまた、「ウインドファクター」に翻弄され、刻々と天候が変わる苛酷な〈状況〉下で、「五輪」という魔物が棲む「戦場」が醸し出す、一種異様な空気に搦(から)め捕られつつ、必死に踠(もが)きながら、どうしても手に入れなければならない特別の価値」を奪い取ったからである。
 
高梨沙羅にとって、「メダル」という、直径数センチ大の円形の延べ板は、珠玉なる「特別の価値」以外の何ものでもなかった。
 
色は何でも良かった。
 
「銅メダル如き」と言って、当て擦(こす)る者いてもそんな雑音などどうでも良かった。
 
 
それだけった。
 
雪辱を果たした風景先に、もっと価値のある特別の、言葉にらないような、体全体で感じる微妙な感覚・「フェルトセンス」ような、未知なるゾーンが待っていかも知れない。
 
う、信じることで充分だったではないか。
 
リアルに言えば、高梨沙羅の「平昌五輪の意味は、それだけったのだろう。
 
そんな彼女に、私は最大級の賛辞を惜しまない。
 
2回目の安定的なジャンプの着地後、高梨は笑顔でガッツポーズし、チームメートの伊藤有希(ゆうき・女子スキージャンプ選手)と抱き合った、このパフォーマンスの中に、彼女の「平昌五輪」本質が率直に表現されているように思える。
 
「目標にしていた金メダルには届かなかったんですが、最後の最後に渾身(こんしん)の、ここにきて一番いいジャンプが飛べた。なにより日本のチームのみんなが下で待っていてくれたのがすごく嬉しくて。結果的には、金メダルをとることはできなかったですけど、自分の中でも記憶に残る、そして競技人生の糧になる、すごく貴重の経験をさせていただいたと思います。(略)やはりまだ自分は金メダルをとる器ではないとわかりました」(「ハフポスト日本版ニュース 2018年2月13日」)
 
このインタビューの中で重要なのは「自分は金メダルをとる器ではないとわかりました」という発言である。
 
他人に言われるまでもなく、高梨沙羅は、「メタ認知能力」(自己を客観的に把握する能力)の欠如である「対自己無知」(自分が分らない)ではない。
 
だから、「平昌五輪」が「競技人生の糧」になる。
 
「今・ここ」から再出発する。
 
そんな覚悟を言語化したのである
 
前述したように、恐怖を感知したとき、人間は「逃走」を回避し、「闘争」に立ち向かう。そこで、自らを囲繞する「脅威的状況」を突破していく。
 
多くのアスリートにとって、競技そもの恐怖=「脅威的状況」である
 
思えば、高梨沙羅には、「五輪」という魔物が棲む「戦場」そのものが、恐怖=「脅威的状況」った。
 
彼女ソチ五輪で、「競争的偶発性」という近代スポーツの宿命に嵌ってしまったである。
の後、周囲の揶揄(やゆ)に抗して、彼女は化粧を意識するようにった。
 
「キレイにしていることで、自信になるというか(中略)化粧をすることで、こう、スイッチが入るというか」
 
れは、報道ステーション」(テレビ朝日系)での高梨沙羅の言葉。
 
私には、彼女の気持ちが透けて見えるようだ。
 
他者への関心を前提する化粧行動を通して、自分の印象適正に管理し、充分に視覚な自己表現を果たしていく。
 
その化粧行動によって、高梨が手に入れる第一義的な価値は自尊感情の強化である。
 
この高梨沙羅自己表現の本質は、非攻撃的で、適度な自己主張としての「アサーション」であると言っていい。
 
 
化粧行動が、自らを変えていくのだ
 
差別的なセクハラ行為含みを持つ化粧行動それ自身が、様々な他者の視線浴びることになるので、承認欲求を満たす一方で、鋭角的な視線の恐怖に馴致(じゅんち)ることで免疫耐性を強化していく。
 
そして、それ以上に、化粧行動の自立性が、「スイッチが入る」精神状態を作り出す
 
この精神状態が自尊感情の強化に繋がるのだ
 
だから、高梨沙羅の化粧行動が、視覚的な自己表現をも超え、適度な自己主張としての「アサーション」と化す
 
「競争的偶発性」の純度を高めるまで構築されていく近代スポーツの宿命は、決して勝敗に拘泥(こうでい)しない、ジョギングのような「レクリエーションスポーツ」や、「自由自在」の「遊び」にまで下降せず、多くの場合、競技そのものが「恐怖超え」を必然化してしまっているである
 
高梨沙羅の自我が、「ソチ五輪」から「平昌五輪」までの4年間に、自らが背負った負荷を昇華するは、この「恐怖超え」を突き抜けていかねばならなかった。
 
それが、高梨沙羅の「平昌五輪の全てだったのではないか。
 
私には、そう思われてならないである


スポーツの風景 「平昌五輪」 ―― 近代スポーツの宿命と結晶点 よりhttp://zilgs.blogspot.jp/2018/03/blog-post.html